グラスをテーブルの上に置いた。その鈍い音と氷がグラスの中で回る音が室内に響いた。
滅多に見ることのないプラズマテレビの向こうの窓にはライトアップされた都会の夜景が広がっている。今夜は雨でそれが望めそうにもなかったが、この部屋からの景色を見ることがほとんどないため、晴れていようが雨が降っていようが関係なかった。どの部屋もモノトーンで統一されたカーテンを引いて外界を一切遮断していた。速水の屋敷を出てマンションに越してから毎日何ひとつ変わらない無味乾燥な空間
だった。
湯上りの湿った頭にバスタオルをかぶせ、無造作にパソコンの電源スイッチを入れた。
起動する音を聞きながら、真澄はグラスに手を伸ばし今さっきミネラルウォーターで割ったウィスキーを飲んだ。長い間水も飲まなかったせいか咽喉が鳴った。熱い感覚が胸から湧きあがってくる。
ようやく人心地つき、思考を取り戻し始めた。
あれは、マヤがシートベルトを外すのに手こずっていたのを細川が見かねて手伝っただけだ。そんなに過剰に反応する必要がどこにある? ただの親切心ではないか。
マヤも成人した女性だ。男性の友人知人がいておかしくはない。細川という男が演劇関係者でなかったというだけで何故そこまで警戒しているのか。
警戒する必要があるのはむしろ仕事関係ではないか。桜小路優はいうまでもないがそれだけではない。共演したことのある俳優、スタッフ、プロデューサー…。マヤが女優として経験を積めば積むほどその魅力が増し、いつほかの男性が言い寄ってくるか知れたものではない。ましてこの世界は打算が常に渦巻いている。そこで生きていく者にとって、「紅天女」の上演権を所有するマヤに近づく価値はある…。
そういったものからマヤを守るために強引であることを承知でマヤに大都所属の話を持ちかけたのだ。あっさりマヤが承諾したのが意外で、逆に「いいのか」と訊き返したほどだった。マヤが「速水さんの方から言ったことなのに」と微笑みながら首を傾げた。その大人びた微笑がそのときからしばらく、頭から離れなかった。
そうかと思えば細川に子供のような無邪気な笑顔を見せる…。
真澄はまた嫉妬しているのを自覚した。前髪をかきあげ、溜息をつく。
…マヤを守るため、というのは本当だがそれだけではない。…ほかの男にマヤを奪われないためにマヤを自分の管理下に置き、マヤの行動を自分が関知できるように仕向けた。あれから2年、口実を設けてはマヤを食事や観劇に連れ出していた。初めて観る芝居に夢中になったり、外の景色を見て目を輝かせたりあるときは驚いたり、珍しい料理を口にしては「おいしい」と微笑むマヤを見つめて小さな自己満足に浸っていた。
それも、…もう終わるときが来たのかもしれない。婚約を破棄した、そのほとぼりが冷めた頃を見計らってマヤに自分の想いを告げようとした決意が、2年の間にいつの間にか自分から遠く離れてしまっていた。
ここまできて楽観的だったことに気づく。…ほかの男が出現する可能性を忘れていた。桜小路との関係が気になっただけだった。それも、今では桜小路もほかの芸能活動に忙しく、公演のとき以外連絡をほとんど取っていないというマヤの言葉に、ただの共演者に戻ったのだと安心しきっていた。ほとんどそういったことを心配していなかったといっていい。
いや、…まだ細川がマヤの恋人だと決まったわけではないじゃないか。…何をそんなに焦っている。
また振り出しに戻った。全然冷静な思考などできていない、と苦笑して氷だけになったグラスにウィスキーを注いでいると、電話が鳴った。
真澄はもう一度溜息をついて、気だるげに部屋の隅にあるコードレスの受話器を取り上げるとソファーに座った。
「もしもし、水城君か?」
「…北島です」
真澄は無意識に受話器を強く耳に押し当てた。か細く続けるマヤの声を必死で聞き取る。
「さっき携帯の着信履歴を見たら、同じ番号がたくさんあって…。留守電も聞きました。何か、緊急の御用ですか? 撮影のスケジュールが詰まっているなら明日から出られますから…」
「そうじゃない。撮影の方は3日間休みを取っているから明後日までゆっくり休養しなさい。…具合はどうだ? 悪いようならもっと休みを延ばしても構わないそうだが…」
「もう大丈夫です、明日から出られますから。これからマネージャーにそのことを伝えるつもりです」
「そうは聞こえないが。鼻声じゃないか。無理をしないで明後日まで休んでおきなさい。こじらせたら却って仕事に支障をきたすだろう?」
しばらくの沈黙の後、「ええ…、そうですね。そうします」と返事が返ってきた。
「分かったらいいんだ。ああでも、マネージャーには連絡しておいたほうが良い。電話したら随分心配していた。俺もそうだったが、何度か連絡を取ろうしても君が出なかったからだろう。…どうして今まで連絡が取れなかったんだ? 外出してたのか?」
言い終えた途端、自己嫌悪に陥った。マヤが細川に会っていたことを自分が知っているのを隠し、何気ない調子を装ってマヤに探りを入れている。
さっきよりも長い間を置いてマヤが答えた。
「昨日病院でもらった薬が効いて、起きたのが夕方だったんです。それからもぼんやりしてて、昨日マナーモードにしてバッグに入れたまま携帯を見てなくて…。自宅用の電話も、かかってきたときシャワーを使ってたりとかして、出られなかったんです。…ご心配をおかけして、すみませんでした」
「…そうか」
おそらく、言っていることは事実だろう。ただ、外出していたことは言っていない…。
細川と会ったことを隠すのは、話す相手が所属事務所の社長だからか? 確かにあれこれと詮索されて要らぬ忠告を受けたくはないだろう。しかし、女優がただの友人にせよ親しい男性がいるとマスコミ対策が厄介だ。
マヤはそういったことを気にして隠しているのか? 所属事務所の社長だから…。マヤが大都に所属してからは少しは進展したと思っていたが、自分は何でも話せる相手として信頼されていない? …マヤにとって、自分とは仕事以上の関係は、ない…。
「昨日会った君の知り合い、細川さんといったか…。どういういきさつで知り合ったんだ?」
真澄は細川と同じ質問をマヤにぶつけた。さりげなさを装った声が少し崩れ始めた。マヤに気づかれていないことを祈った。
「いきさつ…ですか? ちょっと前に行きたい所が見つからなくて、困っていたのを助けてもらったんです。それで、なんとなく…」
細川と同じことを言う。これも、どうやら事実らしい。
マヤはそこまで言って黙った。その沈黙は、どうしてそんなことを訊くのか訝しんでいるからだと真澄は受け取った。
「マヤ…」
「あの、マネージャーに電話しなきゃいけないのでほかに御用がないなら失礼させていただきたいんですが」
呼びかける声とマヤの声が重なった。
とっさにどう対応していいのか分からず黙ってしまう。
だが、このままでは今にもマヤが電話を切ってしまいそうに思い、もう一度「マヤ」と強く呼んだ。
その声が切迫感に駆られているのに自分でも驚いた。
「君が誰と親しくても、大都としては干渉はしないつもりだ。以前と違って君も高校生じゃないし、君の意思を尊重する条件で契約したのだからな。…ただ君のために俺個人の忠告として言っておくが、君の自宅近くに男性とふたりきりでいるのは控えた方がいい。今回はその気配はなかったが週刊誌の記者が張るのはまず自宅だ。君だって妙な誤解は受けたくないだろう?」
長い沈黙の後、マヤのかすれた声が聞こえた。
「昨日はたまたま調子が悪かったから自宅まで送っていただいただけです。これからは気をつけます」
「今日はどういった事情だったんだ?」
言ってからしまったと思ったが、もう遅かった。受話器の向こうから息を呑む声が聞こえた。
「今日はって…。今日、速水さんここに来たんですか?」
「…ああ。君と細川さんが一緒にいるのを見た。あれで、気をつけているつもりなのか?」
非難するような口調にまた自己嫌悪を抱き、真澄は手を額に強く押し当てた。
そうしている間にもマヤの声が聞こえる。
「どうして声を掛けてくれなかったんですか? 気がつかなくて…」
「俺も車にいたから声を掛けなかったし、君が気がつかないのは当然だ。昨日のようにただ送ってもらっただけと君は言うのかもしれないが、あんなに親しげな様子を見せると格好のネタにされるぞ」
思いとは裏腹に嫌味を言ってしまう。
マヤは不快に思っただろう。
案の定、急にマヤの声が低くなった。
「長いこと見ていらっしゃったんですね。…干渉しないって言って、でも君のためって忠告めいたことを言って、結局速水さんは干渉しているんです!」
マヤの逆上した声につられて胸に熱いものがこみ上げた。ソファーから立ち上がる。
「友人知人程度の男性なら俺もここまで言わない! だが、2日も連続で彼に会うのはどうかと思ったからだ! 何故俺にそのことを隠す?」
「言う必要ないじゃないですか! なんで速水さんにそこまで言わなくちゃいけないの? それに2日ぐらい続けて会うことだって知り合いでも友達でもあるじゃないですか! 速水さんこそ邪推しています!」
「君は昨日熱を出して、今日だって病み上がりじゃないか! そんな状態で会わなければならないとは相当親しいのだろうと思ったまでだ!」
「病み上がりって大げさです! もう大丈夫だってさっき…」
そこまで聞こえた後、激しく咳き込む声が聞こえた。
真澄はその声で我に返った。
「すまない、怒鳴って…。大丈夫か?」
後悔の念に襲われ、ソファーの背もたれの部分を握り締めた。
「…大丈夫です。まだ大声出せないみたいで…。すみません、もう失礼して…」
「ああ…」
続きの言葉が出て来ない。
電話を切る音が聞こえた。
受話器を戻してテーブルを見ると、グラスの中は氷が融けて琥珀色が薄くなっていた。一気に飲み干すと、乱暴にウィスキーを注いだ。
零れてテーブルに落ちたウィスキーを手で拭い取って舐めた後、大きな溜息をつく。
細川が何者なのか、結局分からないままだ。しかし、自分とマヤとの関係が悪化したのは決定的だった。
人差し指と中指を眉間に当ててもう一度溜息をついた。
マヤに詫びようと、何度も受話器を取り上げてはもうしばらく待って冷静になってから、と元に戻した。その合間にグラスに手を伸ばし、気がつけばボトルは空になっていた。
こうして酒に溺れても今夜も眠れそうにないのは確実だ。真澄は口の端を歪めた。自分の愚かさに嫌気が差した。

4日前、マヤは風邪が回復し、映画の撮影に復帰したと水城が告げた。マヤに謝っていないまま、1週間が経過していた。
未だにマヤに電話のひとつもできない自分の優柔不断さに深い嫌悪を抱き、時間のあるときに思い返しては舌打ちをした。1週間も経てばそれが癖になる。いらいらしては部下に当り散らし、また自己嫌悪に襲われる。悪循環だった。

帰宅してシャワーを浴び、久しぶりにテレビをつけると、マヤが映されていた。
まさかスキャンダルでは、とソファーから身を乗り出して食い入るように見つめる。
「…新進気鋭の小野監督の映画に、主役として約5年振りの映画出演が決まった北島マヤさんです。今や『紅天女』で国民的女優となり、出演依頼も殺到している中での今回の映画の出演。1年前海外で新人賞を取り、実力を国内外ともに認められている小野監督とのタッグで注目されています…」
撮影現場でのマヤが映し出された。真澄もパーティでちょくちょく会ったことのある小野と熱心に台本を指差して話しこんでいるところが映っている。続いてメガホンを片手に説明をする監督の言葉に耳を傾けるマヤ、映画のワンシーンが画面に現れる。
真澄は胸を撫で下ろした。細川とのことがマスコミに漏れたのかとひやりとしたのだが、思い過ごしだった。
女性アナウンサーの流暢な話が再び真澄の耳に入る。
「…撮影は順調に進んでいます。東京での撮影はいったん終了し、続けてイタリアでの撮影が行われる予定です…」
白く覆われた山とその麓に広がる雪の平原が映し出された。続いて小野の顔がアップで映る。監督本人からのコメントだった。
「この映画はストーリーの中盤からイタリアを舞台に展開していき、ロケは1ヵ月の予定で行います…」
1ヵ月。1ヵ月も、マヤに会えない……。
小野の話はまだ続いたが、頭に入らなくなった。動揺を鎮めようとリモコンでテレビを消した。
海外ロケは契約をしたとき話を聞いていた。しかし、それほど長いとは思わなかった。年明け恒例の「紅天女」の公演が終わってほかの仕事も当分なく、ロケが多少長くても問題はないから、自分までその話が届かなかったのだろう。
喧嘩別れをしたまま、マヤが遠くへ行ってしまう。
だが、駄目だ、行くな、とは言えない……。
マヤに会えないのはあの細川も同じだ。いや、彼は関係ない。自分とマヤとの関係が絶望的ともいえる今、彼を意識してどうする。ここまで自分は嫉妬深かったのか?
真澄は細川の存在を思考から追い出した。手を組んで頭に押し当てる。
何よりマヤとの関係を修復するのが先だ。仕事上の関係だけでもいい。マヤを守るべき立場にいる自分がマヤを傷つけた。せめてマヤがロケに行く前に謝りたい。
すっかり覚えてしまったマヤの自宅の番号を素早く押した。数回のコール後、機械音が聞こえた。いったん切ると、すぐに携帯の番号をプッシュする。携帯も伝言サービスの音が聞こえた。
嫌な予感がした。マヤのマネージャーの番号にかけたが不在だった。迷惑を承知で水城に電話をすると、予想していたのか深夜の電話に驚いた様子もなく、マヤは今朝成田から出発したと告げられた。
思わず彼女を責める言葉が出そうになったが、踏み止まった。水城にマヤの動向をいちいち報告する義務はない。それより、と思い直し、その勢いのまま、水城にもう一つ仕事を頼むことにした。
「すまないが、明日からそうだな、3日間、休みをくれないか。スケジュール調整の方を頼む」
「…かしこまりました。真澄様…、イタリアに行かれるのですね」
確信に満ちた水城の口調に苦笑しながら、「そうだ」と言った。
「空港にいらっしゃる前に、社長室にお寄りください。デスクの上に、ミラノ行きの航空券を用意してあります」
「何故…。ああ、こうなることが分かっていたんだな?」
「ええ。ですが、これは賭けでしたわ。今夜のうちにお電話がなければ、無駄になるところでした」
「そうだな。見事にその賭けに勝った訳だ。…日本に帰ったら、君の休暇を取れるよう、手配しておこう」
「ありがとうございます。真澄様、本当に3日間でよろしいのですか?」
「いいんだ。とんぼがえりになるが、マヤに会うことが目的だからな。…色々と、すまない。感謝している」
「そのお言葉を聞けて何よりです。…ここ1週間の真澄様のご様子を見て、余計なお世話かと思いましたが、万が一に備えてマヤちゃん達の出発日から1日ずらした航空券を頼んだ甲斐がありました」
「帰りの分は自分でなんとかする。ありがとう。君は素晴らしい秘書だ」
電話を切った後、寝室のクローゼットを開けてボストンバックとパスポートを取り出した。
とにかく、今はマヤに会うこと。そのことが第一だ。
マヤに、会わなければ。会ってから謝る。それからどうなるか、それは分からない。だが、会わなければ。
マヤに会いたい。ただそれだけだった。
04.07.2006
|