![]() written by 咲蘭 story 6 : 雨上がり |
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日付が変わる時刻はとっくに通過したらしい。もう、マヤは時計も電話の着信も気にすることを止めた。大雨の夜以来、真澄とは会うことが出来ないでいる。たった数日前のことなのに、あの夜の出来事は、夢でも見ていたかのように確かな感覚が無く、自分で強く繋ぎ止めておかなければ、あっという間に幻の海の中に沈んで消えていってしまいそうな、そんな儚い気さえする。高層階のマンションの大きな窓から臨む地上は、黒と光のコントラストがしとしとと濡れている。 昨日の、いや日付が変わったからもう一昨日になる。2日の夕方、一度真澄の携帯電話に勇気を出して連絡を入れてみたが、数度のコールで留守番電話に繋がり、思わず電話を切ってしまった。だって、なんてメッセージを入れればいいのだろう。明日は速水さんのお誕生日だから、だから……。それ以上のことを自分は言える立場にあるのだろうか。あの夜、あれが幻でなければ、真澄は自分に向かって愛していると言い、強く抱き締めてくれたはずだった。だからといって、真澄は相変わらず間もなく紫織と結婚する立場にあることに変化は無いし、誕生日ともなれば、婚約者と一緒に過ごすのが世の中の常というものだろう。 マヤは自分の殺風景な部屋を見回す。照明を落としたダイニングのテーブルには、さっき飲んだヴォルビックのボトルが滴を残してぽつんと置いてあり、リビングのサイトボードには自分が外したブレスレットとホワイトパールの携帯電話が無造作に投げ出されている。部屋の中はまったくいつもと変わりなく、どこにもお祝いらしき物が無いことに、少しほっとする。もしも、得意でもないのに料理なんてして、銘柄もよく知らないのにワインなんて用意していたら、きっと途方もなく悲しくなる。自分を守る術がずいぶん上手になったと思う。思えば、あの手紙を書いた頃から、やっと自分の守り方がわかったような気がする。わざと距離を置く方法を。距離を置き、孤独という寂しくて、それでいてやけに都合のいい、居心地の良い場所に身を寄せる方法を。 それなのに。マヤは生成色のクッションを抱き締める。それなのに、神様はなかなか残酷だ。叶うわけがない想いを通じさせておいて、こんな夜もまた平気で過ごさせてくれる。いっそあの夜のことは、記憶を繋ぎ止めている手を離して、雨降りが見せてくれた幻だったことにしてしまおうかとさえ思ってしまう。弱いな、と呟く。 携帯電話が紫色のライトを点滅させ振動を始める。震える携帯電話とサイドボードの天板が細かくぶつかり合い、軽やかな着信音よりも遥かに心臓を潰す音を発する。マヤはびくりと肩を上げ、明るく光るサブディスプレイを凝視する。流れていく文字。 ───速水さん まさか。まさか、電話を掛けてくるとは思わなかった。本当は、電話を掛けて欲しいと思っていた。半ば混乱したまま慌てて携帯電話を掴み、通話ボタンを押し、耳にあてる。咄嗟に声が出ない。 『マヤ…?』 「…は…はい…」 『……寝てたのか?こんな時間に、すまないな』 僅かに笑みの含まれた真澄の、声。 「寝てません。起きてました」 投げられたボールを、何の意図もなく投げ返すような自分の声。 電話の向こうの真澄の声は、直に聞くよりも何倍も柔らかく届く。 『…今から、逢いに行ってもいいか?』 逢いに行ってもいいかなんて、そんなの、いいに決まっている。けれど、マヤはすぐには返事ができない。わざと距離を置くべきだと、エラーサインが頭のどこかで点滅を始め、それでも否とも言えずに口ごもってしまう。 『…逢いたい』 『マヤに…逢いたいな』 囁くような、唄うような、真澄の声。胸をざわめかせる声。それは、まるでマヤを包む孤独という闇の向こうから届くような声で、闇の雲間から差し込む光のようで、マヤは愛おしさのあまり、真澄を抱き締めるように携帯電話を握りしめる。泣けるほどの優しさを内包して真澄の声がマヤの体内に入っていく。 『マヤの顔が見たいんだ…』 そうだ、きっと真澄も、自分と同じように何もかもどうしようも出来ずに、居心地の良い孤独に逃げるように身を寄せていたんだと、やっとマヤは気付く。ふたりは同じだった。だからこそこんなにも優しい。逢いたいと、素直にその言葉を届けてくれる真澄は、もう孤独に逃げ込む必要は無く、その言葉を届けられ、受け取ることのできる自分もまた、もう逃げ込むことはない。そう思っていいんだ。じんわりと胸の奥からあたたかな想いが溢れてくる。 逢いたい。いますぐに、ずっと、いつでも、逢いたい。 お互いの想いを確かめ合った後にもなお、いつまでも注意深く、頑なに心に掛けていた鍵をゆっくりと開く。解放された、と思った。 ……本当は、ちゃんとお祝いが言いたかった。 速水さん、お誕生日おめでとう。 初めて、おめでとうって言えましたねって。 「…逢いに来てください。あたしも、速水さんに、逢いたい…」 ![]() インターフォンの音を合図に部屋のドアを開けると、トレンチコートにたっぷりと雨の空気を含ませて真澄が立っていた。なんとなく照れくさくて、マヤは真澄をドアに入れると、先に部屋に入ろうとする。 「マヤ」 振り向くと、唇が重なった。驚いたけれど、きつく抱き締める真澄の腕から逃れる術もなく、逃れる意志もなく、そのまま玄関で立ちつくしたままキスをする。真澄の冷えた唇は、やがて熱を帯びてマヤをいとも簡単に膝から脱力させてしまう。真澄はマヤを軽々と抱き上げるとリビングに向かうけれど、キスは止めない。 ソファにマヤを座らせると、ようやく唇を離し、マヤの胸に顔を埋め抱き締める。まるで縋り付くように。 「…速水さん…?」 「…少しの間でいいから、このままで…」 真澄が自分に抱き付いている様子を上から眺め、そのあまりにも見慣れない状態にマヤはどうしていいやら困惑してしまう。けれど、真澄の呼吸する背中が、真澄が今生きていて、そしてマヤを心から必要なのだと雄弁に語っているようで、マヤはいいようのない愛しさを覚え、思わず真澄の背中を抱き締める。お互いの心臓の音を交換する。この場所以外にありえない。真澄の柔らかな髪を指でそっとかきまぜながら、マヤは真澄のこの場所こそ自分のいるべき場所なのだと思う。真澄もそう思っていてくれたら、幸せだと。 「…婚約を解消する。長い時間はかからない。そういう動きを、今、している」 マヤの胸で呟くように言う。真澄が婚約を解消しようとしている。真澄の婚約は、マヤのいる場所とはまるで遠い世界のことで、どんな思惑が絡みあっているのかさえ想像できないことだけれど、男女が別れるだけの話とは違うことぐらいはマヤにもわかる。解消などと言葉で言うほど簡単に済む話では無いことだけはわかる。 「…あのっ…」 何を言おうとしたのか、マヤ自身よく整理が付かずにそれ以上の言葉を続けられずにいると、真澄が顔を上げ、笑った。瞳の奥から優しさが溢れてくるような笑顔で。 「大丈夫。きみは何も心配しなくていい。もちろん心配してくれたら嬉しいが、それだけでいい」 真澄がこの笑顔で大丈夫だと言うのならば、きっと大丈夫なのだろうと、何か根拠があるわけでも無いのに、その一言だけで救われていくような気がする。真澄のことがとても好きだと思う。 紫織の微笑みが脳裏に浮かぶけれど、今、紫織について自分が何かを述べることは、全てが偽善になってしまうような気がして、マヤは何も言えなくなる。だから。 「…みんな。…みんな、幸せになれたらいいね…」 それだけを言う。みんな、幸せになれたらいい。誰かが、誰かのために、苦しい思いをすることは悲しい。たくさんの人が生きている以上、避けられないことなのかもしれないけれど、でも、心から、そう思う。みんな、幸せになれたらいいのにと。 真澄は俯くマヤを抱き寄せ、その耳に軽やかなキスをひとつ落とす。 それから、首筋にも、胸元にも。 大丈夫。きっと、うまくいく。そう囁きながら。 くすぐったくて、ついに笑ってしまうマヤと一緒にくすくすと笑い合い、それから、マヤも真澄にキスを贈る。 お誕生日おめでとう。 囁きながらキスをして、もう一度、一緒に笑う。 やがて窓の外は夜明けを迎え、 東の空の雲間から朝日が光のカーテンを作る。 天使の階。 雨が、止んだ。 |
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