![]() written by 咲蘭 story 3 : 冷たい雨 |
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驚いたことに、第一報を伝えてきたのは、紫織だった。 酷く動揺した声が電話口の向こうから聞こえてきた。 『マヤさんが倒れましたの!真澄さま、すぐにいらして!』 上着を掴み走り出す。覚えているのは、水城の驚いた顔と信号待ちの雨に濡れた街並み。 だいたい、いつも無茶をしすぎるのだ。自分の体のことなど何も考えずに、演技にのめり込み、極めようとする。いったいマヤに何があった!? 一瞬、マヤがいなくなったことを想像してしまう。それは最悪の出来事だった。血の気が引き、鼓動がいやというほど早まった。そんなことにさせてなるものかと、アクセルを踏む右足に力が籠もる。もどかしげに、降る雨を切り裂くように走る車中。追ってマヤのマネージャーから正規のルートで報告が上がり、秘書室の水城から詳細が伝えられる。 ドラマの撮影中に、マヤが突如呼吸困難な状態で倒れた。近くの総合病院にスタッフの手によって秘密裏に運ばれたマヤは、間もなく意識を取り戻し、現在は特に手足や口元の痺れもなく、呼吸も心拍数も安定。特に入院の必要も無いが、今は安静のために暫く病室で休んでいるとのこと。原因は、過労または心労による過呼吸症候群。 意識を取り戻したことに、真澄はまずは心から安堵する。早く顔を見たいと思う。病院の駐車場に車を止め、急ぎマヤのもとに向かう。病室の並ぶ廊下で、最初に真澄の姿を認めた沙耶が駆け寄り、今は眠っていることを述べ、事の次第を報告するとともに管理不行き届きを詫びる。過労または心労による症状だ。マネージャーの責任は追及されるべきだ。厳しい態度で臨む真澄に、沙耶は生きた心地もしない。 「きみは北島の体調管理も出来ないのか。いったいどんなスケジュールを組んでいたんだ。北島になにかあったらどうするつもりだ。北島は、あの紅天女を演れる唯一の女優なんだぞ!何を置いても北島の体調管理を優先するべきだろうが!」 「申し訳ありませんっ!!タイトなスケジュールを組んだつもりは無かったのですがっ…!」 微塵も怒りを隠さない真澄に、沙耶は返す言葉も無く、ただひたすら謝り続けるしか無い。 真澄の後ろの病室の引き戸が音もなく開かれる。 沙耶がそれを目で追い、真澄が振り向く。 「紅天女を演れる唯一の女優だって、ただの人ですから、疲れることぐらいあります。そんなに大声で沙耶さん責め立てないでください。もう、子どもじゃないんだから、あたしの体調管理は、あたしの責任です」 想像していたよりも、顔色が良かった。睨み付ける眼孔にも力がある。マヤを一目見た真澄は、心底ほっとする。マヤほど自分の精神状態を不安定にさせる人はいないと思う。そして、マヤほど安定させてくれる人もいないのだ。 「そうか、確かにきみはもう子どもじゃない。とすれば、体調管理はきみの責任ということになる。きみが今日倒れたおかげで、撮影スケジュールは変更を余儀なくされているだろう。きみはその苦労に報いらなくてはならん」 「…わかってます。こんな失敗は二度としません」 莫迦なことだと思うが、どんな状態であれ、マヤと会話していることは単純に喜びだった。駆け寄って、その華奢な躰を抱き締めて、疲れも何もかもを癒してあげられたらどんなに幸せなことだろう。 真澄の声音に安堵の色を読みとった沙耶も一息つき、真澄とマヤを見比べる。この社長と対等に言い合える関係、先程までの真澄の怒りに比例したマヤへの心配度合いを見るにつけ、マヤと真澄の間に確実に横たわる歴史の長さと深さを感じざるを得ない。 「なんにしても、大事に至らなかったことは幸いだ。とにかく今日は静かに休んだほうがいいだろう。きみ、車の手配を…」 沙耶に向かって指示を出しかけたとき、真澄は初めてそこに紫織の姿を認める。ことの成り行きを、不安げに見守っている紫織を。瞬間、全身に冷たい空気を感じる。彼女の存在は、忘れてしまいたい今の自分の立場を、彼女と間もなく結婚するという自分の立場をまざまざと思い出させるには充分すぎる。第一報を伝えてきたのは紫織だったのだ。ここにいることに不自然さはない。第一報を伝える立場にいたことには疑問を覚えるが。 「ああ、紫織さん、こちらにいらしたのですね。先程はご連絡をありがとうございました」 ──今日はまた何故北島のところに? 訊きたい事柄はたくさんあるが、今はマヤを休ませることが先決だと判断する。 「北島は大都芸能になくてはならない女優ですからね。倒れたことなど漏洩すれば、少しばかり面倒なことになりかねませんが、お陰様で素早い対応が取れました」 紫織は、ほんの少し俯き加減で恥じらう。 「ああ、では、わたくしも少しはお役に立てたのでしょうか…。嬉しゅうございますわ。マヤさんも一時は真っ青な状態で、どうなることかと心配いたしましたけれど、回復されて安心いたしました。よかったですわね、マヤさん」 おそらくマヤは、状況を呑み込めていないのだろうと真澄は思う。真澄と紫織のやりとりを不審そうな顔で眺め、ついに紫織から話しかけられても、戸惑い気味に頭を下げただけだった。 「紫織さんは鷹宮の車でこちらにいらしたのですか?そうでなければ、すぐにも車を手配させましょう。今日のところは紫織さんもお疲れのようですし、お帰りになられた方がいい」 「…そうですわね。せっかく真澄さまにお逢いできましたのに残念ですが、今日はわたくしも昼食会だけの予定で外出いたしましたから、家の者も心配しているかもしれませんの。申し訳ないのですがこれで失礼いたしますわ」 真澄に向かって柔らかく頭を下げ、マヤにも軽く頭を下げ声をかける。 「マヤさん、今日は突然のお願いを聞いてくださいまして感謝しておりますわ。…では、お大事にしてくださいませ」 抜かりなく微笑むと紫織は真澄を伴い出口へ向かう。 マヤは、二人の姿が廊下の角を曲がり消えた途端にしゃがみ込む。 「マヤちゃんっ!!大丈夫?まだ、つらいの?」 沙耶が慌てて駆け寄る。少し震えているようだった。 「ちがっ……。大丈夫、体がつらいわけじゃないから…大丈夫…」 抑えた涙声。無理に明るく応えようとする涙声に、沙耶は医者の言葉を思い出す。 ───過労または心労による… 何かがマヤを不安定にさせている。よほど勘の鈍った人間じゃない限り、この状況で“何かが”といえば、おのずと答えが見えてきそうだと、沙耶はマヤの背をさすりながら思う。 マヤをベッドに寝かせて、とにかく落ち着くまでここにいて良いのだからと言い含め病室を出る。昨日まで順調に進んでいた撮影。今日の突然の倒れ方。これまでと今日の違いはたった一点だけだ。 「高梨君…。北島はどうした…?」 真澄が、少し離れた廊下の壁に凭れて立っていた。 「また…少し気分が悪いようなので、ここで休ませました」 「…気分が…?やはり、少し疲れが溜まっているのかもしれんな…」 下唇を咬みながら呟く。それから、僅かに戸惑いを含みつつ切り出す。 「高梨君、今日、紫織さんは何故此処にいたんだ?撮影現場にいたのか?」 「マヤちゃんがスタジオに向かう途中で、傘が無くて困っているところを紫織さまが車で送ってくださったらしいです。紫織さまが撮影の見学を希望されたので、私がスタッフに見学できるよう手配しました」 「…そうか」 そういえば、以前から何かしらの撮影を間近で見てみたいと言われていたことを、思い出す。適当に多忙を理由に、やんわりと断り続けていた。 真澄の声には疲れが滲んでいると沙耶が気付く。大都芸能の誇る、業界でも名だたる厳しい社長である真澄の、いつもとは違う面を垣間見ているようで不思議な気分になる。そういえば、こんな質問など紫織と真澄の仲ならば、自分などに訊かずに、直接紫織に気軽に訊いてみればいいことではないか。政略結婚とはそうしたものなのだろうか。わからない世界だと沙耶は思う。けれど、こちらからも聞いておきたいことがある。 「マヤちゃん、前回まで順調に疲れも見せずに演技していたんです。それなのに、今日は気もそぞろで、まるで演技が地についていませんでした。こんなことは初めてです。 社長…。お伺いしていいでしょうか。私のような立場で伺うのは、身の程知らずだし、とても失礼なことだと承知していますが、マヤちゃんのマネージメントする上で、どうしても確認したいことがあるのです」 「なんだ…?」 「マヤちゃんと紫織さまの間には、何かあるのでしょうか。マヤちゃんにとって、圧迫を受けるような、心労を及ぼすような何かが…あるのでしょうか…」 真澄は沙耶をまじまじと眺める。言ってしまったことへの緊張で、沙耶の顔が強ばっている。マヤと紫織の間に。思わぬ切り口に、真澄はすぐには回答できない。 まさか、何かがあろう筈が無い。 例えばこれから先、自分のマヤへの想いに紫織が気付き、紫織が心労を受けることは充分に有り得ることだが、先程の紫織の様子では、今はその可能性も低いように思う。過剰なほどにマヤの体を気遣っているように感じられた。ましてや、何故、マヤが紫織に圧迫を受ける謂われなどあるだろう。 「…さあ、なにも無いだろうな。きみの考えすぎだよ。きっと、本当に少しずつ疲れが溜まってきていたんだろう。今は、スケジュールを調整して、一日でも二日でも休みを取らせてやることだ」 「…そう……ですか…」 とても納得のいく答えでは無いが、それ以上追及できる筈も無い。沙耶は釈然とせぬまま黙り込み、真澄も、何か引っかかるものを感じながら、それが何なのか不明瞭ゆえに言葉にできず黙り込む。 ───でも、これからは紫のバラはいただかないと決めました。 私は、もうバラが無くとも大丈夫です。 これからも胸の中に咲き続ける紫のバラに恥じない立派な女優になれるよう生きていきます。ありがとうございました。 そうだ。マヤは何故、突然あんな手紙をくれたのだろう。 紅天女になれたことで、区切りを付けたかったのだろうか。 紫の薔薇を贈っていたのが速水真澄だと気付き、もう関わり合いになりたく無い、贈ってもらいたくないと思ったからなのだろうか。 いや、それならば、辻褄が合わない。おそらくのあの手紙の様子では、きっともっと以前から気付いていたのだろう。少なくとも、マヤは紫の薔薇の贈り主が自分であったことを悲しんではいない。つい先日の結婚式の時も、自分に認められたことを真っ直ぐな瞳で喜んでいたではないか。 それならば、何故。 ───あなたの永遠の幸せをお祈りします。 永遠の幸せ。つまり結婚することへの餞か。 結婚を決めた男が、それ以外の女性に花を贈り続けることを否としたわけか。言うなれば、紫織への気遣いで…。 では、マヤにとって紫の薔薇とは何だ。一人の名もないファンからのただの贈り物では無かったのか。速水真澄からの薔薇だと気付いたとき、紫の薔薇の持つ意味に変化があったのだとしたら?どのように? もし、もしも、今も昔のように、マヤが薔薇を欲しているとするならば、それを止めざるを得ない理由は、たったひとつ、紫織の存在ということになる。心労の理由がそこだったとしたら。 ……少々強引が過ぎるなと自戒する。都合が良すぎる考えだ。 マヤのことを誰よりも理解しているつもりなのに、 誰よりも知りたいのに、 マヤの真実が掴めない。 正しい答えを探して、 取り止めもなく思考が彷徨う。 窓の外は闇となり、初冬の冷たい雨が まるで永遠に止まない雨のように降り続ける。 正解は、 たったひとり、マヤだけが持っている。 10.18.2005 01.22.2006(転載) |
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