第3話 下弦の月 half moon |
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直接マヤの姿を見かけたのは実に3ヶ月ぶりだった。 もっと正確に言えば、真澄自身の結婚式以来となる。 映画会社主催のパーティに、この春からクランクインする映画に主演するマヤが出席していたのは当然の成り行きと言える。 紅天女の上演権をマヤが受け継ぐこととなり、その動勢が注目を集めたが、マヤは上演権を保持したまま、公演のプロデュース全般を委託する主旨の契約を大都芸能と締結した。期間は無期限。ただし北島マヤが上演権を第三者に譲渡した時点でこの契約は消滅する。 そしてマヤは各芸能社からの降るような誘いを全て断り、劇団つきかげの所属のまま事実上フリーで活動している。大都芸能からの再三再四の誘いにも頑として首を縦に振らず、自らのマネージメントを自分で危なっかしく裁いている。 マヤが何を考えているのかわからない。 まどろっこしい。 なぜプロデュースだけは大都芸能を選択し、事務所には所属しないのか。大都芸能に恨みがあるのなら、それならそれでいい。 それならば、なぜ他の事務所に入らないのか。 もう昔のマヤではない。 希有な舞台、紅天女を演じられる唯一人の女優として世間の注目度も高く、それだけにマネージメントは専門の人間が行うべきなのに。 大都芸能の…自分の元に来てくれれば、最高のマネージメントを贈ることができるのに。 真澄は、曖昧に笑いながらパーティ会場を慣れない足取りで泳ぐマヤの姿を遠目で捕らえ続ける。目の前の人間と談笑する口も、グラスを持つ手も紫織を伴う腕も、全て計算されたかのように動き、たった一つマヤを捕らえる視界だけが意志を持って機能する。 紅天女に微笑みかけられようとマヤの周りは常に誰かが囲んでいる。知ってか知らずかマヤは周囲に相応の笑顔を振りまき歩く。どこで所作を覚え、場慣れした態度を身に付けたのか。自分の知らないマヤ。でもマヤはマヤだ。近づいてくる。マヤは真澄に気付くと、周りの人間に何事が言い、それから真っ直ぐに真澄の前に進み出た。 過去の出来事を思い返すと、マヤとの会話は公の場であろうとなかろうと半分喧嘩腰の楽しげな応酬となり、真澄にとって癒される時間となっていた。おそらく今夜もマヤの言葉を真澄がからかい、マヤがそれに怒り、その怒った様子につい笑ってしまう、そんな展開だろうと予想された。期待した。 “お久しぶりです。先日は紅天女に関する契約を快く結んでいただき感謝しております。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。速水社長、奥様” “まあ、マヤさん、今夜は一際輝くようにお綺麗ですわね。さながら紅天女の精気が内から滲み出ていらっしゃるような” “…恐れ入ります。でも、奥様の秀でた美しさにはとても叶うものでは…。ね、速水社長” “さあ、これはどちらに味方しても恨みを買いそうだ。かたや我が妻、かたや我が大都芸能の類い希なる紅天女だ。いっそ采配はこのご婦人方を囲んでいる周りの男性諸君に頼むことにしようか” …それは、以前のマヤでは有り得ないような大人びた挨拶だった。 ある意味完璧だったと言える。 自分となんらかの関係のある芸能社の社長への挨拶。伴っている社長夫人への挨拶。何一つぬかりなく言葉を並べ、感情を表に出さず微笑むマヤのその姿に、真澄は猛烈に苛立つ。 そのマヤに対して滑らかに社交辞令を並べ立てた自分にも腹が立つ。 欲しかった言葉は欲しかった声はこんなものじゃない。 作り事めいた芝居がかった声などいらない。 その場で華奢な白い手首を掴み、抱き寄せて、苛立ちをぶつけてしまいそうになる。 いつもの声で、いつもの言葉を掛けてくれ。 電話の向こうでは、マヤ自身の言葉で語りかけてくれているじゃないか。もう、直接会ってしまえば、それは望めないことなのか。望んではいけないことなのか。 “あなた…?” 訝しがる紫織の声に、はっとする。 瞳の奥に感情を上手にしまい込んだ美しい紫織が自分を見ている。ビスクドールのように上品に整った仮面の顔で。ここで微笑みかける。手を取る。泳ぐように歩く。簡単なことだ。 “懸案事項を思い出しました。申し訳ありませんが、これから社に戻らなければなりません” だが、口をついて出てきた言葉は、婚約していた頃から既に使い古された言い訳。妻に微笑みかけることが苦しいのではない。並んで歩くことが辛いのではない。 ただ、マヤと繋がっていたかった。 儚い細い緩い線であったとしても。 マヤと繋がる場所へ急ぐ。 紫織を迎えの車に乗せ、自らはタクシーを拾う。腕時計を気にしながら渋滞を避け抜け道を指示する。社長室へ辿り着いたとき、時計の針は23時まで10分を切っていた。扉を乱雑に開閉し、重力に身を任せて椅子に体を放り投げ、そのまま執務机に突っ伏す。 狂っている。 まだその自覚があるだけましだな…。 口先だけの嗤いが込み上げてくる。 待つだけか。 出来ることは待つことだけなのか? 鳴れ。鳴ってくれ。 腕の隙間から、真澄の視線が沈黙の電話を睨み続ける。 turururururu… 仄暗い沈黙の社長室にコール音が鳴り響く。 いつものように非通知の電話。ディスプレイに数字は並ばない。 真澄の指先が受話器を捕らえ、椅子に仰け反るように天を仰ぐ。 「ーーーーはい」 マヤ。 「…速水さん…!?あ、あの北島です。あぁ…ここにいたんだぁ。お仕事だったんですね。パーティ会場からいつの間にか姿が見えなくなったから…」 「俺を探したのか…?」 「…あ…まぁ……。…はい…」 マヤ。 「なぜ…?」 「……なぜって……。難しい質問…」 「では話題を変えようか…。あの場所にいた君は、俺のよく知っているチビちゃんではなかったな」 「……そりゃ、もう子供じゃないし…。ああいう場所で失礼が無いように…と思って、あたしなりに…その、想定問答集なんて考えて、それなりに…がんばりましたから…」 「最高の出来映えだった」 「………。なんか褒められてないみたい…」 「…褒めてるさ」 「………叱られているみたいな気分……」 マヤ。 「マヤ…」 「………」 「ーーーー会いたい」 言葉が無警戒にこぼれ落ちた。 マヤに会いたい。 会いたい。 会いたい。 会いたい。 耳元でマヤが小さく息を呑む音が微かに聞こえた。 ふいに、薄く開いていた入り口の扉が大きく開く。 ビスクドールのような紫織が自分を見ている。 「あなた…」 紫織の声が、社長室に弱く、けれども受話器の向こうに届く確実な温度で放たれる。 左手の受話器からは、マヤの返事の代わりに 通話が途切れたことを告げる無機質な機械音が鳴りはじめた。 機械音とビスクドール。 絶望的に最高の出来映えだ。 嗤えるな。 下弦の月が 真澄の嗤いに呼応するように 氷のごとく嘲笑う。 01.22.2005 |
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