![]() written by 咲蘭 . story 9 : Maya ─── ええ、今度、息子が結婚するんですよ。 相手のお嬢さんも素晴らしい方で、まったくこれ以上の良縁は、 どこを探してもございませんな。 ようやくこれで安心して隠居できるというものです。 ああ、大都芸能で社長をしているのが、わしの息子ですよ。 マヤさんも、ご存知でしょう。 スチール撮影の帰り道、停車していた高級車。東京に渇いた冷たい風が吹いていた夕暮れ時。速水さんからの連絡が無いか携帯電話を確認して、ほんの少し落胆して顔を上げたとき、高級車の窓から顔を覗かせていたのは、缶ジュースのおじさんだった。あのおじさんが速水英介氏だったのだと、あの時初めて知った。嬉しそうな顔で、自慢の息子の結婚話を語って聞かせてくれた。 知らなかったわけじゃない。でも、速水さんが結婚するという事実を忘れたいと思っていた。速水さんと過ごした時間があまりにも夢のようだったから、怖くてそれに触れることから逃げていた。 けれど、父親の、あの嬉しそうな顔。 もう、逃げることは許されないと思った。速水さんとは、もう二人だけで逢ってはいけない。二人で逢うことは、速水さんだけでなく、速水さんの周りの人までに迷惑をかけてしまう。 あたしが、速水さんを好きだという事実がそこにある限り。 あたしには他に選択肢が残されていなかった。 だから、速水さんに笑ってさよならをした。 速水さんと過ごした時間を抱き締めて生きていこうと決めて。 いっそゴッホの絵の中に閉じ込められた方がいいと思う。もう、eau cafeのブルーマウンテンも効かない。シャンパンも効かない。左手首の鎖を揺らしても、掴んでも騙せない。女優じゃない時間はつらすぎる。心地よかったはずの場所が、波風を立てては、あたしに安らぎを与えてくれない。速水さんと過ごしたあの過去の時間さえあれば、幸せに生きていけると嘘をついていたのに、もうあたし自身が騙されてくれない。 女優は夜に涙を流せない。翌朝も最高の顔を作らなくちゃいけない。 枕と膝を抱えて朝を迎える。 ![]() 「明日が初日だけど?」 「そうですね」 本番さながらの稽古を終えて、大都劇場の楽屋口に向かう。 「本番終わったら美味しいビールが飲みたいんで、どうか舞台の上でへたらないでくださいよ、北島さん」 どういう意味ですか、と訊こうと思ってやめた。有吉さんは、そのままを言っている。演技はできている。小澤先生からも前向きなダメ出ししか受けてない。でも、あたしが不安定なのを、有吉さんは気付いている。まるで意地悪を言うように心配してくれる。 「あたしは素がどんなにダメなときでも、それを舞台には絶対に持ち込まないから。若い頃それで舞台に穴を開けて、頬をぶたれて怒鳴られたの。それでも役者かって」 「へぇ…」 頬をぶったときの速水さんの目。厳しくて、とても悲しそうな目。母のことだけに夢中で、あの時の速水さんの心中を思い図るなんて、子どもだったあたしにはとても無理だったけれど、今なら分かる。あれ以上の愛情は無かった。北島マヤという女優に向けてくれた愛情。 「だから、同じ失敗はしないから安心してくれていいよ」 にっこり笑ってみせる。落ち込んだ顔を見せるのは反則だと思ったから。有吉さんは、ほんの少しだけ目を見開いて、肩を竦めて前を歩き出す。 「ごめん。ホントはかなり北島さんのこと信頼してる」 あたしも有吉さんを信頼してる。相手役として演じているときの緊張感が、こんなにも快い人は久しぶりだから。 「…とりあえず楽日まで毎日美味しいビールを飲むことを目標に、いい舞台にするつもりだから、オレ」 「うん。あたしも美味しいビールが飲みたい」 楽屋口の自動ドアが開く。 驚いたことに、大都劇場の楽屋口で待ち構えていたのは、たくさんの傍若無人なカメラのフラッシュと芸能マスコミの人たちだった。何が起きたのか分からなかった。あまりの眩しさに手で顔をかざす。記者たちが、騒ぎ立てる声が入り混じって聞こえる。 「北島さんっ!有吉さんとはお付き合いされているんですか!?」 「出会いは、この舞台稽古ということでいいんでしょうか?」 有吉さんとあたしの関係について興奮気味に質問していることをようやく理解する。少し遅れてきたマネージャーが、慌ててあたしをかばうように立ちふさがる。なおも焚かれるフラッシュ。その向こうで同じように記者に囲まれた有吉さんが、それを手で制している姿が見えた。 顔をかざす左手の手首で、金色の華奢な鎖がさらりと揺れた。 ![]() 今日の様子は、夕方のテレビの芸能ニュース枠で流された。 楽屋口から出てくる二人。どこか威圧的なマスコミに怯むことなく、ときおり笑顔を混ぜながらきちんと言葉を返していた有吉さんの頼もしい姿。その横で、ただ下を向いていた情けないあたしの姿。 「いえ、残念ながら、そーゆーお付き合いはしてませんよ」 「稽古は楽しくやらせてもらってます。なにしろ素晴らしい女優さんなんで」 「こんなインタビュー慣れてるわけないじゃないですか。普通、イヤですって。できれば、舞台の話しでインタビューされたかったですよ」 「オレですか?こんな噂立てられるのは初めてなんで、たぶん実家の親は喜ぶんじゃないですかねぇ?」 あたしがマスコミに囲まれて発した声は、たった一言だけだった。 「明日からの舞台、がんばります…」 以前より有吉さんとあたしの仲を勘繰っていた舞台関係者が、二人で有吉さんの所属する演劇集団を観劇しに行くという話しを聞きつけ、情報をマスコミにリークした。あの時、オフィスビルのエスカレーターを降りていったあたしたちは、週刊誌のカメラマンに撮られていたらしい。有吉さんの手は、確かにあたしの肩に触れていた。 あたしの事務所である大都芸能は、週刊誌の発売前にその情報を入手したけれど、舞台の宣伝にもなるとの理由で放置した。きっと、情報をリークした舞台関係者にも同様の意図もあったのだろう。 マネージャーから経緯を聞かされて、あたしは小さく笑う。 速水さんが社長だったら、今頃、呼び出されて怒られていただろうか。隙がありすぎるんだ、チビちゃんは。そんなふうに。 eau cafeに行こうとして、思い止まる。今日はふらふら外を歩かないようにと、マネージャーにきつく言われていた。マスコミがどこから見ているかわからないからと。仕方なく窓を開けて風を部屋に通す。白いレースのカーテンがふわりふわりと風に合わせて踊る。夜空には置いてきぼりされたようにぽっかりと浮かぶまあるい月。 有吉さんがいてくれてよかった。有吉さんを好きになればよかった。心からそう思う。でも、気持ちは操れない。もう、騙すことは諦めた。本当の本当の気持ちは、あたしでさえ手の届かない場所で、速水さんを求め続けてる。 左手首に絡まる金色の細い鎖。 速水さんが、紫のバラの人としてではなく、速水さんとして、たったひとつあたしにくれたもの。ほっぺたに冷たいものを感じて見上げた空から、小雪がちらちらと舞い降りてきていた夜。 速水さんに促されて差し出した手のひらに、まるで金色の滴のように、静かに置かれた細い鎖。 ─── 速水さん、これは? きみにあげる。 え? ただ持っていてくれたら、それでいいから。 これにどんな意味が隠されているのか、ただの気まぐれだったのか、今となっては知る由も無いけれど、でもこの鎖は、あたしにとって速水さんそのものだ。 速水さんに笑ってさよならした後で、自分の部屋のこの窓辺で鎖を握り締めて、この世の終わりのように泣いた。本当に時間が止まったようだった。速水さんと過ごした時間を抱き締めて生きていくということは、時間を止めることと同じだった。 あたしは、まるで自分をそのままそこに閉じ込めるように鎖を左手首に巻き付けた。そして、鎖の絡み付いた左手首を掴んで、心からほっとしたのだ。ああ、もう、これで大丈夫だと。 でも、それでも、時は流れていく。滞りなく。全てに於いて平等に。残酷に。 All my best memories Come back clearly to me Some can even make me cry Just like before It's yesterday once more Every Sha-la-la-la Every Wo-o-wo-o Still shines Every shing-a-ling-a-ling That they're startin' to sing So fine まあるい月を見上げて、夜空に向かって口ずさむ。 今なら、速水さんにも笑われないぐらい、かなり正確に歌える。何度も何度も何度も、繰り返し聴いたから。せめてあの日の速水さんと同じように歌ってみたかったから。 速水さん。 今、どこにいますか? なにをしてますか? あの頃と同じ煙草を吸っていますか? 同じ匂いの香水を愛用してますか? ブルーマウンテンが好きですか? 楽しげに笑っていますか? 今でもあたしの大好きな速水さんですか? 速水さんにも、あたしに流れたのと同じぐらい時が流れて、 もう、変わってしまいましたか? 速水さん…。 せめて、今夜の月を眺めたりしていませんか? 月明かりの中でまどろむ。 時間を止めるすべを失った夜は、朝を迎えるまでじっと耐えるしかない。 どのくらいの時が経ったのか。 真夜中の来訪者を告げるチャイムが、静寂と同じぐらいの密やかさで、 そっと耳に届いた。 10.25.2006 |
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「YESTERDAY ONCE MORE」
Written by Richard Carpenter & John Bettis |