story 3 |
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それからの数年は、私の人生の中で決して明るくはない時期だった。イギリスでの生活は行き詰っていた。このまま博士課程に上がり、研究者の道に進むのか、別の道を探すのか。進路の悩みは片時も離れることなく頭の中を渦巻き、眠っている間も重苦しく胸を塞いだ。結局、自分は何がしたいのか。自分は何者なのか。常にふたつの問いを目の前に突き付けられている毎日。目を背けても追ってくる、目を閉じても頭の中に木霊する。そして、迷っている間も時は容赦なく流れ、研究成果を上げることで絶えず自分を証明し続けなければならない営みからは逃れられなかった。だんだん追い詰められていく。狭く暗い場所に入り込んでいく自分を、うまく呼吸できなくなっていく自分を、ぼんやりと感じた。 母が倒れたと聞いたのはちょうどその頃だった。たとえ一時でも脱出できることに安堵した。そして、母の病気をそんなふうに考えることしかできない自分に深い憂愁を覚えた。自己嫌悪のような生々しい感情はもはやなかった。喜怒哀楽が年々薄くなっていく。静かに朽ちていく自分を成す術もなく見つめていた。過去は記憶の中で物語となり、神話となる。今を生きる私には、過去との間の橋が見つからない。美しいもの、素晴らしいもの、価値あるものはすべてここではないどこかにあり、今ではない時の中にあった。父はもういない。 母はすっかり痩せていた。子供のように大人しく瞼を落とし、胸の上で手を組んで横たわっている姿を目にした瞬間、大きな塊が喉元まで込み上げてきて、私をひどく狼狽させた。何とか動揺を押し殺し、笑顔を作ると、私は枕元に歩み寄った。 「ママ?ただいま戻りました。藍生です」 母がゆっくりと瞼を上げた。そして、淡く、うれしそうに、心からうれしそうに、目を細めた。 「…おかえりなさい」 ようやくのことで絞り出したような儚い声だった。すっかり腹筋がなくなっているようだった。また胸が詰まり、鼻の奥がつんとした。気を抜くと涙をこぼしてしまいそうだった。 「よく戻ってきましたね、藍生さん。あなたにお願いがあって…ずっと待っていたのです」 苦しそうに、ゆっくりと紡がれる母の言葉を聴いているうちに、堪らない気分になった。 「ママ、いいから。私ならずっといます。だから大丈夫。無理しないで…お願い」 母はちょっと驚いたように瞳を見開き、それから微かに頷きながらまたうれしそうに微笑んだ。涙腺が緩んでいる私には堪らない笑顔だった。 母の死期が近づいていることは誰に告げられなくてもわかった。生命のオーラがもともと希薄な人ではあったが、薄く、向こうが透けて見えそうな横顔を見ているだけで、予感は深々と体の奥から湧き上がってきた。ひとりひとりと家族がいなくなっていき、ついにひとりになる。暗い宇宙に投げ出されたような途方のない心細さだった。母が死にませんように、と毎日祈っていた。 休学の手続きをとるために一度イギリスに戻ると、後はずっと母に付いていた。これほど母と一緒にいたのは人生で初めてだった。年をとって自分が変わったのか、母が変わったのか。不思議なほど穏やかで…楽しい時間だった。死んでいく相手と一緒にいることは時にひどく疲れることだ。起き上がれないほど体も心も重くなることもあったが、それでもやはり楽しかった。意外なことに。母はよく知っている母であると同時に、まったく知らない他人でもあった。かつて苦手だった母は、幼い私が作り上げたひとつの幻影だったのかもしれない、とまで思った。朝、カーテンを開けに母の部屋に行く。母はしばらく眩しそうにしているが、私の姿を見とめると微笑む。花を生けたり、水差しの水を替えたり…母の具合がいいときは話をする。私が幼かった頃の話、母自身が幼かった頃の話、父の話。楽しそうに、懐かしそうに、穏やかな声で語る母に、当時恐れ疎んでいた怖い母の面影はない。母が近づいてきたようなうれしさと、やがて母を失うことになる寂しさと、常に背中合わせのふたつの感情を抱いて母と接していた。 母の「お願い」を聞いたのは、冬の足音が聞こえ始めた曇った午後のことだった。いつになく冷え込んだ日で、母の部屋はストーブの火で過剰なまでに温められ、窓ガラスが白く曇っていた。熱いお茶と頂き物の干菓子。他愛ない話をしながら午後のひと時を一緒に過ごしていたが、ふと沈黙が舞い降りた。何を考えるということもなく、私はぼんやりと肘掛け椅子に沈み込んで、母の掛け布団を縁取っている繊細な手編みのレースを見つめていた。 「藍生さん、あなたにお話ししなければならないことがあります」 不意に母が小さく強張った声で言った。私は驚いて顔を上げ、母の深刻な口ぶりを笑い飛ばそうとし…ぎこちなく笑顔を引っ込めた。母は固い表情で宙の一点を見据えていた。悲愴なまでの決意を漂わせた、どこか痛々しい横顔を目にすると、言葉は独りでにどこかに消えて行った。仕方なく頷くと、私は母を見つめた。小さく息を吐くと、母はぽつぽつと語り出した。母と父と…彼女のことを。 母から聞いた話を、今ここに書くことはしないでおこうと思う。今では母もこの世にはいない。きっと母は書かれることを嫌がりはしないだろう。むしろ、望みさえするかもしれない。罰として。母はあのとき懺悔をしたかったのだと私にははっきりわかる。でも、すべてを明らかにすることが必ずしも一番良いことではないと私は思っている。明らかになるべきことは自ずと明らかになるだろう。秘されるべきことは時の闇の中へ。 長い長い話の後に、母の「お願い」を聞いた。春になったら、二年ぶりに再演されることになった「紅天女」の舞台を観に連れて行って欲しい。鈍い衝撃から立ち直れず、彫像のように凝り固まったまま黙りこくっている私に向かって、母は静かにそう言ったのだった。 紅天女。幻の舞台。神と仏の不可能な恋。共に生きることの叶わない者同士の、死をも超える結びつきを描いた、永遠の物語。 今では伝説となった女優による奇跡の舞台を、私は見た。でも、そのとき私の傍らに母はいなかった。母はとうとう冬を越すことができなかった。24年間の記憶と夥しい数の美しいものたちを残して、母はいなくなった。ある明け方に、時の網をそっとすり抜けて向こう側に行ってしまった。私を置いて。 父が去り、母が去り、ついに私だけになってしまった広大な屋敷の中でひとり過ごしたあの年の冬、何をして過ごしたか、まったく覚えていない。たぶん本はあまり読んでいない。本はイギリスに放置してきたものをあまりに容易に思い出させる。音楽も聴いていないはずだ。気が散るから。友人たちには帰国したことさえ知らせないまま数ヶ月が過ぎてしまっていたし、誰とも会いたいと思わなかった。記憶の牢獄の囚人でいることが逆説的な幸福を保証してくれた。昼も夜も関係なく、ぐるぐる家の中を歩き回った。父の書斎に入って父の椅子に腰を下ろし、父が時折見ていたに違いない風景を窓ガラス越しに見つめた。暗褐色の庭と低く垂れ込めた冬の空。そして、母から聞いた瞬間に、脳髄に染み付いて自分の一部となってしまった「あの話」を飽きることなく反芻した。 一度も口にされなかった想いは、存在していないのだろうか。一度も結ばれなかった恋人同士は、恋人ではないのだろうか。あるいはそうかもしれない。明らかにされなかったことはなかったのと同じ。そう考える方が楽に呼吸ができる、きっと。母は不安に駆られてひとりで妄想を作り上げてしまったのだ。もちろん、父は母だけを愛していた。母と私を。だって私たちは家族だったのだから。…そう思えたなら。これまで見てきたものだけがすべてだと信じられたなら。 父と彼女は愛し合っていた。是非を問うことに意味はない。理由もなければ、帰結もない。単純な事実。ふたりは愛し合っていた。何も―家族の存在も時の流れも移ろいやすい人の心も―及ばないほどの激しさと完全さで。私はそれを知っている。自分が自分であることを知っているように、知っている。母から聞いた話は、ある意味、すでに知っていた話だとも言える。時折遠くを見ていた父の眼差し、言葉を失った瞬間にふと見せた微笑、静かで力強い言葉の底を流れる深い優しさと…諦観。たぶん自分でも気づく前から知っていた。父がここにいるときも実はここにいないということ。常に数歩先を行く背中を見失わないように、いつも目を凝らしていた。その背中は決して辿り着けないものだと、きっとずっとわかっていた。 身動きが取れなかった。ふたりは愛し合っていたのだ。本当なら結ばれていたはずだった。私が生まれていま生きていることこそが、ふたりの叶わなかった恋の結果だった。そう考えると、堪らない息苦しさを感じた。自分の生に深い罪悪感を覚えた。考えてみればおかしいことだった。罪悪感を覚えることができること自体、罪悪の証明に他ならないのだ。原罪というのはこういうことだろうか、とふと思いついたりした。 なぜ、ママと結婚したの?なぜ、私のことをかわいがったりできたの?なぜ、彼女と過ごせない人生を選んだりできたの?知っていたんでしょう?彼女もパパのことを死ぬほど好きだったんだから。私たちを捨てようと思ったこと、あった?嘘はつかなくていい。きっとあったよね。でも、結局捨てなかった。それはなぜ?ねぇ、パパ。私はパパに幸せでいてほしかった。娘の私がこんなことを言うのっておかしいかな。でもね、きっとママだってそう思ってたと思う。彼女と…生きて欲しかった。どうしてそんなに哀しそうな顔をするの?哀しいのはこっちだよ。パパ…どうして死んだりしたの?私はどうすればいいの? 気が狂っているのかもしれない。たまにそう思った。部屋に閉じこもって、ずっと父と話している自分は、はたから見たらとうに狂っているのだろう。考えれば考えるほど深みに嵌っていく。出口が、ない。生まれて来なければよかった。父と彼女が諦めたものはあまりに大きすぎる。ふたりとも自分の半分だけで生きて、そして父は死んでいったのだ。残された彼女にしても同じことだ。もう父はどこにもいないのだから。取り返しがつかない。葬った可能性を、生きられなかった人生を、どれくらいふたりは思っただろう。目の前で娘が遊んでいるとき、父は彼女との間に生まれたかもしれない別の子供のことをちらりとでも考えなかっただろうか。きっと、考えた。母と三人で食事をしているとき、連れ立ってどこかに出かけるとき、夜、灯りの点いた家に帰る瞬間、ふと脳裏を過ぎったはずだ。存在しなかった、存在することができなかった、もうひとつの人生の映像が。それでも、父は微笑んでドアを開けた。毎日。母と私のもとに帰ってきた。当たり前のように。それが気が狂いそうなほどに苦しい。こんなことをいま克明に想像することには何の意味もない。そうわかっていても、どうしても自分を止められなかった。 そうやって、半ば廃人のように私はあの冬を過ごしたのだと思う。今となってはうまく思い出せない。逃れられない暗い思考の切れ端、頭の周りを重苦しく取り巻くものの感触、それらを断片的に思い出せるだけだ。 いつの間にか春が来ていた。時間の流れが歪んでいたからか、まだ寒い庭に梅の影を見つけて、ひどく意外な気持ちになったのを覚えている。私の中では何ひとつ変わっていなかったし、一歩も前に進んでいなかった。同じところをぐるぐる回っている。私の上を流れる時などなかった。それでも庭には梅が咲き、そこへ鳥が飛んでくる。変な気分だった。不意に母の「お願い」を思い出した。お願いを叶えなければ、と思った。母がいなくなった後となっては、叶えるも何もない。それでも、私の奇妙な使命感は変わらなかった。私はあそこに行かなければならない。大都劇場に。 03.01.2005 |
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