Concerto

  written by lapin  .


 story 6 : Masumi



















 月明かりが仄かに周囲を照らし出している。黒く切り取られた木々のシルエット、少し肌寒い風。暖房と人いきれでむっとするほど暑かった会場を後にして、俺たちは伸び伸びと安らいでいる。俺たち。隣を見下ろすと、マヤは正面を向いたまま鼻歌を歌っている。その調子からマヤもまた機嫌がいいことを察して、俺は思わずうれしくなる。

 「ひどいパーティーだったな」

 俺が言うと、マヤは共犯者顔でにやっと笑った。

 「すぐそういうこと言うんだから。悪い社長さんですねー」

 でも、マヤだってきっとそう思っていたのだ。ひどいパーティーだった。退屈なうえに長い。食事もまずいし、人もまずい。

 「あたしは」

 そう言って立ち止まると、マヤは俺は見上げた。長い髪が風にさらわれて、ふわふわとマヤの顔の周囲を踊っていた。パーティーでは必ずと言っていいほどアップスタイルなのに、なぜか下ろしている。ふと奇妙な印象を受けた。

 「あたしは、それほどひどいとも思わなかったな」

 マヤはゆっくりと言った。

 「だって…速水さんと一緒にいられたから」

 胸が締めつけられるような感動が俺を襲った。それは痛みが遥かに勝った感情だった。胸が痛くて堪らなかった。なぜだろう。マヤの言葉はうれしくて仕方がないはずのものなのに。

 「俺も…俺は…」  

 そこで目が覚めた。

 薄闇に目を凝らしたまま、俺は夢の場面をもう一度思い浮かべた。月明かり。並んで歩く俺とマヤ。あんな会話は実際にはなかった。もっとずっと曖昧だったのだ。認めたくないが、たぶん俺は夢を観ていたのだろう。あの頃も、今も。
 次第に輪郭を失っていく夢の手触りを追うことを止めて、俺は溜息をひとつ吐いた。  
 








 「…社長…社長?…真澄様…」

 「…ああ、なんだ」

 顔を上げると、不安そうな水城の顔が正面にあった。

 「もしかして、お加減でもお悪いのではございませんの?」
 
 水城は俺の顔を覗き込みながら言った。顔を背け、ひらひらと手を振ってみせると、俺は続きを促しコーヒーを口に運んだ。釈然としない顔をしつつも、水城がスケジュールの続きを読み上げる。
 俺は気を抜かないように注意しながら、要所要所で頷いてみせた。そのつもりはないのだが、気づくと意識が拡散してしまうのだ。他に考え事や悩み事があるわけではないから、特に何を思うわけでもないのだが、ついぼんやりとしてしまう。疲れているのかもしれない。

 「ご苦労だった」

 水城は一礼するとバインダーを小脇に抱えてドアへと歩いて行った。水城の頭上から、無数のかたつむりがこちらを注視していることに気づいたのは、ドアが閉まった後だった。俺は危うくコーヒーカップを落としそうになった。

 午後になると、元祖かたつむり女がやってきた。

 「…この件につきましては、井上常務がバックアップしてくださることになりました。もちろん経過は逐次速水社長にご報告申し上げます。本日のところは以上です」

 俺は頷いた。武者小路寿美麗は一礼したが、立ち去る気配がない。何を愚図愚図しているのだろう、この女らしくない。微妙に神経に障るものを感じながら、俺は仕方なく顔を上げた。武者小路寿美麗は真面目な顔をしてこちらを見ていた。癪に障るくらい美しい女だ。

 「どうしました?武者小路寿美麗さん」

 「寿美麗でけっこうです」

 俺は下手な冗談を聞いたような顔をしてみせた。たったの二日で、武者小路寿美麗が社内でちょっとしたアイドル扱い(!)をされていることなら俺も知っている。あの冷徹な営業本部長まで、やに下がった顔で「寿美麗くん」などと呼びかけていたのも目撃している。水城は特にひどい。武者小路寿美麗と一緒にランチに行っているし、髪型までお揃いだ。水城を捕まえて確認したところ、あのけったいな髪型は「ポンパドール」らしい。あそこまで極端なのはロココ朝まで遡らないとお目にかかれないと思っていた。

 「それで、一体なんなんです。武者小路…さん」

 俺は努力して、「武者小路」と「寿美麗」を切り離した。世の中には、抗いがたくワンセットになった姓名があるものだ。

 「いいえ。…UPL社の件は順調かと思いまして」

 UPL社のロジスティクス部門との提携は、武者小路寿美麗に心配されるまでもなく順調だった。明日、正式に調印式を行い、マスコミにも公表する予定だ。現在は、最終的な書類の確認中だが、それも形の上でのことだった。

 「ご心配ありがとう、と言うべきかな。おかげさまで順調ですよ」

 俺が答えると、武者小路寿美麗は頷いた。心なしか、浮かない顔をしているような気がする。この女にしては珍しい。何事か尋ねかけたとき、次の面会者の来訪を知らせるノックが響いた。武者小路寿美麗は一礼すると出て行った。









 やはり俺はぼんやりしていたのかもしれない。
 自分ではあまり意識していなかったが、きっと知らず知らずのうちに脇が甘くなっていた。そう認めざるを得ない。
 その日の夕方、翌日に控えたUPL社のロジスティクス部門との業務提携合意書に不備があることが発覚した。致命的な不備だった。コンプライアンスの専門家として雇った外部の弁護士は行方をくらませていた。考えたくなかったが、状況から明らかだった。俺は何者かに嵌められたのだ。

 冷静になれ。
 そう自分に言い聞かせながら、俺は善後策を検討した。とにかく何とかするしかない。問題は、この失態を公にすることができないということだった。ふと周囲を見渡せば、社内・社外あらゆるところに敵がいた。社内の人間が信用できないから外部に置いた男に裏切られた。最悪のシナリオだ。今から新たに外部の人間を見つけるにしても、調印式は明日なのだ。無理がある。どうすればいい?とにかく早く誰かに当たらねば。
 四面楚歌とはこのことだな、と自嘲しながら、俺は電話に手を伸ばした。その瞬間だった。ドアにノックが響いた。

 「失礼いたします」

 武者小路寿美麗だった。武者小路寿美麗と面会の約束はなかった。怪訝に思いながら見つめていると、武者小路寿美麗は振り返った。武者小路寿美麗の後ろから顔を出したのは、柔和な顔をした小柄な中年男だった。俺は思わず腰を浮かせていた。俺でも顔くらいは知っているベテランの弁護士だった。コンプライアンスとコーポレートガバナンスの分野における、日本の草分け的存在だった。

 「初めまして。渋谷と申します。何かお困りのことがあるとか、伺いましたが。私にお手伝いできることはありますか?」

 神が降臨した瞬間だった。









 続けざまにフラッシュが焚かれ、白い残像が目の前で弾ける。光の中心でがっちりと握手を交わしながら、俺はレンズの奥に向って微笑んだ。

 「ありがとう。君のおかげで助かった。感謝する」

 ビジネスランチというにはいささか優雅すぎる、シャンパンの泡と開けた緑の最中で、俺は初めて武者小路寿美麗に向って微笑んだ。武者小路寿美麗は目を細めると、まんざらでもない顔をした。以前だったら癪に障ったかもしれないその得意顔も、今は幸運の女神の微笑みに見えるから不思議だ。

 「ところで、どうしてわかったんだ?君はもともと不審を抱いていたんだろう?タイミングもぴったりだった…」

 グラスを置いて尋ねると、武者小路寿美麗はテリーヌにナイフを入れながら答えた。

 「会長です」

 「会長?」

 「ええ、速水会長。私をこちらに派遣するにあたって、会長に頼まれたんです。UPL社との業務提携は飛躍のチャンスだが、チャンスは命取りにもなり得る。そこをサポートしてやってくれ、と」

 武者小路寿美麗は無言でテリーヌを食べ続け、俺は言葉を失っていた。

 「あの人がね…」

 ようやく呟くと、武者小路寿美麗は口元を拭い、顔を上げた。

 「会長は社長が思っていらっしゃる以上に、様々なことをお考えですよ。私が口を差し挟むべきことではないのでしょうけれど、一度ゆっくりお話になっては?」

 いつものクリアカットなコンサルタント口調よりも、少しだけ柔らかく聞こえた。俺は不意に、いもしない姉に会ったような気がした。バカげた妄想だった。

 「ついでにもうひとつだけ」

 ふふふ、と不気味な笑みを浮かべると、戦慄する俺に構わず、武者小路寿美麗は続けた。

 「ずいぶんぼんやりしてるみたいだけど、彼女と何かあったの?」

 俺は思わずむせそうになった。タメ口以上に、内容に衝撃を受けていた。なんなんだ、この女は。一瞬でも武者小路寿美麗に気を許した自分を呪いながら、俺は必死に体勢を立て直した。

 「彼女、ですか?彼女なんていませんが」

 動揺のあまり、思わず敬語を使っていることに気づかず、空いている左手を自棄のようにひらひらと振ってみせると、武者小路寿美麗はふふんと鼻で笑った。

 「誰も元婚約者のことなんて言ってないわよ 」

 俺は今度こそ黙りこむしかなかった。








10.18.2006






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