雨ふりのあとで

  written by 咲蘭  


story 5 : 霧雨










鷹宮家は細やかな霧に煙っている。
11月3日、紫織が真澄の誕生祝いの食事会を催すとの招待を受け、蒼い夕刻、鷹宮家を訪問する。真澄は車寄せから傘を差し掛けられながら玄関へと向かうが、霧雨はふわりと風に舞い、傘など問題にせず、真澄の三つ揃いのスーツに繊細なヴェールを作った。

居間ではなく、紫織の客間に通される。音のない雨。屋敷の中は不必要な音は一切しない。庭の緑が雨を含み、薄闇の中仄かに浮かび上がっている。空気がしんと鎮まり、耳の奥に圧迫感を感じた。

やがてアールデコ様式の扉が開かれる。同時に停滞した空気に流れができ、真澄は息をつく。茶器を携えた紫織ゆっくりと部屋に入る。ベージュの柔らかで上質な素材のワンピースに身を包んだ紫織の、真澄への眼差しはどこか遠い。湯気を上げるケトルを持ったメイドはそれを置くと、黙礼して部屋を出て行った。

「真澄さま、ようこそいらっしゃいました」

「いえ…。わざわざお気遣いくださって恐縮です」

真澄のどこまでいっても他人行儀な挨拶に紫織は寂しげに俯いて、それから諦めたように小さく笑い、丁寧に紅茶を淹れ始める。

「たまには紅茶もよろしいでしょう?わたくしが淹れる紅茶は、お爺様にも父にも珍しく好評ですの。真澄さまにも召し上がって頂きたかったのですわ」

温められたポットに茶葉を入れ、ケトルから湯がたっぷりと音を立てて注がれると、湯気が勢い良く立ち昇った。
婚約は解消する。今日が鷹宮に切り出す日だと狙い定めている。そのためにあの大雨の日からの数日の時間を、まずは秘密裏に企業間に生じるであろう歪みを解決するために動いていた。全ては、自分の甘さが招いた結果であり、全ては自分が動かなくてはならない。生臭い思惑が絡み合う双方の家と企業同士の計画。個人の感情だけで動くことなど許されない。下手をすれば破綻する。自分一人だけ破綻するぶんには、笑って済まされるが、ことは全社員に影響する。提携事業の行方、鷹通側の出方、財界内での動き、大都側の思惑、負債の補填。解決すべき懸案は山積しているが、山は高いほど制覇した時の喜びがある。結局のところ、どの山も思惑の絡んだ人間が蠢き、腹の探り合いを行っている。要は、その人間達をどうこちらの思う通りに動かすかが問題なのだ。既に見通しは立てた。問題解決までの筋道は見えている。
だが、それとは別のところで、紫織とも、話し合わなくてはならない。家と企業同士と真澄の意志と思惑の狭間に、厭が追うにも立たされてしまうのは紫織なのだ。自分の甘さ故に紫織を巻き込んでしまったことを深く悔やむ。

「実は、…紫織さんに大事なお話があります…」

いつになく強ばった声に、ポットに蓋をして細く上がる湯気を眺めていた紫織が顔を上げ、真澄を穏やかに見つめながら言う。

「難しいお顔をなさっておいでですのね。今日は真澄さまのお誕生日のお祝いですのに。…わたくし、とびきりの贈り物をご用意しておりますのよ…」

「紫織さん」

「真澄さまがどうしたらお喜びになるか、…わたくし、ちゃんとわかっていたのですわ」

自分自身に言い聞かせるように呟く紫織を、真澄は訝しげに見る。

「…さ、お話になって。大事なお話を」

「紫織さん…?」

「そのお話を伺うために、今日はお呼び立てしたのですわ。真澄さまは、きっと、わたくしにお話したいことがあるだろうと思いましたのよ。そのお話を伺って、承諾することが、真澄さまにとって、最高の贈り物なのではなくて?」

ポットから芳醇な香りとともに、紅茶茶碗にお茶が注がれる。ふわりと湯気が舞う。目の前に置かれた紅茶茶碗を、真澄はどことなく戸惑いながら手に持ち、口に運ぶ。紫織と向き合ったまま、ふたりとも静かに紅茶を啜った。立ち上る湯気だけが空中で混ざり合っている。真澄の湯気には戸惑いが含まれている。

「紫織は何も知らない世間知らずな人間だとお思いでした?
…それを否定はいたしませんけれど、でも、わたくしもたくさんの人間を見て参りましたわ。お爺様や父のような人間には、いろんな種類の人が近づいてきますもの。お爺様はそんな生々しい人間模様など滅多に表沙汰にすることはございませんけれど、でも、わたくしなりに、幼い頃からそれも含めて観察して参りましたから、少しは人を見る目も養われておりますのよ」

紫織の言わんとしているところが、輪郭を帯びてくる。

「真澄さまはマヤさんがお好きね。おそらく、わたくしと出会うずっと以前から、とても、……とても大事に想っていらっしゃるのだわ」

「…紫織さん…!」

「それから、マヤさんも…。マヤさんも、真澄さまに苦しいほどの恋をされている…。真澄さまは、とうとうそれにお気づきになってしまわれたのね」

真澄は言葉もなく紫織を見つめる。驚いていた。まさか紫織が自分とマヤが秘めていた想いを知っていたとは思わなかった。お互いに、つい先日まで気付かなかったというのに。苦笑するほかない。我が洞察力を疑う。それから、判断力も。まったく自分は今までマヤの何を見て、紫織の何を見てきたのだろう。

「僕はどうやら、とても愚鈍な人間のようですね。…驚きました。あなたはもう僕の申し上げたい話をご存じでいらっしゃるようだ」

「ふふ…。だって、真澄さまがおっしゃってくださったように、真澄さまだけを見て参りましたもの…」

僅かに紅茶茶碗を持つ指が震えながらも、目はしっかりと真澄を見据えている。耐えているのだ、この時間を。避けようと思えばいくらでも避けられたこの時間を、紫織は逃げずに耐えようとしている。それならば、やはり自分も真っ直ぐに紫織と向き合うべきだと真澄は思う。

「飾り立てた言葉で誤魔化すことは失礼なことですね…。
確かに、僕は北島マヤを愛しています。紫織さんとは婚約を解消させていただきたいと、そう思っています」

嘘偽り無き真澄の言葉を、紫織は揺れる紅茶の水面を必死で睨み、飲み込もうと努力する。この言葉こそ、真澄の言葉だった。いままでの優しさだけの言葉は、偽りでこそ無くても、真実の言葉では無かったのだ。真実には、なんて澄み切った残酷さがあるのだろうと紫織は思う。真澄から欲しかったのは紛れもない真実だった筈なのに、いざ手にしてみると、これほど苦しいものだったとは。

「あなたと婚約したことは、全て僕の至らなさが招いた結果です。紫織さんには、心から謝罪するほかありません」

「わたくしと婚約したことは、誤りであったと、そうおっしゃるのですね…」

下唇を噛み締めながら必死で笑顔を作る紫織に、真澄は返す言葉もない。

「…誤りは訂正しなくてはいけませんわね」

紫織は立ち上がり、窓辺に向かう。窓の外はいっそう闇が深くなり、窓から零れる光が庭木をおかしなほどリアルに見せている。
霧雨は今も静かに舞っているようだった。

「わたくしね、マヤさんが嫌いでしたの。だって、真澄さまの婚約者は紛れもなくわたくしですし、わたくしも真澄さまをお慕いしておりますもの。嫌いになっても不思議ではないでしょう?
…それでね、ちょっと意地悪をいたしましたの。わたくしの幸せを彼女に見せつけてあげようと思ったのですわ。
それで真澄さまを諦めてくれたらと。真澄さまの他に幸せを求めてくれたら…と、半ば祈るような気持ちで…」

別に紫織を人形だと思ったことはない。紫織も血の通った人間だということは、よく分かっていたつもりだった。けれど、たぶん実際は、人形相手の関係しか結ぼうとしていなかったのかもしれない。ビジネスを円滑に進めるための象徴としての人形。マヤへの叶わぬ想いから逃げ出すための空虚な場所。こんな紫織の表情を見るのは初めてだと真澄は思う。幼い子どもが悪戯を告白するようなあどけなさと、人間臭さ。人形にはない、ひとりの人としての紫織。

「先日の大雨の日。偶然、傘が無くて困っているマヤさんを見つけて、スタジオまでお送りして、少し強引に撮影を見学させていただきましたの。あくまでも、この世で一番幸せな真澄さまの婚約者として」

紫織は深い溜息をつく。それから目を瞑って何度か大きく横に首を振った。胸元の巻き髪が遅れて揺れる。

「マヤさん、わたくしの目の前で真っ青に青ざめて、震えながら倒れていきましたの。…まるでスローモーションを見ているようでしたわ…」

紫織の目蓋の裏には、マヤが倒れていく映像がまざまざと流れているに違いなかった。肩を小さく震わせ目蓋を開くと、真澄に視線を戻す。

「…怖かった…。きっとわたくしの意地悪が原因ね。わたくしのせいで彼女が死んでしまったらどうしようかと、とても怖くてしょうがなかった…。不吉なことをたった一瞬で想像してしまった。真澄さまがあんなにも愛していらっしゃる彼女が死んでしまったら、きっと真澄さまも生きてはいかれませんでしょう…?真澄さまはきっと一生私をお許しにならない…」

「紫織さん…」

「わたくしのせいで、そんなことになったら、わたくしもきっと生きてはいかれませんわ…。だから、マヤさんが意識を取り戻してお元気になられて、とても安堵いたしましたの。意地悪なんて、本当にやるものではございませんわね」

寂しげな笑みだった。おそらくもう全てを悟って、どうするべきかも全て心得ているのだ。取り乱しもせず恨み言を言うでもなく、淡々と語る姿は、潔くいっそ哀れで、真澄はなおのこと、事ここに至るまで動けなかった不甲斐なさを悔やむ。今、自分が紫織に出来ることは、真実をもって対峙すること、この婚約解消による負のイメージは全て自分が被ることだと改めて肝に銘じる。

「病院での真澄さまったら、あんなに取り乱されて、マネージャーの方もすっかり萎縮なさって。いけませんわ、殿方が女性にあんなふうに声を荒げては。それに、マヤさんが病室から出ていらした時の真澄さまのあのお顔ったら…。ふふ…もうあの顔を拝見してしまったら、わたくしも決心しないわけには参りませんわ。…もう是非もございませんわね」

冷静でポーカーフェイスな男だと、人に言われるまでもなく、自分でもそうだと思ってきた。むしろ、敢えて気持ちをあからさまに表すことは避けていた。だが、マヤが相手では、脆くもポーカーフェイスなど崩れ去ってしまうらしい。どこまで行っても愚鈍なことだと真澄は思う。マヤの前でだけ、やっと太陽を浴びた小さな芽のように、正直に生きられる。太陽の光や暖かさを感じなければ、瞬く間に死んでいくのだ。
身勝手にも疎ましくさえ思っていた紫織に対して、今は感謝の言葉しかない。たとえば、思い上がったこの自分だけを見てくれたことに感謝して。目を反らしたい事実を真っ直ぐに受け止めてくれたことに感謝して。この時間に耐えたくれたことに感謝して。

「紫織さんに対する僕の不誠実な態度や、婚約までしていただいたことに、なんと謝罪したところで許されるものではありませんが、ただ…今は、心から感謝しています」

感謝などと。感謝とは、なんて絶望的に最終地点に到着してしまった言葉なのだろう。その先は一歩も無い。紫織は唇の両端を上げて笑顔を作る。きっとこの先、無理に続けていこうとしたところで、全てが歪んで絡み合って行くばかりなのだ。そのぐらいのことは、わかる。

誰かがこの選択を嗤うだろう。鷹宮の娘ともあろう者が、愛だの恋だのと言い出して結婚を取りやめるなどと馬鹿げている。どんなに冷えた夫婦関係であろうとも、家同士の未来を背負った結婚ならば、最期の時まで添い遂げるべきだろう、鷹宮の娘ならば、と。
逃げたと嘲笑されるなら、それでもいい。この別れは真澄のためのものではなく、自分自身のためなのだから。真実で向き合って、大事な想いを交わし合える、そんな相手といつか出会いたいのだと紫織は心から思う。そう、この真澄とマヤのように。
もう婚約者として逢うことはないけれど、でも、真澄に恋をしたことを誇れる自分でいたい。すべてを受け入れて。

「私、あとは存じ上げませんわ。難しいお話は父やお爺様となさってくださいませね。わたくしにできる贈り物はここまでですもの。
それから、これ。お返しいたしますわ。わたくしの指に良く似合っておりましたのに、残念ですけれど」

まるで悔やまれることはこれだけだとばかりに、名残惜しげに左の薬指からダイヤモンドの指輪を外すと、大理石のテーブルにそっと置いた。カツンと小さな音が客間の高い天井に響いた。

「…さあ、そろそろ食事の用意も整った頃。お爺様や両親が待っておりますわ。…なかなかエキサイティングなバースディディナーになるとお思いにならなくて?」

「まったくです。こんな風に話を直接切り出す機会は滅多にない。紫織さんには話し合いの場を提供していただいたことにも感謝しなくてはいけませんね」

真澄は、目の前に置かれた指輪を胸のポケットに入れ、微笑を浮かべる。

「味わい深い紅茶でした。この紅茶の香りも味も、僕はきっと一生忘れないでしょう」

「……さようなら。また、いつかどこかで。真澄さま」

「…また、いつかどこかで」

それから客間に紫織を残し、鷹宮家の重鎮が揃う祝いの席へと向かう。紫織は部屋の真ん中で身じろぎもせず、ただ堅く目を瞑るしか自分を守る術はない。真澄が出て行き、客間の扉が閉められる。
扉が閉じる音を、独り、胸の底辺で聞いた。



11月3日の霧雨が煙る夜。
真澄は双方の家の思惑に、勝負を挑む。

今頃、たったひとりで
この深閑とした雨の夜を迎えているであろうマヤを
心の中の一番大事な場所に秘めて。








10.27.2005
01.22.2006(転載)





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