雨ふりのあとで

  written by 咲蘭  


story 2 : にわか雨











また雨だ。
道路の水たまりに雨の模様が次々とできていく。
昨夜からの雨が上がり、今日はこのまま晴れてくれるかと思っていた。傘を持たずに外出してしまったことを悔やみながら、台本の入ったトートバックを抱えるように走り出し、通り沿いの花屋の軒下に雨宿りする。
秋も深まり、日中も小寒くなった。雨に濡れてしまうのは、さすがに辛い。我が儘 を言わずに、マネージャーとともに迎えの車に乗れば良かったのかもしれない。
紅天女の上演権を手にしたマヤが大都芸能に再び所属した際、当然マヤにも専属のマネージャーが付けられた。高梨沙耶はマヤより五歳年上で、快活にして微細まで気が付く繊細さを持ち合わせている。初めて会ったとき、マヤはタイプは違うがどこか麗と似た空気を感じたものだった。マネージャーが付くと知って、もっと管理されるかと半ば覚悟していたが、思うより管理は緩く、できる範囲でマヤの何気ない要求に応えてくれている。今日もドラマの撮影のため都内のスタジオに向かうのに、沙耶はぜひとも車で行くべきだと主張したが、マヤは丁重に断り、必ず迷わずに時間通りに行く、もしもそれを守れない不測の事態になったのならば、必ず携帯電話に連絡をするという約束で放免してもらっていた。

細かい雨の粒がみるみる増えていく。空気もますます冷えていく。寒い。Gジャン一枚ひっかけてくれば良かった。どうしてこういちいち段取りが悪いんだろう。
晴れる気配の無い空を見上げ溜息をつく。
ここで、じっとしていても約束の時間は迫っている。スタジオは駅から徒歩15分は堅い。この降りで15分歩いたら、ずぶ濡れだ。とにかく電車に乗って最寄り駅で傘を買って、それから…。

「失礼ですが、北島さまでしょうか」

良く磨かれた黒の革靴。背広姿の初老の男性。目の前の見知らぬ男から、いきなり声をかけられたマヤは、返事をするのも忘れて小首を傾げる。男に威圧する雰囲気は無く、マヤに黒い傘を差し掛けてマヤの応えを待っている。

「…あの、あなたは…?」

「あ、…名乗らずに失礼いたしました。私、鷹宮家にお仕えする運転手でございますが、紫織さまが北島さまがお困りのようなので、お声をお掛けするようにと」

鷹宮家。紫織さま。
正直、あまり聞きたくはない名称だった。
できることならば、一生聞きたくない。

視線を通りに投げると、黒塗りの立派な自動車が停車していた。後部座席の窓がゆっくりと開かれていく。窓の奥では、紫織が花のような微笑みを見せていた。

「傘が無くお困りでございましたら、都合の良いところまでお送りいたします。どうぞ、ご乗車ください」

「い…いえっ…。いいです。大丈夫です。たいして困ってません。仕事の約束もあるし、あの…」

慌てて手を振り首を振り、必死に断る。

「紫織さまがぜひにと申しております。よろしければ、どうぞ」

運転手はなおも食い下がる。マヤの頑なな態度に、ついに紫織が車中から声を掛ける。

「マヤさん、ぜひお乗りになって。マヤさんは真澄さまも大事になさっている大都芸能の宝ですもの。このまま困っているマヤさんを置いて行っては、わたくしが真澄さまに叱られてしまいますわ」

罪の無い微笑み。罪の無い申し出。罪の無い親切心。
真澄さまに叱られてしまいますわ。親密さを寒気がするほど感じさせる言葉。足下から体温が退いていく。マヤよりも、誰よりも、紫織が真澄に近しい存在なのだと見せつけるだけの威力を持つ言葉。このまま断ってしまえば、まるでマヤが悪者のようになってしまうほどの威力を持つ言葉。力が抜けていくのがわかる。
抗うにはそれだけの体力がいる。

後部座席が莫迦みたいに広い。座って思ったことはそれだけだった。紫織は、親しげに話しかけてくる。間もなく結婚する自分を祝ってくれるために友人たちが開いてくれた昼食会に出席して帰宅する途中だということ、郊外のレストランだったが品も良く食事も美味しかったこと、今度ぜひマヤさんも、と付け加えることも忘れなかった。ほっそりとした左の薬指には、その繊細な指を際だたせるダイヤモンドが輝いている。マヤは、時折相づちを打ちながら、いったい自分はなんでここにいるのだろうと、まるで突然鳥籠に閉じ込められて状況を呑み込めないでいる野鳥のように呆然としていた。羽ばたき方さえ忘れてしまったかのように。

「今日は、そのスタジオでドラマの撮影をされますの?わたくしも毎週、楽しみに拝見しておりますのよ。ドラマとはいえ、素敵な恋愛をされていて、羨ましくなりますわ」

「…演技ですから…。紫織さんに羨ましがられるなんて…」

羨ましがられる謂われはない。そんな惨めなことは無い。自分こそ、最高の幸せを、周囲に頼まれもしないのに無造作に撒き散らしているではないか。そう感じてしまうこと自分は、なんて捻くれて惨めなのだろうと思う。頼むからこれ以上傷を広げないで欲しい。そっとしておいて欲しい。

「そうだわ!…ね。マヤさん、図々しいお願いをさせてくださる?このまま撮影しているところを見学させていただけないかしら。わたくし、そういう場所に行けないものだから、とても興味があって。真澄さまと結婚するからにはお仕事も理解しなくてはと思うのだけれど、真澄さまはお忙しくて、なかなかそういったお付き合いをいただけないのよ。ね、お願い…」

何を言い出すのだろう、この人は。

「あの…でも、あたしの一存では…」

曖昧な物言いで場を逃れようとした矢先、タイミング良く鳴り出す携帯電話の着信音。マヤは、助かったとばかりに紫織に目で謝り、バッグから電話を取り出すと通話ボタンを押した。沙耶からだった。

『ちょっとマヤちゃん、たのむよ〜。あと10分でスタジオ入りの時間だよ。今、どこにいるの?ちゃんと向かってる?』

からりとした沙耶の声に、マヤは忘れていた呼吸を始める。やっと息を吸えた気がする。

「えっと…今は…」

マヤは窓の外を見ながら場所を探る。けれど、流れる風景だけでは自分の居場所がわからない。

「マヤさん、間もなく着きますわ。あと5分ほどかしら、ね、西条」

話しかけられた西条─運転手─は、頷きながらこの道を曲がればすぐだと応えた。

「ごめんなさい、あと5分で着きます。えと、今、車で送ってもらっていて…。紫織さんの…」

『えっ…。しおりさんって…まさか、あの…紫織サマ…?』

沙耶の動きが止まったのが、携帯電話を通じてもわかった。なにしろ自分の最上級にいるボスの話題の婚約者だ。名前を聞いて思いつかないわけがない。

「…そうなの…」

「あら、ちょうど良かったわ。マヤさん、マネージャーの方でしょう?撮影見学のお話してくださると嬉しいのだけど」

世間知らずの幸せな人間は、きっと空気を読まないでも、そのまま幸せに生きていけるのだ。ひどく意地の悪いことばかりが脳内に浮かぶ。だめだ。最低だ。紫織が悪いんじゃない。悪意なんて欠片も感じない。だけど、紫織と一緒にいると、自分がとても底意地の悪い人間に思えてきて堪らない。意識の中に棲む自己防衛のための黒い魔物がうずうずと頭を擡げてくる。いやだ。一刻も早く車から降りて、紫織の姿の見えないところに逃げてしまいたい。こんな自分はいやだ…!

紫織の申し出を沙耶にぽそりと伝えると、一も二もなく調整すると言って、沙耶は電話を切った。
黒塗りの車は、スタジオの駐車場に滑り込んでいく。















スタジオには、音楽大学のピアノ練習室のセットが組まれている。次のシーンのために、立ったままメイクを軽く直し、脳内で撮影内容を確認する。聴講生役のマヤが、練習室にそっと入ると、学生役の俳優がピアノに向かい寂しげで美しい音色を奏でている。佇んでそれを聴き、ピアノが鳴りやんだとき、ひとこと聴講生が学生の背中に向かって別れの台詞を言う。たったそれだけのシーンだ。カメリハも順調だったし、台詞はいつも通り頭に入っていた。相手役との動きも打ち合わせして、あとは集中すれば、それでNGも出さずに終わるはずのシーンだった。

紫織はスタッフに言われた通りに少し離れた場所から、邪魔にならないように物珍しげに撮影を眺めている。楽しそうに。無邪気に。気にしないようにしようと思う。別れのシーンに集中しなくては。穏やかだけれど、芯の強い聴講生の仮面を被らなくては。
けれど、そう思えば思うほど、紫織の視線を背中に感じれば、感じるほど、まるで自分の周りだけ酸素が酷く薄くなっていく気がする。
どんなに息を吸っても、吸っても、酸素が足りない。

苦しい。

唇が痺れて動かない。
台詞を言おうと思うのに、唇が半開きになったまま、
顔の筋肉が硬直して動かない。
苦しい。苦しい。
息が吸えない。
足りない。
黒く艶のあるグランドピアノの斜めのラインが、
まるで溶けて頼りないチョコレートのようにみるみる歪んでいく。
目の前の光景に、一斉に砂嵐が混じる。
鍵盤に指を踊らせる俳優の背中も霞んで見えなくなっていく。
朦朧とする。

マヤの異変に、スタッフたちがざわめき始める。
顔色は青白く、明らかに呼吸困難を起こしている。


幸せな人。
やめて、もう、やめて。
お願いだから、もう見ないで。
もう、あたしと関わらないで!




意識が途切れていく刹那、
聞こえてきたのは、

うねるようなざわめきと、
寂しげで、美しい、雨ふりの音色。



───Après la pluie












10.15.2005
01.22.2006(転載)





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