第9話 十三夜 gibbous moon |
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例えば、夢の中で、 それが幸福な夢だったとして、 それでも、やっぱりどこかで、 これは夢だと気付いていたりする。 この感覚は、それにとてもよく似ている…、とマヤは思う。 青信号の横断歩道を真澄は長い足で悠々と渡り、マヤの前に来た。 目の前に来たとたん、そのまま視界が暗くなる。 抱き締められた。 手の中の携帯電話から、通話が途切れた音が微かに聞こえる。 電話の向こう側にいた人から、 ーーーー抱き締められていた。 「速水…さん…、なんで…?」 「…君が恋しすぎて、もう、どうしていいかわからないから…」 人並みが行き交う街角で、温かくて湿った真澄の声がマヤの耳を撫でる。首筋に粟立つような感覚を覚えて思わず小さく肩を竦める。 吐息と吐息が触れ合うほどの僅かな距離で、真澄の切れ長の目がマヤの目を射抜く。愛しさを湛えた切なげな瞳で。 「だから、君を、抱き締めるために…きた」 恋に掠れた声で囁き、もう一度、マヤを強く抱き締める。 抱き締められたマヤの体は、 まるで頼りない人形のように柔らかく、しなる。 キミガ コイシスギテーーー 機械を通さない、真澄の生身の声。 その声とその言葉に、マヤはすぐに反応できない。 なんで? どうして、速水さんが、あたしを抱き締めるんだろう。 どうして、こんなに強く。 どうして、こんなに優しく。 小さなマヤは、その全てを真澄に包まれる。 痺れる。 感覚がおかしくなる。 見えるものは、真澄の姿。 聞こえるのは、真澄の吐息。 鼻孔を擽るのは、真澄の匂い。 触れられるのは、真澄の腕と、愛しい手。 眩暈がする。 真澄のその胸からは心臓の鼓動が、まるでマヤの胸の内と呼応するように、強く打ち続けられているのが、じんじんと伝わってくる。 「好きだった…。ずっとこうして抱き締めたかった…」 「う…そ…」 「嘘じゃない…。君に信じてもらえるまで、いつまでだって言える。 好きだ。君が好きだ。好きだ…」 噛み締めるような低音で穏やかな声。胸が痛くなるほど恋しかったあの声が、今はマヤの耳元で、信じられない言葉を告げる。 好きだ。君が好きだ。好きだ…好きだ… 「うぅ……」 堪らずマヤの腕が真澄の背中に回る。 真澄の背中を必死で掴み、体と体にひとすじの隙間も与えたくないほど、マヤも真澄を強く抱き締める。 真澄を抱き締めてしまうことが、どういうことなのか。 左の薬指に鈍く光る指輪を嵌めた真澄を抱き締めるということは。 「す…好きじゃない。好きじゃないもん、あたしはっ! 速水さんなんか、意地悪でイヤミ虫で、嘘つきで、あんな綺麗な人と幸せそうな顔して結婚なんてしちゃう速水さんなんか……!!」 涙で掠れてしまう声で、懸命に叫ぶ言葉。 それでも、止められない。 止められない。 抱き締める腕を、二人とも止められなかった。 マヤの頬を流れる涙に、真澄が口づけをする。 流れる涙を、全て真澄が取り込むように。 マヤの哀しみの全てを真澄が抱き締めるように。 「好き…速水さんが…好きぃ…うぅ…」 嗚咽とともに、ついに気持ちが溢れ、もうマヤにはどうしようもなくなる。好きで、好きで、その気持ちはどんなに抑えようと思っていても、どんなに箱にしまい込もうと思ったとしても、体中から痛むほど好きが湧き上がってくる。 互いを激しく求める封じ込められていた想いは、もはや言葉だけでは伝えられない。そのまま唇を合わせて、狂ったように唇を合わせて、髪に指を差し入れて、腰に腕を回して、何度も抱き締め合うことでしか、伝えられない。 息ができないほどに。 一瞬たりとも離れられないほどに。 満ちていく月が、それでも静かに眺める夜 恋に堕ちた二人が、 二人で 消えていく。 溶け合うような激しい口づけを交わし その手をきつく握って離さずに。 秘められた、二人だけの場所へ。 “速水さん…” “ん…?” “…なんで、こんなに強く手を繋ぐの…?” “君が消えてしまわないように” “速水さんの方こそ…消えてしまいそう…な気がする…” “消えないよ、絶対に” “この手、逮捕?” “そう。タイホ ” “そっか。速水さんになら、捕まってもいいな” “ずっと、こうやって俺の中に閉じ込められることになるぞ” “笑いながら言わないでよ。でも、いいよ、速水さんだから” “じゃあ、二度とここから出さない” “じゃあ、あたしも速水さんをタイホする” “もうとっくに、されてる” “…速水さんが、あたしを好きなんて…信じられない” “マヤが俺を好きなのも信じられない” “そんなことないよ。だって、ずっと好きだったもん…” “俺は君と出会った頃からだぞ” “え?ホント?あ、いばってる。 ……あたしだって、速水さんに初めてあったとき、 優しそうな人だなって思ったもん……。 あ、笑った!ホントだもんっ” “意地悪でイヤミ虫だろ?” “う…。だって、ホントに意地悪でイヤミ虫だったじゃない” “好きすぎて、そうすることでしか、 君に接することができなかったんだ” “でも…。 速水さんは紫のバラを贈り続けてくれる優しい人だもん” “え…” “えへ。知ってたの。黙ってて、ごめんなさい” “……驚いた” “驚かせちゃった…” “…君に驚かせられるのには慣れてるが…でも、驚いた” “ありがとう…。ずっと、感謝してますって言いたかったんだ” “驚きすぎて、頭が回らない” “速水さんの、そんな顔。初めて見た” “笑うな” “…はやみ…さん” “うん?” “…速水さんの睫毛…長くて、すごくきれい …触ってもいい?” “…いいよ…” 睫毛にそっと触れる震える指先。 その手首に触れる唇。 一枚のシーツに包まれて、 真澄の匂いと肌の温もりに全身で触れ合いながら それでも、思う。 これは、きっと夢なのかもしれない。 幸せな夢なのかもしれない。 見つめ合っても 深く口づけを交わしても 強く抱き締め合っても 湧き上がってくる現実感のない幸せに浸りながらも それでも、ふと、背中に冷たさを感じて怖くなる。 それはきっと、 満月には、何かが、まだ、 足りないから。 もっと…。 幸せを望んでしまう、 その心に抗えないことが怖い。 それを望んでも…いいの…? 02.03.2005 |
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