Concerto

  written by 咲蘭  .


 story 12 : Maya














 夢を見ているのだと思った。
 まさか、そこにほんものの速水さんがいるとは、とても思えなかったから。

 けれど、その指が現実なのだと教えてくれる。
 速水さんの指が、あたしの右の頬を撫でて、額を撫でて、それから左の頬を撫でて、まるで三重苦のヘレンケラーがサリバン先生の存在を確かめるすべのように、あたしという存在を指先と手のひらで確かめていく。
 あたしは、その速水さんの手のひらから伝わる優しい温もりを頬で感じて、ようやく目の前にいるのは、ほんものの速水さんなのだと知った。

 ゴッホの絵のようなプルシアンブルーの星空。いっそ閉じ込められたらいいと思っていたこの停滞した世界の向こうから、速水さんが目の前に現れて、腕の中にあたしを閉じ込めた。背中越しに伝わる速水さんの胸の鼓動と全身の温もり。心地いい圧迫感。泣きそうなほどの懐かしさを運んでくれる香り。耳元で密やかに囁かれる低音の滑らか声。
 これは、現実なんだ。これは、ほんとうのことなんだ。語りかけてくれる言葉よりも、速水さんがここにいて、ここであたしを抱き締めているという事実が、あたしを救い出してくれる。
 左手首で、速水さんがくれた細い金色の鎖がさらりと揺れた。

「まだ持っていてくれたのか」

 もちろん。捨てられるはずがない。この細い頼りない一本の線だけが、あたしと速水さんを繋ぐものだった。
 
「持っていてくれて、ありがとう。でも、これはもう返してもらおう」

 それなのに、速水さんはあたしの左手首から、いとも簡単にそれを外してしまう。呆然と見ている間に、あたしの手首から、細い鎖はさらりと落ちていく。まるで一筋の水滴のように。

 時間の鍵が外された。
 止まっていた時間が流れた。
 これを外せるのは、世界でたった一人だけ…。
 速水さんだけだったんだ…。

 時間を止めていた鎖の代わりに与えられたものは、そっと左の薬指に嵌められた指輪だった。指に入っていく間のひんやりとした金属の感触。控えめに、でも確かな光を放つダイアモンド。それとともに迸るのは、速水さんの想いのたけを込めてくれた言葉たち。どこにも行かないでくれ。二度と俺から離れないでくれ。マヤ、俺は、俺はずっと…君を愛してた。今も、これからも、ずっと愛してる。
 きつく抱き締める腕の力。それから、唇に触れる温もり。
 速水さんとあたしの間の時間が、確かに動き出したのだ。決して夢ではなく、怖いほどの現実を伴って。
 僅かに離れた速水さんの唇から、軽い吐息が漏れる。見上げた速水さんの目が切なげに、でも優しく笑ってあたしを見ている。あまりにリアルに、間近にそれを感じて、全身がひどく紅潮してしまうのが自分でわかった。

「…眠れない夜にずっと一人で起きていても、ほんの少し意識が薄れる時間があって、そんなときに見る夢には、必ず速水さんが出てきて、そんな顔で笑うんです」

「…ああ」

「でも、夢の中の速水さんは笑ってるだけで、なんにも言わないの」

「言えなかったんじゃないか?」

「…うん」

「でも、もう言えるぞ。きみに言ってあげたい言葉も、言いたい言葉も、なんだって言える。いくらでも言える」

 夜空に穏やかに浮かぶのは、まあるい月。
 左の薬指には、七色に輝くダイアモンド。
 目の前には速水さん。
 綺麗な顔で、あたしを抱き締める速水さん。

「愛してると、ずっと言いたかった」

 速水さんの長い指が、あたしの黒髪を掬い上げる。指の隙間から髪の毛がさらさらと落ちて零れていく。夜風が速水さんの前髪をかすかに揺らす。

「ずっと傍にいて欲しいと言いたかった」

 何度聞いても、怖いぐらい幸せだった。だからあたしも、速水さんの顔を見上げ、その頬に指先で触れて、速水さんの存在を確かめながら、言おうと思う。

「きみと出逢ったのは、必然だから。それ以外になりようがないんだよ」

「…マヤ?」

 あたしの口から出た言葉に、速水さんが不思議そうな顔をする。白いカーテンが揺れて、風が流れる。

「先日観たお芝居の台詞です。この台詞を聞いたとき、あたし、もの凄く納得したんです。あたしが速水さんと出会ったのは、偶然なんかじゃなくて、必然だったんじゃないかなって。もう、それ以外になりようがないんです。あたしの人生の中に、速水さんがいないことは考えられない…。速水さんがいるから、今のあたしがいる。…うまく言えないけど…」

「つまり、運命だと。きみと俺は出会うべくして出会ったと」

「そう。運命!…って、そんなこと考えるのって、可笑しいですか?」

 言いながら、あたしは自分がひどく子どもじみているように思えて、恥ずかしくなって下を向いてしまう。目の前の速水さんの胸が、くっくっくっと得意の笑い方で揺れていて、あたしはますます顔が紅潮するのを感じた。

「…そんなに笑わなくても…」

 言い終わらないうちに、俯いたあたしの髪に速水さんがキスをする。

「可笑しかったんじゃない。嬉しかったんだ…」

「え…?」

「初めて、自分の運命に感謝した。ろくな人生じゃないと思っていたが、きみと出会えたことが運命ならば、これ以上の人生は考えられない」

 あたしはもう一度、ゆっくりと速水さんの顔を見上げて、その言葉を噛み締める。あたしも、これ以上の人生は考えられない。速水さんと出会って、いろいろなことがあって、笑って、泣いて、怒って、また笑って、心で泣いた。それは、運命だった。そんな時間を過ごしてきたからこそ、今のあたしがいる。女優としての自分も。女性としての自分も。すべては大きな流れの中にいる。
 見下ろす速水さんと視線が絡み合って、心臓が早く鳴ってどうしようもないけれど、それでも視線は逸らせない。やがて、速水さんが囁くような優しい声で、ゆっくりと語りかけてくれた。一生忘れられない言葉を。

「マヤ。きみに生涯の愛を誓うよ」

─── 生涯の愛を…

「…まるで、プロポーズ…みたい…」

 呟いたあたしの声に、速水さんは、いつものように、にやりと笑ってみせる。

「そのつもりで言ったんだがな?」

 そう言って、あたしの左手をそっと持ち上げる。薬指で七色の光を放つのは、速水さんがくれたダイアモンドの指輪。
 それは、運命と、速水さんの揺るぎない想いと、約束が籠められた指輪。
 今夜の月はとても哀しかったのに、速水さんがここに来て、たくさんの言葉をくれて、たくさん抱き締めてくれて、とんでもない言葉までくれて、なにがなんだか分からないうちに、もう月を見上げても哀しくなんかない。

 あたしは、速水さんの左手を両手で包む。見惚れるほど、長く美しい指。その薬指に指を添えて、そっと口付ける。
 指輪の代わりに。
 あたしの揺るぎない想いと、約束を籠めて。

「あたしも…、速水さんに生涯の愛を誓います…」

「マヤ…」

 速水さんの黒曜石のような瞳が大きく見開かれて、それから切なげに歪んで、固くまぶたが閉じられた。次にまぶたが開いたときには、瞳の奥で光が揺れていて、本当に速水さんは綺麗だった。

「まるで、プロポーズみたいだな」

「そのつもりで言いましたから」

 二人で少し笑って、顔を寄せて、吐息を合わせて、もう一度笑ってキスをする。
 それは、生涯の愛を誓ったキス。
 抱き締める腕も、交じり合う吐息も、絡み合う指も、互いが互いの一部となって溶け合っていく。生涯の終わりのときまで、もう離れることはない。








10.31.2006



Epilogue



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