第8話 上弦の月 half moon |
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“おつかれ” “おつかれさまでした” “今日はこれで終わり?ごはんでも食べてく?” “あ、ううん。…ちょっと頭痛いし、今日はこれで帰ります” 共演者の誘いを断り、マヤは一人家路につく。 こういうときは、気軽に皆と一緒にご飯を食べたら、少しは気が紛れるのかもしれない。そうは思うけれど、気が進まない。もう少し時間が必要だ。 寒さが厳しさを増している。 吐く息が白い。 地下鉄までの道のりを肩をすくめながら歩く。 “なんだ、紅天女サマは電車で通勤なのか?大都に入ってくれたら、車で送迎してやるのに” 社長室への電話で、真澄に電車でみた光景の話をしたら、そう言って笑っていた。 “知らない人が美味しい物を食べさせてあげると言っても、ついていくなよ。君はいつまでも危なっかしい” ついでにそんな憎まれ口を叩きながら。 だれが、そんなっ!…そう怒ってみせて、笑い合った。 “君がいなくなったら…つまらないからな” そんな、小さな呟きも、一言残らず覚えている。 真澄を忘れる必要はない。ただ、もっと穏やかな気持ちで向き合えるようになるまで、時間がかかるだけ。思い出すだけで、胸が震えて目頭が熱くなるなんてことは、きっと、もう少し時間が経てば、無くなる。そう思わなければ、きつい。 もう少し…が、どのくらいなのかは、全然見当も付かないけれど。 携帯電話が震えた。 ポケットの中から携帯電話を取りだし、液晶画面を確認する。 麗からのメールが届いていた。 麗は、いつでも、いつまでも、ずっと姉のような存在で、別々に暮らすようになっても時々心配してメールをくれる。何か困ったことは無いか。ちゃんと食べているか。ちゃんと眠っているか。 心配してくれる人がいるというのは、感謝すべきことだと思う。 どんな時でも、本当の孤独ではないと、そう感じることができるから。 返信は電車に乗ってから打とうと、携帯電話をたたんだその瞬間。 再び電話が震え着信を知らせる。メールではなく電話だった。 液晶画面には、見知らぬ番号が並ぶ。 “いい?マヤ、知らない番号の電話に迂闊に出ちゃダメだよ。それから、知らないメアドからのメールにお気軽に返信してもダメ。特にアンタは有名人なんだから、なおさら気をつけな” 麗の言葉を思い出す。 知らない番号からの電話。震え続ける電話。 出ても名乗らなければ平気だろうか。 それとも、怪しい電話ならば1コールで切れることが多いのだから、この電話は、誰か知っている人からの電話なのだろうか。 仕事関係者から、知らない番号で電話が入ることも、勿論ある。そのたびに、こんな風に迷ってしまう。 ふいに震えが途切れる。 おそらく留守番電話に切り替わっている筈だ。 メッセージが入ったら、掛け直せばいい。迷った時は、そうすることに決めている。 10歩いて留守番メッセージを呼び出してみる。 “イッケンノ メッセージ ガ アリマス” ピーーー “……マヤ…?…速水です” …え? 聞き間違えかと思う。 幻聴まで聞こえるようになったのかと思う。 “えっと…えー、折り返し電話を…ください” マヤの耳に今も残る真澄の声。 留守番メッセージから届いた声。 二つの声が、シンクロするように脳内に響く。 金曜の夜の雑踏の中、後ろの人と背中がぶつかってしまっても、それにすら気付かないまま、マヤは携帯電話を耳にあてたまま、その場で呆然と立ち竦む。 “モウイチド キク バアイ ハ………” “……マヤ…?…速水です” “えっと…えー、折り返し電話を…ください” それは聞き間違えなどではなく、マヤの携帯電話から聞こえてきたのは本当に真澄の声で、社長室への電話を止めてから、一度も聞くことがなかった真澄の声で、その声が聞こえてくるだけで、指先が震えてくるのが自分でも分かる。 「なんでぇ…。なんで、速水さんの声がするのぉ…」 泣いているのか。怒っているのかわからない。 折り返しの電話なんてかけてしまったら、どうなっちゃうんだろう。 自信が無いよ。 自分を抑えられる自信が無いよ。 途端に携帯電話が震え出す。 手の中で震えながら、真澄の声を届けた同じ番号を表示する。 「うそでしょぉ…」 ついにマヤの右手の親指が通話ボタンを押してしまう。 電話の震えが止まる。 変わりにマヤの震える手で電話が耳にあてられる。 「…………はい…」 「ああ、良かった。マヤ、俺だ」 「オレ…」 「なんだ声を忘れてしまったのか。速水だ」 「忘れてなんかないもん…」 「なにを怒ってる?」 「なんで、なんで、速水さんが、あたしの番号知ってるの…?」 「ああ、水城くんが教えてくれた」 何でも無いように話す真澄の口調。 「そんなことより、マヤ、今は何が見える?」 「はい?」 「君の目の前には何か目立つものがあるか?」 「………ハーゲンダッツ…」 「え?」 「青山のハーゲンダッツ…かふぇ」 「ああ、なるほど」 なるほど。笑いを含んだ声。 「もうっ!!なんで、笑うんですか?なるほどってなんですか?なんだか、わかんないよ!なんで、電話くれるの?もう電話しないって言ったのに、なんで速水さんが、あたしに電話しちゃうの?なんで?なんでぇ…?」 怒った声で言うはずだったのに、それなのに、最後は堪えきれずに涙声になってしまう。 泣いていることを気付かれてはいけないのに。 こんなにも声を聞いているだけで、もうどうしようもないぐらい、好きで、好きで、大好きなことを気付かれてはいけないのに! 「くっくっく…マヤ、君、この電話中に、何回“なんで?”って言った?今、それを全部説明するから、もう少し待ってくれ」 「もう少しってなに?」 「そこを動くなよ。ハーゲンダッツの前から動くなよ。あと30秒」 「なんだか、わかんないよぉ…」 夜風がふわりと髪を揺らす。 溢れるような人工の光の、その上から 静かに、微笑むように、月が地上を照らしている。 「ーーーみつけた」 「え、なに?」 「信号の向こうに、……みつけた」 信号の向こうに。 マヤは人混みの交差点を見つめる。 片側二車線の国道の交差点を挟んだ赤信号の向こうに。 長身の。 会いたくて。 会いたくて。 会いたくて、ーーー堪らなかった その人が。 携帯電話を片手に、立っていた。 信号が青に変わる。 信号待ちの人々が動き出す。 その人がーー真澄がーー 横断歩道に一歩を踏み出した。 02.02.2005 |
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