Concerto

  written by 咲蘭  .


 story 7 : Maya



















「観てみたい…!」

「じゃあ、今日からソワレあるけど、行く?」

「…行く!」
 
 有吉さんの所属する演劇集団の公演は一度観てみたいと思っていた。有吉さんの演技は、口から発せられる台詞以上にシンパシーを感じさせる空気があって、普段、有吉さんが芝居をしている環境を観てみたかった。それは純粋に役者として興味をそそられることだった。

 稽古が終わると二人して急いで稽古場を飛び出して、電車に乗ってオフィスビルに隣接した劇場に向かった。夕焼け空に突き刺さりそうなオフィスビルのガラス張りのロビーを抜けて、下りのエスカレーターを目指す。
 スーツを着込んだたくさんの人たちが行き交う。ネクタイを締めて、ブリーフケースを持った同じような人たち。こんなにたくさんいるのに。

「…誰か探してる?」

 有吉さんが怪訝そうな顔をする。

「えっ…べつに…。だた、みんな同じ人に見えただけ…」

 嘘だ。たとえ同じようなスーツを着て、同じようにネクタイを締めて、同じようにブリーフケースを持って歩いていたとしても、視界にさえ入れば見つけられない筈がない。
 有吉さんは、ふーんとそれ以上の追及はせずに、吹き抜けの天井を見上げた。

「高っかいビルだよなぁ。あんな雲の上みたいな場所でネクタイ締めて仕事しているヤツらもいるんだよなぁ、世の中には」

「…ほんとね」

 あたしは、そんな人を知っている。背の高いビルのその一番上の自分専用の部屋で、煙草の煙を燻らせながら書類を捲っていた人を。
 今はもっと背の高いビルで、あの頃と同じように煙草を燻らせているのだろう。もう、豆台風なんか迂闊に近づけないような、高い遠い所で。

「で、オレらは地下の小劇場へ向かうと」

 地下へ向かうエスカレーターへ有吉さんは迷わず踏み込んでいく。高い空を背にして。西日が有吉さんの背中と地下に向かって真っ直ぐに射し込む。あたしは目を細めて、有吉さんの隣に並んでエスカレーターに乗った。

「あたしも地下劇場で芝居してたよ」

「ああ、一角獣と月影の?」

「良く知ってるんですね」

「芝居やってて一角獣と月影を知らないヤツはいないよ」

 有吉さんの右手が肩に触れたような気がして見上げてみたけれど、有吉さんはまるであたしの視線には気付かないように、携帯電話を片手で開いてデジタル時計の表示を睨みながら、開演ぎりぎりだなと呟いた。だからあたしも、肩に触れている右手には、気付かないふりをすることにした。あたしは、黙って前を見据える。









「いい顔してるねぇ」

 有吉さんがニヤつきながら言う。

「…いいお芝居観た後は、しばらくトリップしちゃうんです。ほっといてください」

「はいはい」

 あたしはわざと怒った顔をして早歩きする。有吉さんは、一歩後ろから鼻歌交じりでついてくる。キャパ450ほどの小劇場は、最初から最後まで息もつかせぬ展開で胸の奥底を突くような空気で包まれた。終演後もいつまでも余韻を噛み締めたくなるような、そんないいお芝居だった。あれが有吉さんのホームグラウンド。

「きみと出逢ったのは、必然だから。それ以外になりようがないんだよ」
 
 今夜の芝居の中で、一番印象深かった台詞を小さな声で口に出してみる。必然だから。それから、くるりと振り向くと、ポケットに手を入れて首をかしげて笑う有吉さんがそこにいた。

 夜道。
 月明かり。
 笑ってあたしを見る、背の高い人。

 あたしは目の前の光景に酷く動揺してしまう。時間は全てに於いて滞りなく進んでいく。隣にいるのは速水さんじゃない。今、あたしの隣にいるのは速水さんじゃない。

 きっとあの濃縮された日々は、毎日突き進んで行くべき時間のほんの小さなエアポケットで、軌道修正して消え失せていくものだったのだ。
 だけど、あたしは忘れられない。あの過去の時間を忘失することは死に等しい。たとえ、自分の意志でその時間に終わりを告げたのだとしても。


─── お幸せですねぇ、速水さんも。
     結婚式まで待ちきれないでしょう。あんなに綺麗な人だもの。

     ね、速水さん。

     速水さんは、どんなときでも、速水さんでいてください。
     速水さんとして、速水さんらしく、幸せになってください。

     楽しかったです。いっぱい付き合ってもらって。
     でも、もう今夜が最後ということで。
     速水さんはもう存分に花嫁さんのことを考えてくださいね。


 どもらずに良く言えたものだと思う。あれは、一世一代のとんだ猿芝居だった。猿芝居だったのに。
 速水さんは、酷く険しい顔をして、それから、固く目蓋を閉じて。
 それから。
 途方もなく、やさしく、遠く、笑った。


─── そうだな。それじゃ、またいつか。チビちゃん。


 すぐ目の前に立っていたのに、何百光年も遠くに感じた。
 本当は、そんな笑顔なんて見たくなかった。
 本当は、怒りや悲しみを表してほしかった。

 嘘でも。

 でも、速水さんは誠実だった。全てに於いて。嘘はつかない。
 だから、あたしが自分で自分を騙す。

 手首に絡まる金色の細い鎖。
 二連で巻かれた、ごく細い華奢な鎖。
 心が動揺するたびに揺れる鎖。

「きついな…それ」

「え…?」

「その手首の。それにどんな意味があるのか知らないけど…」

「………」

「でも、人の顔を見て、つらそうな顔をして、それを掴むのは、ちょっときついよ」

 やさしくて、意地悪で、悲しそうな笑顔の有吉さん。
 ごめんなさいとありふれた言葉で謝ることは、さらに有吉さんを傷つけてしまうような気がして、あたしは何も言えずに唇を噛む。黙ることの方が、もっと狡いことだと分かっていながら。

「踏み込んじゃいけないところに、踏み込んでいるのかもしれないけど、でも、言わせてもらうよ」

 耳を塞いだほうがいいのだろうと思ったけれど、体は動かなかった。

「……それ、外した方がいいんじゃない?」

 eau cafeでブルーマウンテンを飲んで、家に帰って、お風呂に入って、静かに眠りたかった。シャンパンを買って帰ってもいい。あたしは、速水さんと過ごしたあの過去の時間に、金色の細い鎖とともに取り残されたまま生きていきたいのに。波風はいらない。ただ、じっとしていたいのに。

「…なんてね。言い方違うか。外してくれたら、なんとなくオレが嬉しいってだけだよな」

 有吉さんは、両手で髪を掻き上げて、そのまま夜空を見上げて一人ごちる。北島さんは強情だからなー、そう簡単じゃなさそうだけどさー。
 戯けてくれた有吉さんに、あたしは本当に失礼にも安堵の溜息をつく。
 有吉さんは、鋭くて、やさしい。

「さて、帰ろっか」

「…うん」


 速水さんは、どんなときでも、速水さんでいてください。
 速水さんとして、速水さんらしく、幸せになってください。
 それが、あたしにとっても幸せだから。
 だって、速水さんは。
 あたしの、大事な、紫のバラの人、…だから

 そう思っているけれど、それは嘘じゃないけれど、
 でも、ときどき辛い。

 本当の本当は、速水さんに逢いたい。
 逢いたい。
 逢いたい。


 逢いたいよ、速水さん。





10.20.2006






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