![]() written by lapin . story 10 : Masumi ぽとり、ぽとりと透明な雫が落ちて行く。ひどく静かだ。外の廊下を行き交う足音もしなければ、人の気配もない。白く、清潔で、微かに薬剤の匂いが漂うこの部屋の空気は独特だ。病も死も静かなものだと思った。 ”ご安心ください。お命に別状はありません。ただ…弱っていらっしゃるのは事実です。高齢の方がお倒れになった場合、それがきっかけで急速に老け込まれることが少なくありません。気持ちが弱るのです。どうか支えになって差し上げてください。それができるのはご家族の方だけですから” ご家族の方。 そう医師は言った。義父には身内が大勢いるはずだが、「ご家族」と呼びかけられたときにその場にいたのは俺だけだった。一命を取り留めたことを知った連中は、ほっとして見舞いに来ることなど思いつきもしなかったらしい。もし、死んでいたら…振り払っても振り払っても執拗に群がってきただろう。 そこまで考えると、急に嫌な気分になった。すべてがバカらしい。わかりきったことをわざわざ考えないといけないことが煩わしい。どこまでもまとわりついてくる下らないものたちの影。 白い掛け布団に包まって、義父はまるで無害な大人しい老人のように眠っている。ひどい詐欺に遭ったような気分だ。その弱々しい姿を見下ろしても、ざまあみろと笑うことも、せいせいしたと喜ぶことも俺にはできないのだ。ただ、ひたすら静かだった。 「…真澄か」 気づくと、義父がこちらを見上げていた。薄い膜が張ったような水っぽい瞳をしている。 「ええ、僕です。ご気分はいかがです?」 「…いいわけないだろう。最低だ」 喉に痰が溜まっているらしく、苦しそうに何度か咳払いをすると、義父は顔を顰めた。 人を呼びましょう、と言うと、煩そうに首を振った。俺は仕方なく立ち上がりかけた腰を戻した。 「おまえ、仕事はどうした?」 「やってますよ。今はちょっと抜けてきたところです。これから戻りますが」 俺の言葉などまるで耳に入らない様子で、義父は不快そうに続けた。 「見舞いなんかに来る暇があったら、もっと他にやることがあるだろう。わしなどより、もっと他に会うべき人がいるはずだろう」 取引先の担当者や親交のある代議士のことを言っているのだろう。義父があまりに義父らしいので、俺は拍子抜けした。命に別状はないと聞いていても、やはりどこかで引っ掛かりを覚えていたらしい。 「わかりましたよ。では、僕は退散するとしましょう。ゆっくりお休みください」 ふん、と義父が鼻を鳴らした。コートを手に立ち上がると、俺はふと思い出したように付け足した。 「UPL社の件、ありがとうございました」 義父が僅かに口元をゆがめた。 「なかなかだろう、彼女は。おまえは青い。彼女に学べ」 「ええ、そうします」 武者小路寿美麗の勝ち誇った顔が浮かんだ。思わず苦笑していた。 「では、僕はこれで。失礼します」 軽く頭を下げて行きかけたところで、背中に声が掛かった。 「真澄。わしのことは構うな。自分のことを考えろ。会いたい人がいるなら会いに行け」 「わかってますよ…」 「いや、わかってない」 一瞬、切迫したような間ができた。義父は何を言おうとしているのだろう、と俺は考えた。なぜか振り返る気になれなかった。 「一年前だ。わしは、ある人に会いに行った。そして、こう言った。『今度、息子が結婚するんです。相手のお嬢さんも素晴らしい方で、まったくこれ以上の良縁は、どこを探してもございません。ようやくこれで安心して隠居できます』とな。その人は糊で貼り付けたような笑顔で言ったよ。『おめでとうございます。よかったですね』と」 深い溜息が聞こえた。おぼろげながら、話の行き先が見えてきた気がした。 「わしは怯えていた。あの人がすべてを持って行ってしまう、ぶち壊しにしてしまう、そう信じていた。ふっ。あの細い腕で、信じることと演じることしか知らない頭で、一体どんな災いをもたらすと思ったものか。愚かだな」 不思議と怒りは湧かなかった。哀れだな、と他人事のように思った。 「おまえは結局誰とも結婚しなかった。あの人とも。わしは…ずっと気になっていた。いつか言おうと思っていた。詫びても仕方がないことだし、おまえもわしの侘びなど聞きたくもないだろう。だが、人は皆いつか死ぬ。わしも、おまえも、あの人も。だから…いや、それだけだ。引き止めたな。もう行け」 振り返ると、義父は固く目を閉じていた。 「失礼します」 病室を出ると、そのまま廊下を突き当たりまで歩いて、非常階段を使って外に出た。迎えの車を返すと、俺は木枯らしが吹く中をめちゃくちゃに歩いた。目的もなければ、行き着く先も見えなかった。ただ、黙々と歩き続けた。 ─── お幸せですねぇ、速水さんも。 結婚式まで待ちきれないでしょう。あんなに綺麗な人だもの。 ぐにゃりと歪んだ笑顔。不自然に見開かれた瞳。 マヤが嘘を吐いていることはすぐにわかった。あんな猿芝居では子供だって騙せない。その細い肩を掴んで、力いっぱい揺さぶって、俺の目を見ろ、なぜ嘘を吐く、そう問い質せたらどんなによかっただろう。俺には、できなかった。 マヤは俺を拒絶している。 距離を置こうとしている。 その事実を受け入れることだけで精一杯だった。美しい蜘蛛の巣を張り巡らせるようにして守ってきた短い時間が、無残に風にさらわれて、方々に散っていくのをただ黙って見つめていた。すべては俺の思い込みだったのかもしれない。 ─── だって、速水さんは。 あたしの、大事な、紫のバラの人、…だから ”紫のバラの人” 俺は結局、最後まで紫のバラの人でしかなかったのだ。それ以上でもそれ以下でもなく。俺を打ちのめすのに、あれ以上に的確な言葉はなかった。引き止めることなんて、できなかった。 ポケットの中で握り締めていた掌に、金属片が食い込んでいく鈍い感触を覚えている。感覚が麻痺していたからか、ひとりになってから確かめて驚いた。円環状にくっきりと痕が付いていた。 ─── 速水さん、これは? きみにあげる。 あの最後の日、マヤの左手首にいつも巻かれていたそれはなかった。未練がましく確かめた俺の目に、裸のマヤの手首は、ひどく寂しく見えた。 もっと早く言えばよかったのか、結局言わなくてよかったのか。 何をすればこうはならなかったのか、何をしても結局こうなったのか。 急速に固く冷たく強張っていく脳髄が、埒の明かないことを繰り返し考え続けていた。全部きちんと片を付けてから言おうと思っていた。マヤに渡したあの金の鎖は、精巧で洗練されてはいたけれど、それだけではあまりに寂しかった。 ─── ただ持っていてくれたら、それでいいから。 嘘だ。本当に渡したいものは他にあった。本当に言いたいことは別にあった。 ”いつか君の指に嵌められる日が来るまで、君に持っていて欲しい” もし、あのとき呑み込んだ言葉を口にしていたなら、マヤはあの鎖を手首ではなく首に掛けて、俺からの指輪を受け取ってくれただろうか。今となってはわからない。確かめることもできない。義父が言ったことが事実だとしても、俺の上にもマヤの上にも、時がもう流れすぎた。寄り添いながら、エスカレーターを下っていく二つの影。 あの細い鎖は、今どこにあるのだろう。まだ、この世界のどこかにひっそりと横たわっているのだろうか。 ![]() 結局、社に戻ったのは夕方近かった。 「真澄様、遅かったんですのね。会長は?」 待ち受けていた水城に義父の様子を手短に伝えると、俺はデスクに座ってコーヒーを頼んだ。山積みの書類、いくつもの会議、報告を携えて次々とドアをノックする部下たち。俺の生活は俺の周囲で確実に速やかに流れていく。何があろうと、何がなかろうと。いつも変わりなく。 武者小路寿美麗がやって来たのは、七時五分前だった。俺は七時から始まる会議の最後の準備をしていた。 「君か。あと五分で会議なんだ。明日じゃ困るのか」 「なるべく早い方がいいでしょうね」 俺は手早く書類をまとめながら溜息を吐いた。 「そうだな、二時間半後か…いや、三時間後にまた来てくれないか」 「そうですか。…ところで、夕方のニュースはご覧になりましたか?」 俺はドアに向って歩きながら首を振った。 「忙しいんだ。そんな余裕はない」 立て続けに三つの会議を終えて自室に戻った頃、時計の針はすでに11時を指していた。しかも、降って湧いたようなトラブル対応が加わって、まだまだ終わりそうにない。今夜は徹夜だな。ネクタイを緩めてワイシャツのボタンを一つ二つ外すと、俺は短く息を吐いて覚悟を決めた。 「失礼いたします」 ノックに続いて、涼しげな声が響く。武者小路寿美麗だった。 「こんな時間までご苦労なことだな」 「いいえ。仕事ですから」 味も素っ気もない言い方をすると、武者小路寿美麗は淡々と定例の報告を行い、いくつかの事項について俺の指示を仰いだ。 「以上です」 「ああ。ご苦労だった。…そうだ、義父に会ったよ」 武者小路寿美麗は表情を変えずに頷いた。 「謝られた。侘びは言わない、とこう言うんだ。あまりにあの人らしくて、笑いそうになったよ。変な気分だった。少しも腹が立たない。この間のことにしても、そうだ。昔だったら、あの人に助けてもらうことなんて屈辱以外の何者でもなかっただろう。君を勝手に寄越したことだって腹を立てていたはずだが、途中からどうでもよくなってしまった。俺は…変わった」 武者小路寿美麗を相手に、俺は一体何を言っているのだろう。午後、木枯らしの中をめちゃくちゃに歩いたときのことを不意に思い出した。寒かった。 「年をとったのかな」 苦笑しながら見上げると、武者小路寿美麗は複雑な顔をしていた。かたつむりたちも気のせいかしおらしく見える。 「変な話をして悪かったな。そうだ、ニュースだったな。面白いことでもあったのか?」 雰囲気を変えるようにリモコンに手を伸ばすと、俺はチャンネルを変えて深夜のニュース番組に合わせた。 『続いて、芸能コーナーです』 リポーターの声に続いて、大都劇場の楽屋口が映った。一瞬、何事かわからなかった。俺の目は送られてくる映像を無意味に映すだけで、それをうまく変換することができない。マヤがいた。そして、マヤの隣にはあの若い男がいた。赤く扇情的な文字で、『北島マヤ熱愛発覚か!?』と書かれたテロップが踊っている。迷子になった子供のように、大きく見開かれたマヤの瞳。左右から細い体が押し潰されそうになっている。暴力的なフラッシュの嵐。咄嗟に顔の前にかざされる手。 そして、俺は見た。 マヤの左手首には、あの細い金の鎖が光っていた。 「武者小路寿美麗さん…ちょっと出てきます」 画面から目を離さずにボタンを留めてネクタイを締め直す。武者小路寿美麗が隣で笑う気配がした。 「ええ。後のことはお任せください。…それから、これ。水城さんから」 二つに折り畳まれたメモ用紙らしきものを握らされる。コートと鍵を掴んでドアまで行くと、俺は肩越しに振り返った。武者小路寿美麗は部屋の真ん中で腕を組んで立っていた。照明が真上から当たって、かたつむりたちが燦然と輝いている。 「ありがとう。君は、史上最高の…かたつむり女だ」 武者小路寿美麗の返事を待たずに部屋を飛び出すと、俺は廊下を走ってエレベーターに駆け乗った。掌の中のメモ用紙を開くと、水城の字で住所が走り書きされている。あのゴッホのカフェの近くだった。ガラス張りのエレベーターに地上まで運ばれる間、俺はずっと月を見つめていた。白く、円く、満ちた月だった。 10.28.2006 |
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