story 1










物心がついた頃から、本を読むのが大好きだった。父の書斎に勝手に入り込み、大きな書架から興味を引かれる題名の本を引っ張り出しては、いつまでも読み耽っていた。私が生まれ育った家は、こっそりと本を読むのに誂え向きの空き部屋や、重厚なカーテンに守られた出窓、季節外れの衣装が仕舞い込まれたクローゼットに事欠かなかったのだ。小うるさいばあやや家庭教師、それよりずっと怖い母の目を逃れて、私は空想の世界へと旅立った。

そう、私は母が苦手だった。決して口数が多いわけではないものの、細く秀でた眉の下からきっ、と厳しい目を向けられるだけで、何となく落ち着かなくなった。母は美しい人だったが、冒しがたい威厳があり、常にしんと落ち着いていた。ぴしっと伸びた背筋やしゃんと座った首の辺りに、絶えず張り詰めた気配が漂っていて、冗談を言ったり甘えたりしてはいけない雰囲気があった。もっとも、母が私に辛く当たっていたというわけでは決してない。母は私をとても愛していた。いくら母が苦手でも、私にもそれはよくわかっていた。「藍生さん、ご挨拶は?」「藍生さん、しゃんとなさい」「藍生さん、お稽古のおさらいは済みましたか?」母の小さく鋭い声が今にも聞こえてきそうな気がする。

母はさる名家の出だった。娘を立派な令嬢に育て上げることこそが母の使命であり、決して甘やかさないことを愛情と考えているようだった。そんな母を私はいつも嘆かせた。お茶もお花も日舞もピアノも…全部嫌いだった。嫌々でも努力している姿勢くらいは見せればよかったのかもしれない。でも、私はそれすらしなかった。呼び立てる母やばあやの声を無視して、本を片手に物陰に姿を隠す。そして、ページを開けば、本当に私の姿は消えてしまうのだった。本の中の世界は何と甘美で驚きに満ち、魅惑的だっただろう。息を詰めるようにして主人公に寄り添い、一緒に物語の世界の中を歩いていくと、やがて陶然とした心地になる。それが幼少時の私にとっての世界のすべてであり、外界は本に比べると何とも味気なくつまらないものに思われた。

父は、そんな私をいつも笑いながら見ていた。

母が苦手な私も、父は大好きだった。私は大の父親っ子だった。父は会社を経営していて忙しく、そこまで家にいた時間が長かったとは思えない。それにもかかわらず、私の記憶の中には父の姿がいくつもある。私を膝に乗せて書類を広げている父、夏の夜に庭に出て星を指し示しながら名前を教えてくれる父、こっそりと宿題を手伝ってくれる父―お母さんには内緒だぞ、と目元を悪戯っぽくほころばせて。父からはいつも煙草とコロンと父自身の温かい匂いが混じり合ったようないい匂いがした。

長い間、私は自分の贔屓目なのか実際にそうなのか判断がつかなかったのだが、父はとても顔立ちが整っていた。異国の血が混じっているようにも見えた。本当のところはよくわからない。父の両親を私は知らない。幼い頃に亡くなったという祖父は、父とは血縁関係がないのだと言う。私にとってはどうでもいいことだった。父は父だ。他の誰とも違う、他の誰とも関係ない、私の自慢の父。大きくなったら父と結婚しようと私はかなり本気で考えていた。

父については、ひとつ忘れられない思い出がある。

私は幼稚園の頃からエスカレーター式の女子校に通っていたのだが、その中学校の三年生だったときのことだ。中学に上がった頃から、このまま大学まで同じ女子校で過ごしていくことを耐えがたく感じるようになっていた。私には野心がひとつあった。まだ誰にも言っていなかったが、世界中を旅していろんなものを見て…いつか作家になりたいと思っていた。そのためにも、語学に強い大学に進みたかった。何より、周囲のお嬢様たち―良い結婚をして優雅に暮らすことしか考えていない彼女たち―がうんざりするほどつまらなかったのだ。

私と母との間に戦闘の火蓋が切って落とされた。共学の進学校を受験したいなどという戯言に、母は一切耳を貸さなかった。私は決して成績が悪い方ではなかったが、トップクラスというほどではなかった。それに、勉強に一生懸命だったとは言いがたい。確かに、母からすれば気まぐれにしか聞こえなかったのだろう。しかし、相手にされなければされないほど、私は頑なになった。ついに私が学校を休んで部屋に閉じこもるに至って、父が登場した。それまで、母娘の戦闘を遠巻きに見守っていたのだ。

ある薄曇りの午後、父がそっと私の部屋に入ってきた。私は机に向かって参考書を広げていたが、実際には最近借りてきた本に没頭していたのだった。エミリー・ブロンテの「嵐が丘」。世間と隔絶されたような環境の中で、ほとんど誰とも会わず、二十代でどうしてこんなふうに書けたのだろう。熱情、狂気、残酷、静謐…ページをめくるたびに驚嘆と尊敬で胸がいっぱいになる。

「藍生、面白いか?」

突然後ろから声を掛けられて、私は危うく本を取り落としそうになった。父が腕を組んで私を見下ろしていた。叱られる、と一瞬思ったが、父の瞳をそっと窺うと、どこか面白げな光を湛えていた。

「…面白い、よ。すごく面白い」

それから、私はぽつぽつと「嵐が丘」について話した。父は小さく頷きながら、じっと聞いていた。自分が何を言ったかはよく覚えていない。おそらく、キャサリンとヒースクリフの情熱がエミリーの情熱のように思えるということ、そんなひたむきで熱情に突き動かされるような激しい生き方に憧れるというようなことを言った気がする。若い娘らしい意見だ。

「そうか。それで、おまえはどうする気だ?お母さんはおまえが本気で受験などするはずがないと言っていたぞ。見たところ、勉強しているようには見えないが?」

父がゆっくりと眉を持ち上げながら言った。私はぐっと言葉に詰まった。父がおかしそうに口元を緩めた。

「俺はどっちでもいいと思っている。でも、もし藍生が本気でやりたいと思っているなら、ちゃんとやるべきだと思う。そうだろう?受験するなら準備が必要だからな」

私はこくんと頷いた。頭ごなしに叱られると反抗的になる私も、父に言われると素直に頷けた。

「よし、藍生が自分で考えて決めなさい。決めたら途中で投げ出すんじゃないぞ。お父さんは藍生が決めたことなら反対しないから。…思うとおりに生きなさい。藍生の人生なんだから」

そう言って、私の頭に大きな掌を載せて一度くしゃっとかき混ぜると、父は立ち上がった。

「…ねぇ、パパ」

不意に父を呼び止めていた。なぜかはわからない。でも、咄嗟に聞きたくなったのだ。

「パパは?自分の人生に満足してる?後悔してることはないの?」

「そうだな…」

父はしばし真剣に考えていた。

「後悔、はしてないな。何と言っても藍生と会えたしな。でも…もう一度生まれ変われるとしたら、違う人生を選ぶかもしれない」

ゆっくりと丁寧に、一語ずつ選ぶように父が言った言葉を、十年以上経った今も、一言一句違わず覚えている。相手が子供でも、いい加減なことは言わない人だった。父の誠実さに私は涙が出るような気持ちになる。あの何気ない言葉がどれほどの重さを持っていたかを後に知るようになってからは、特に。

結局、私は当初の希望通り共学の進学校を受験して首尾よく合格した。結果が出るまで、母と私の間は常にぴりぴりとしていた。父が間に入って母を説得してくれたのか、口に出して何か言われることはなくなったが、母が不安定になっていることはひしひしと伝わってきた。ママはすぐに私を自分の思い通りにしようとする…でも、私はママの人形でも分身でもない。ちょうど反抗期の真っ最中だったためか、母の存在はひたすら鬱陶しかった。名家で大事に育て上げられた芯からの令嬢で、働くわけでもなければ何をするわけでもなく、日がな一日、家にいて花の手入れをしたり絵を描いたり娘の世話を焼いたりしている。それは何も母に限ったことではなく、周囲の女性たちは皆似たようなものだったが、私は自分の苛立ちを母ひとりにぶつけていた。ひどいときには、母の体の弱ささえもが、何か自分への当てつけのように思われることさえあった。季節の変わり目や少し無理をしたときなどに、母はすぐ寝込んだ。主治医が呼ばれ、泊り込みの看護婦が来る。ばあやは眉を寄せたまま母に付きっきりになり、家中の者が声を潜めて話す。父はいつもより早く帰ってきて、背広を脱いだだけの格好で母のもとに直行する。ママ、何だかお姫様みたい。いつも悔しいくらい健康体だった私は、やっかみ半分にそう思ったものだった。そして、その直後に必ずひどく後ろめたい気分になった。

今ならよくわかる。私は母に嫉妬していたのだ。母の美しさ、優雅さ、女性らしさ…父に大事にされていること。密かに憧れながら、同じくらいの強さで疎ましく思っていた。母とは反対の方向へ、少しでも違う世界へ…私の行動のベクトルは悲しいくらい母に支配されていた。母と娘というのは実に厄介なものだとつくづく思う。

それでも、私たちは仲が良い家族だった。母と私の間に厄介なものが横たわっていたとしても、だ。父は常に母を労わり、母の周囲に目を配っていた。そして、私の一番の味方であり、親友だった。理想の父。母が父に全幅の信頼を寄せてすべてに優先しているのは明らかだったし、少し方向がズレることがあっても、私に惜しみない愛情を注いでいるのはちゃんと私にも伝わっていた。幸せな家庭の縮図。

人はどこまで他人のことを理解できるのだろう。
たとえば、一番長い間、一番近くにいた、一番大切な相手を。

真実。

もし、あるとしたら、それはどこにあるのだろう。
いつかそこに辿り着けるのだろうか。
















02.27.2005








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