第10話 満月 full moon |
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“あなたの舞台を…最後に拝見しに参りましたの” 楽屋を訪れた紫織はそう言った。 あれから、いくつもの月夜を越えた。 想いを交わした夜に、マヤは真澄の恋人になった。真澄がマヤに“恋人”だと言った。真澄が結婚している以上、他の呼び方が正しかったのかもしれない。けれど、真澄はマヤを“恋人”だと言った。 真澄が、薬指の指輪を外すために、眠る時間を削って動いていることをマヤは知っている。詳細までは分からないながら、それが並大抵のことではないことも知っている。 義父とのしがらみ、鷹通との事業、財界内での立場、多くの社員の頂点という立場、大都グループ内での立場、そして紫織との関係。 真澄は、黙ってそのひとつひとつの絡まったものを解いている。自分のいる場所が、ただ流されてきた場所ではなく、真実、自らの意志による場所となるように。 “あなたは笑って。いつものように。そう、その顔で社長と会ってほしいの。それで、全てうまくいくわ” 水城はそう言って、不安げなマヤに微笑んだ。 だから、自分もひとつも手を抜かずに仕事をした。全てが、前に踏み出せるように。 そして、真澄と逢えた夜は、ただ甘えて、笑って、抱き締めた。真澄もそんなマヤを抱き締め、髪にキスをして眠った。 幾夜も、そうやって過ごした。 その間に、紫織のことを考えなかったかと言えば嘘になる。紫織がどのくらい真澄を慕っているのか、それはマヤには計り知れないことだったけれど、同じ人を想っていることが辛かった。自分の存在を疎ましくも思った。けれど、それでも真澄を求める気持ちは止められない。真澄が、自分を想っていてくれていることも嘘じゃない。結局、どこにも落としどころを見つけられず、途方に暮れた。 紫織が幕が下りた夜に楽屋を訪れて来たのは、冬が終わり春も夏も過ぎ、秋風がさらさらと吹き始める頃だった。 「…最後?」 「そう最後に。もうこれで、あなたの舞台を観ることは無いと思いますわ」 紫織の意図を読み切れず、返事に困る。 いつもこうだ。肝心なときに、正しい言葉が出てこない。 「…やはり、あなたは類い希なる女優ですのね…。いろいろな想いを抱えて参りましたけれど、舞台は…純粋に感動いたしましたわ」 決して広くない楽屋の中は、メイク道具も衣装も荷物も置かれ、雑然としている。その中で、凛として立つ紫織は、何か別の世界の人のようだった。 「実は…、私の口から申し上げるのは、出過ぎたことですけれど…。速水とは、本日離婚が成立いたしましたのよ」 はっとして顔を上げると、紫織が穏やかに、そして少し寂しげに微笑んだ。 「長かった…ですわね…」 ここで泣いてはいけない、とマヤは思う。 嬉しかったからではなく、哀しかったわけでもない。 紫織も真澄も充分に悩んで苦しんできた。少なからずマヤ自身も。長い時間をかけて、ここに辿り着いたことを思うと、込み上げてくるものを抑えられなかった。 真澄にとっても長い時間だったし、マヤにとっても長かった。 けれど、マヤには真澄がいた。真澄にはマヤがいた。 おそらく紫織がこの長い時間、たった一人で苦しんだのだろうと思う。 滲み出る涙を、首にかけたタオルで汗を拭うかのように拭くマヤを、紫織はただ穏やかに見る。 「私は、鷹宮の娘であることは、私の一部であって、 私自身だと思っています。 あなたのような才能溢れる方からご覧になるとーーー ああ、嫌な意味にとらないでね。 本当にそう思っているのだから…。 あなたからご覧になると、取るに足らない事だとしても、 鷹宮の娘であることは、私にとっては大切な誇り。 …だから、これからは…これからも、 鷹宮の娘として恥じない生き方をしようと。 マヤさん。 そのことを、あなたには、知っていて欲しかった。 そのことを、あなたに知ってもらえたのなら、 たぶん、これからも、生きていけると思ったのですわ…」 胸を張って、哀しみと対峙する紫織の姿を、 真澄ではなく、マヤに会いに来た紫織の哀しさを、忘れない。 自分こそ、誇りを持って生きていかなければ、恥ずかしいことだと思う。 「あたしも…、一生懸命に生きます」 精一杯の気持ちで言った。 「そうね…。でも、私は近いうちにあなた方のことは忘れてしまうはずですわ」 紫織は小さく笑い、それから泣き笑いの顔で軽く首をかしげると、 静かに楽屋を出て行く。 楽屋には、紫織のーー蘭のーー残り香が、かすかに漂った。 体中から力が抜け、椅子に倒れ込むように座る。 ーーー離婚が成立いたしましたのよ 速水さんの顔が見たい… 速水さんの声が聞きたい… そう思った途端、鳴り出す携帯電話。 液晶画面には、“速水さん”の文字。 “マヤ…?もう帰れるか?” “迎えに行くから、一緒に帰ろう” |
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