Concerto

  written by lapin  .


 story 11 : Masumi























静かな夜だった。ハンドルを握り、深夜の住宅街を走り抜ける。信号で停まるたびに、高く白く光る月を見つめた。道しるべのように、月は確かに光っていた。大丈夫だ。そう誰かが強く保証してくれているような気がした。いつかの夜も、こんなふうに車を走らせたな。そんなことを思いながら、俺はラジオの電源に手を伸ばした。

......Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
That they're startin' to sing
So fine......

また、あの歌だった。不思議なことに、俺は少しも驚かなかった。あのときもマヤのことを考えながら、この歌を聴いていた。いや、マヤのことを考えそうになる自分を必死に押さえ込もうとしながら、聴いていた。今も、同じ歌が流れている。そして、俺はマヤの元へ向っている。

確信が深まっていく。大丈夫だ。なぜ、そんなことを疑いもなく信じられるのか、考えてみれば不思議なことだが、俺は確信していた。

マヤは必ず家にいる。必ず起きている。

前方に暗いテラスと積み重ねられた椅子が見えてきた。閉店したカフェの前を通り過ぎると、徐々に減速し、すでに頭に入っている地図に従って2つ目の角を曲がると、細い通りに入って車を停めた。








遠くで微かにチャイムの音が響いた気がした。永遠のような間の後に、そっと扉が開かれる。顔を上げると、そこに・・・マヤが立っていた。その瞬間、頭が完全に真っ白になった。すべての言葉を忘れて、俺はただ食い入るように目の前の光景を見つめていた。

玄関は薄ぼんやりと明るい。その仄かな明かりの中に、シャツ型のワンピースのようなラフな部屋着を纏った裸足のマヤが、まるで夢の続きのように、立っていた。

”まるで夢みたいだ”

そう言うより先に、マヤが口を開いた。

「…ほんもの?」

「…?」

咄嗟に意味がわからずに目で問い返すと、マヤは裸足のまま俺の側に寄り、そっと上着の袖口を引っ張った。とても不思議そうな顔をしていた。俺は、軽い眩暈を覚えながら、マヤの指がポケットの縁を辿り、腕に沿ってツイードの繊維を確かめるのを感じていた。マヤの、指。

「ねぇ…ほんもの?」 

子供のようなあどけない瞳でマヤがまた尋ねる。思わず苦笑していた。

「ああ、ほんものだよ」

マヤは素直にこくんと頷いたが、まだ夢の中にいるような顔をしている。

「君も…本物だろう?」

マヤの霞がかかったような美しい瞳を見ていると、夢の奥のさらに深い領域に足を踏み入れているような気がしてくる。
一瞬躊躇ってから、俺はそっとマヤのまろやかな頬のラインに手を沿えた。マヤの瞳が俺を見上げる。

「あたたかい…」

思わず呟くと、

「だって、ほんものだもん」

マヤが瞳を逸らさずに答えた。そっと指を動かし、マヤの頬、マヤの額、マヤの顎を順番に確かめていく。その間、マヤは少しも動かず、ずっと俺の瞳を見つめていた。

「そうか、本物か。本物…なんだな」

ようやく俺が認めた瞬間、マヤの顔がくしゃっと歪み、同時に俺の腕が動いていた。全身にマヤの温もりを感じる。背中にきつくきつく回された細い腕。

「会いたかった・・・」

胸がいっぱいで、声が出ない。絞り出すように呟いた声に、でも、マヤはちゃんと応えてくれた。

「あたしも・・・会いたかった」








時間が止まったみたいだった。
マヤに手を引かれて入った部屋は、物が少なくて薄暗かった。開け放たれた窓から差し込む月明かりだけが部屋をぼんやりと照らしている。白いレースのカーテンが、深夜の風に吹かれて生き物のように踊っている。

マヤは俺を窓際に案内すると、ぺたんと床に座った。俺もマヤの向かいに腰を下ろした。目が慣れてくると、月明かりでも十分に明るかった。こっくりと濃い夜空。

「プルシアンブルー」

俺の正面で、膝を抱えたマヤが呟いた。左手首でさらりと揺れる細い鎖。一瞬のきらめきを残して、夜空を渡る流れ星のようだった。

「ああ、そうだな。プルシアンブルーの夜空だ。…きれいだ」

マヤが微笑んだ。俺は、きれいなのが空なのか、マヤの笑顔なのかわからなくなってくる。完璧な瞬間だった。この美しい夜の中に、マヤとともにいる。
「いつもね、空を見てた。速水さんと会えないとき。ひとりでここから空を眺めて、コーヒー飲んで、―あ、コーヒー飲めるようになったんです、あたし―、お風呂に入って、散歩したり、歌うたったり、お仕事も頑張って、毎日ちゃんとして、ちゃんとして…あたし…」

不意に言葉を詰まらせると、マヤは強く唇を噛み締めたまま、下を向いた。昔だったら、きっとぼろぼろ涙を流していただろう。こうやって、ふたりが会えなかった一年の間、マヤは声も出さず、涙も流さず、ひとりで泣いていたのだろうか。胸が痛かった。

腕を伸ばしてマヤを抱き寄せると、俺は幾度も幾度もマヤの背中をさすった。苦しみも、哀しみも、寂しさも、すべてを溶かして癒せるものなら、俺はきっとなんだってするだろう。

「女優はね、泣いちゃいけないんです。だから、あたしは、絶対に泣かない。だって、決めたから。最高の女優でい続けるって。最高の女優になって、速水さんに…」

「もういいから。もう何も言うな。君は…最高の女優だよ。でも、俺は女優の君に会いに来たわけじゃない。君に会いに来たんだ。北島マヤに。マヤ・・・君に会いたくて、会いたくて、俺はこの一年…死にそうだったよ」

マヤがくぐもったような妙な声を出した。

「…なんだ?」

「ひどい。明日初日なのに。…泣かさないでください」

もごもごと言い募るマヤがおかしくて、俺は思わず笑った。そして、笑いながら、マヤの顔を両手で包んで上向かせた。マヤの瞳はしっとりと潤んでいた。

「別に泣かせたくて言ってるわけじゃない。本当に、君に会いたくて死にそうだった」

「速水さん…!」

いきなり渾身の力で抱きつかれて、俺は尻餅をつきながらマヤの体を受け止めた。小さな体から迸るような力を感じる。ようやく空っぽだった腕にあるべきものが帰って来たという実感。あっという間に心が満たされていく。満ちて、零れて、溢れ出す。

そっとマヤの体を胸から引き剥がすと、足の間に座らせて、背中越しに抱き締めた。マヤの背中の温もりが胸に心地いい。頭を下げると、マヤの頬に頬を寄せた。こうしていると、囁き声だけでも十分に聴こえる。マヤをとても近くに感じた。

「すまなかった。長い間、君をひとりにして」

義父との会話のこと、婚約解消のこと、俺はひとつひとつマヤに話した。マヤは瞳を見開いたまま、一言も口を挟まずに、ずっと俺の話を聞いていた。ようやく話し終えると、俺は黙った。マヤも黙っていた。沈黙が夜の部屋を満たす。窓から吹き込む風が、考え込むマヤの髪を揺らしている。

そっとマヤの左手を掬い上げると、俺は金鎖を月明かりにかざして見つめた。

「まだ持っていてくれたのか」

マヤが首を縦に振った。

「最初は目を疑ったよ。テレビで偶然君を見て。まだ君がこれをしていてくれたなんて…うれしかった。それで、一か八かの賭けに出ることにしたんだ」

「賭け?」

マヤが腕の中で呟いた。

「そう、賭け」

そう答えると、俺はマヤの左手に自分の右手首を当てて支えたまま、両手でそっと金鎖の留め具を外した。さらりとした感触とともに、鎖は水のようにマヤの手首から流れ落ちた。マヤはぼんやりと外れた鎖を見つめていた。

「持っていてくれて、ありがとう。でも、これはもう返してもらおう」

上着のポケットに金鎖を落とし込むと、俺は再びポケットに手を入れた。マヤはただぼんやりと裸になった左手首を見つめている。まだ信じられないようだった。

「手を出して」

きょとんとした顔で、マヤは再び大人しく手首を出した。

「いや、手首じゃなくて。そう、指」

ひんやりとした金属の感触。震えだすマヤの細い指。

「速水さん、これは?」 

「君にあげる」

「え?」

「ただ持っていてくれたら、それでいいから」

強烈なデジャビュ。過去が津波のように押し寄せる。そして、

「そして…俺の傍にいてほしい。できることなら、ずっと」

ようやく、ようやく過去の影から抜け出せた瞬間だった。

「ずっと?」

マヤが呟いた。大きく見開かれた瞳。世界の誰よりも愛しい。

「…ずっと、速水さんの傍にいていいんですか?ずっとですか?」

胸が軋むのを感じながら、俺はマヤの手を握った。ほっそりとした薬指で確かに光っているダイヤモンド。

「そんなこと言ったら、あたし、たぶん死ぬまで、傍を離れませんよ…?」

限界だ。心の中で降参しながら、俺は荒々しくマヤを抱き寄せた。

「ああ、決して俺の傍を離れないでくれ。死ぬまで、ずっとだ」

マヤの体が小刻みに震えている。心臓の鼓動が速すぎて、不安になるほどだ。腕に力を篭めると、俺は幾度もマヤの耳元で繰り返した。

「どこにも行かないでくれ。二度と俺から離れないでくれ。マヤ、俺は、俺はずっと…君を愛してた。今も、これからも、ずっと愛してる」

一度ストッパーを外すと、もう止めることなど不可能だった。今までマヤに言いたくて、でも言えなかった言葉が奔流のように溢れ出す。

「嫌だったら言ってくれ。すまない、止まらないんだ…」

マヤの顎を持ち上げると、触れたくて触れたくて堪らなかった唇にそっと指を走らせ、マヤの瞳の奥を確かめてから、口付けた。









10.30.2006






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