![]() written by 咲蘭 . story 3 : Maya 「マスター」 コーヒーを運んでくれたタイミングで声をかけてみる。マスターは、はい?とちゃんと視線を合わせてくれる。 「いつも思うんですけど、夜は何かの絵に似てるなって」 以前、麗に言われたことがある。たのむから主語と述語を言ってくれ。その的確な注意は未だ完璧に守られたことはなく、いつもあたしの言葉は正確に人に伝わらない。それは、あたしが悪い。今もマスターは、答えに窮して困った笑顔になっている。 「あ、ごめんなさい。えーと。この店から、夜帰るとき、振り返るとね、暗い夜の中にぽっかりとここだけ明るくて、それが、以前どこかで見たことがある絵に似ているなって思ったんです…」 マスターは少しばかり目を泳がせて、それから合点がいったという風に、にこりと笑った。 「ゴッホですか?」 「ゴッホ?」 「はい。夜のカフェテラスというゴッホの油絵。たしかに北島さんのおっしゃるイメージに近いかもしれないですね」 「あの、青と黄色で、空には星がいっぱいで…!」 「たぶん、同じ絵を思い描いていますよ」 あたしは嬉しくなってにこにこしてしまう。どうやったらその絵をもう一度見ることができるのかよく分からなかったけれど、必ず探してみようと思った。ゴッホ。夜のカフェテラス。忘れないように、ちいさな声で何度か呟く。 ![]() 「それは、危険信号だよ」 こともなげに有吉さんは言う。ぺペロンチーノをぐるぐるにフォークに巻きつけて、大きく開けた口に次々に運んでいく合間に。ランチ時は、どこのお店も混んでいる。 「危険信号の意味がわからないですけど?」 せっかく人がゴッホの話をしてあげたというのに(というか、誰かに話したくて堪らなかった)、いきなりそんなことを言われて、あたしは悔し紛れにラザニアにぐさりとフォークを突き刺す。 「カフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすいところだということを表現しようと努めた」 「…なんですか?それ」 棒読みな科白。有吉さんは、水滴の付いたガラスのコップいっぱいの氷水を、いつものように景気よく喉を鳴らして飲み干す。水滴に光が反射して、眩しい。 「ゴッホの言葉。夜のカフェテリアについてそう言ってたらしいよ。夜毎にカフェに入り浸る人間は危ないっつうことじゃないの?」 あたしは、さっきの有吉さんとゴッホの科白を反芻する。 カフェとは。危険信号。当たらずとも遠からず。 あたしはやっぱり可笑しくなって笑い出す。 「…有吉さんって…。実はうんちく王?」 「せめて、雑学王と呼んでくれ」 くすくすくすくす、可笑しくて笑える。 「少なくとも」 「はい?」 「少なくとも、それぐらいの笑顔で言うべきだと思うよ」 「なにがです?」 「幸せだって話し」 ─── つまんなくないよ。幸せだよ 有吉さんこそ、危険信号。鋭すぎるから、危険信号。さらさらと左手首で金色の細い鎖が揺れる。隣のテーブルにいた共演者たちが、先に戻ってるぞと声をかけて、ぞろぞろと店を出て行く。 「それ、いつも着けてるね」 有吉さんが、あたしの左手首を指さす。 「でも、撮影とか、舞台の本番とか、そういうときは外しますよ」 そりゃ、そうだよね、と有吉さんが笑う。でも、それ以外はいつも着けてるね。気に入ってるんだ。 「だって、…ほら、きれいでしょ」 軽く走った動揺は、ちゃんと押し隠せる。女優だから。食事を終えた有吉さんは、椅子の背凭れに寄りかかって、何も言わずに口元だけで笑う。有吉さんは、鋭すぎるから、危険信号。気の緩みは思わぬ事故をもたらしてしまうから、だから、あたしは、いっそう気を引き締める。 「……お守りみたいなもんですから」 この場所に留まるための。留まりたいがための。 「お守りか。ミサンガみたいだね。そこに念を込めてるんだ。幸せになりますようにとか」 冗談めかした有吉さんの声。あたしは片眉を上げて睨みつける。有吉さんは、ますます冗談めいて、失言でしたと戯けた。 ![]() こういう日は、シャンパンを買って帰る。安いやつで構わない。どうせ、味の違いなんてよくわからないのだから。ただ、シャンパングラスの中で細かい泡がいくつも生まれて消えていく様を眺めて、それから飲む。ひたすら。ボトル一本分繰り返す。 ─── チビちゃん、おめでとう。 したたかに酔いが回れば、鮮明に思い出せる。低くて滑らかで、胸の痛みを伴う声を。ほら、たった今、囁かれたように。 ─── 実は自分のことのように嬉しいんだ。 とても信じてもらえないだろうけれど。 念を込めているとしたら、それは、幸せになりますようにじゃない。忘れませんように。一生この声を忘れませんように。麗はいつも言う。自分が幸せになることも考えなよ。有吉さんまで、あんなことを言う。違う。みんな間違ってる。あたしは、幸せなのに。金色の、この細い鎖が絡みつくように、この声さえ忘れなければ、あたしは一生、幸せなのに。 ─── きみの紅天女は圧巻だった。 おれにとって、紅天女はきみだけだ。 この先、何があっても。 あの夜、あたしにそっと手渡してくれた祝福のシャンパン。細かい泡が中庭のライトを映してきらきらと輝いていた。 とてもきれいで、泣きそうだった。 10.10.2006 |
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