雨ふりのあとで

  written by 咲蘭  


story 4 : 豪雨















帰り支度をして病室を出てみた。沙耶がいない。不審に思いながら一階に下りる。診察時間などとっくに終了して、暗がりの窓口には全てまだらに日に灼けたベージュのカーテンが閉められ、非常口の緑色の灯りだけがやけに目立つ。正面玄関は閉められ、この時間は裏口だけが出入りを許されているようだった。
裏口へ向かう廊下には喫煙場所があり、そのガラスの向こうで紫煙をくゆらせる人がいる。マヤに気付いたその人が煙草の火を揉み消し、ガラスの扉を開けて出てくる。

「お目覚めか。そうとうお疲れだったと見える」

「…なんで沙耶さんがいなくて、速水さんがいるんですか…。とっくに、紫織さんと帰ったと思ってたのに…」

「きみが起きたら、送っていこうと思ったんだ。高梨君は調整その他仕事が残っている。一旦事務所に戻らなければならないから先に帰らせた」

「…しゃ…社長さんだって…その他もろもろ仕事があるでしょう…」

「社長がいなくても、社員が優秀なら会社は滞りなく動くものだ。それよりも、きみのほうがよっぽど心配だ」

だから、困るのに。そういう、どこまで本当の気持ちが籠もっているのか、わからない台詞にいちいち翻弄されてしまうから、困るのに。

「…ひとりで帰れます」

マヤは真澄から目を逸らし、裏口の鉄の扉を力まかせに開く。
耳鳴りのような雨音。扉の外は一切の音を遮断するほどの雨音に包まれていた。しとしとと降り続いていた夕刻の雨はいつのまにか豪雨となり、大粒の雨が次々と容赦無く辺りを叩き付けている。
コンクリートを叩く音。
駐車されている車のボディを叩く音。

「こんな雨でどうやって帰るというんだ。例え傘があっても、これではずぶ濡れは免れない」

マヤが自分を頼らざるを得ないこの状況を、心の片隅で歓迎していることを真澄は充分に自覚している。けれど、マヤは真澄と決して視線を合わせず、雨を睨み付ける。

「…タクシー拾いますから!」

マヤは、バッグを頭に掲げると、そのまま通りに向かって土砂降りの雨の中を走り出す。ずぶ濡れだとしても、ここに二人でいるよりよっぽどましだと思った。

あのばか娘…。思わず呟くと、真澄もマヤを追いかける。
酷い雨だ。前がろくに見えない。走り去ろうとするマヤの背中が、雨の斜線の向こうで霞んでいく。

どうして、いつも去っていこうとする。行って欲しくないのに。
自分の元から離れていって欲しくないのに。

自己満足的愛情表現というのならば、それならそれでも、もういい。あの去っていく背中をただ黙って見送れるほど、自分は寛大じゃなければ強くもない。
マヤを失えば、全てが止まる。
マヤが倒れたと聞いた時、いやというほどそれを自覚した。

マヤがいるから、自分は弱いとわかる。マヤがいるから、大切なものを知り、大切なものを守りたいと心の底から思うのだ。
マヤが必要だ。マヤを生かすことこそ自分を生かすことだった。マヤが、自分の生きている証と断言してもいい。朝、目覚めることも、呼吸することも、鼓動すら、自分の全てはマヤに繋がっていた。そんな単純なことは、わかっていた筈だった。他の人と生きていけるなんて考えは自分に対する詭弁だ。敢えて言うならば、逃げだ。
だが、真実はこんなにもマヤを欲している。
だから、頼む。
去って行かないでほしい。消えてしまわないで欲しい。

「行くな!ばか!!戻ってこい!!」

叫ぶ傍から、声が雨音に掻き消されていく。

「いやです!!」

たった数歩で黒髪も服もびしょ濡れになり、足下も覚束無くなる。走れない。でも、立ち止まりたくはない。雨が体中を突き刺して流れていく。追いついた真澄がマヤの両腕を掴み、強引なほどに引き寄せるが、マヤは必死で抵抗して顔を背ける。

「なぜ、いやなんだっ!」

「速水さんの傍にいるのがいやなんです!!」

マヤが泣いているのか、怒っているのかわからない。背けたマヤの顔に、次々と雨粒が襲いかかる。

「傍にいることに耐えられないほど、おれが嫌いか!」

嫌いじゃない。
嫌いじゃないから、死ぬほど好きだから、逃げているのに!
体の隅々まで雨に叩かれ冷え切ってしまったのに、真澄に掴まれている手首の神経だけが異常に高ぶってひりひりする。まるでその場所の自分だけが生きているように。

「だって…!だって、嘘つきになっちゃうものっ!」

「だから、なぜ嘘つきなんだ!!」

要領を得ないマヤに、真澄はずぶ濡れになりながら、マヤの両腕を掴んで詰問する。なにが嘘つきなのか。嘘つきなのは自分だ。自分の心を偽り続けている嘘つきは、マヤではなく、自分自身なのに。

「言えないっ!!」

言えるわけがない。あなたの永遠の幸せをお祈りします、なんてとんだ嘘っぱちだ。そんなこと殊勝に祈れるほど大人じゃない。幸せそうな紫織が嫌い。紫織に優しく接する真澄も嫌い。鬱々とそんなことしか考えられない自分も最低で大嫌いだ。だから、せめて、薔薇も終わりにして、真澄との密やかな繋がりは断ち切って、幸せそうな二人にはもうこれ以上に関わり合いにならないようにしたいのに。

「…どうして、わかってくれないの…。あたしはもう…ちゃんと、北島マヤとして、紫の薔薇が無くても…速水さんが、結婚しちゃっても…それでも…生きていかなくちゃいけないのに…」

「マヤ…」

真澄に腕を掴まれたままマヤが崩れ落ちていく。膝を地面に落とし、悲しい瞳で真澄を見上げる。


好き。好き。憎らしいほど、──好き。


「ずっと…何も知らずに、何も感じずに、
憎み続けていられたらどんなに楽だったかしれないのに…。

あなたのことなんて、ずっと嫌いでいられたら、
どんなに幸せだったかしれないのに…。

自分の心を操れたら良かったのに…。
もう、あの頃のようには戻せないよ…速水さん…」


通りをヘッドライトを付けた車が水飛沫を上げて通り過ぎて行く。辺りは雨の叩き付ける音しか聞こえない。マヤのとぎれとぎれの声にも激しい雨音が混じり、真澄は自分が聞き違えたのではないかと疑う。
たった今聞こえたマヤの奥底の言葉を。


──憎み続けていられたら、ずっと嫌いでいられたら…


マヤだけが正解を持っている。

紫の薔薇を止めたことも、薔薇の持つ意味も。
倒れるほど、心を苦しめていたわけも。


呆然とする真澄の手から力が抜け、やがてマヤの細い手首からするりと離れていく。マヤは、真澄の指が自分の腕から離れる様を絶望的に見届けると、強く目を瞑り、ゆっくりと立ち上がった。

「…さよ…なら…」

奇跡的に出すことのできた微かな声で呟くと、真澄に背を向け通りを歩き出す。ヘッドライトがマヤを照らし、真澄を照らしどこかに去っていく。なんて冷たくて痛い雨なんだろう。だけど、これほどの土砂降りの雨ならば、たとえ大声をあげて号泣しようとも、雨に溶けて消えて無くなろうとも、きっと誰も気付かない。
雨に叩かれて、鎮まればいい。
叶わぬ迷惑な想いなど、鎮まってしまえばいい。



雨の旋律の調和を激しく乱し近づく足音。
背後から動きを封じる長い腕。
確実に腕の中に閉じ込めたか確かめるように掻き抱く大きな手。
身動きが取れないほど、きつく、苦しく。
荒くて、熱くて、痛いほどの吐息。


「行くな…。だめだ、行かないでくれ…」


耳元で絞り出される苦しげな声。
ざわめく首筋。
つぶれる寸前の心臓。


「…そんなことしないでいい…。あたしは、そんなに強くないよ…。速水さんが困ってしまうようなことを、言ってしまうよ…。どうせ、応えられないのなら、お願いだから、もう見逃してほし…」


雨に冷やされた頬を熱い涙が流れていく。
抱き締める腕は緩まない。


「きみが言う前に、おれが言う」


ヘッドライトが雨の影とふたりをほんの瞬間、闇に浮かび上がらせ、タイヤが道路の水を切り裂くように跳ね上げて去っていく。


「きみがいなければ、生きられない…」


「マヤ  愛してる…」

「マヤと、生きたい…」



その刹那、耳鳴りのような雨音が止み、何の音もない世界に放り出された。マヤの耳には、真澄の声だけが確かに届いた。
真澄の絞り出す声からも、きつく抱き締める体からも、言葉を超えた深い想いがマヤに流れ込んでくる。愛してる。愛していると。

雨音が戻る。激しく叩き付ける雨音。

わからなかった。真澄がなぜそんなことを言うのか、なぜ自分を愛しているのかもわからなかった。だけど、どうして疑えるだろう。こんなにもきつく抱き締められ、言葉以上の想いを受け取り、どうしてこれに抗えるだろう。たとえ夜の雨に幻惑されているだけだとしてもいい。マヤは真澄の胸に顔を埋めて、背中に腕を回して、必死で抱き締める。今は、堪えずに、止めずに、心のままに真澄に縋り付く。


「速水さん……好き…。

きっと、死ぬほど愛してる…。

もう、どうしたらいいか…本当はわからないの…」


受け止め合った想いの事実はあまりにも重大で、かなしみを伴いながらも、でも激しく幸福で、罪の重さへの恐怖を束の間記憶から消し去ってしまう。

世界中で例え此処だけが取り残された場所だとしてもいい。
たった二人だけが存在すればいい。
この手が掴んでいるのがマヤであり、
真澄でありさえすれば、それ以上に望むものなど無い。


瞳を見つめ、吐息を交わして、頬を合わせ、口づける。
息をすることすら忘れるほどに。
胸が潰れるほどに。



夜陰の豪雨は、秘めるべきふたりの姿を覆うように

激しく、優しく、降り続ける。













熱い湯で芯まで冷えきった躰をゆっくりと温め合う。
ひとつの毛布にくるまって、たくさんの言葉を使って、
心の中に無理矢理しまい込んでいた想いを語り合う。

笑って、泣いて、怒って、口づけをして、
好きと言って、抱き締めて、また口づける。
何度も、何度も。


東の空が白むまで、雨の音は続いていた。









10.23.2005
01.22.2006(転載)





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