めぐりあい

  written by 咲蘭  


 story 1:香りの記憶 

















雑踏の横断歩道で、突如マヤはその香りを鼻孔に感じて、思わず後ろを振り返る。たくさんの人が歩道に向かって歩いていく。
前からも、後ろからも。
そんなわけは無いと思う。
こんなところにいるわけがないのだ。

その香りは、ほんのひとすじ体内に入ってきただけで、ほとんど反則的な強引さで、過去の、苦しくて、それでも大切な恋をしていた頃の自分を蘇らせてくる。力強さと繊細さを併せ持った、仄かに甘くスパイシーな香り。懐かしさと胸の痛みを連れてくる香り。

結婚式を間近に控えた日の夕暮れ、真澄は幸せの絶頂にいるはずなのに、どこか寂しげな表情で立っていた。スタジオから出てきたマヤが、真澄の姿に気付き、驚き、立ち止まって、それから一歩近づく。風が、ふわりと真澄の香りを運ぶ。

「速水さん…。どうしたんですか、こんなところで…」

右手の指には、いつものように煙草が挟まれていて、煙が細く緩やかに一本の線を描き、背中に夕陽を受けた真澄の柔らかそうな髪は亜麻色に輝いていて、いつも隙の無いきれいな人だと思っていたけれど、あの日は特別とてもきれいにマヤの目に映ったものだった。ひとつひとつの情景を今も鮮明な映像で描き出すことができる。煙を細く吐き出す口の形や、髪をかきあげる仕草や、あの日吹いていた優しい風も。もう二年も前のことだというのに、まるでほんの数日前の夕方のように、マヤは心の中に描き出すことができる。
真澄は凭れていた車から身を起こすと、少しだけ照れたように笑った。ほんの、少しだけ。

「…どうしたものか、チビちゃんの顔を見たくなってしまった」

それは、とても残酷なことに思えた。あと数日で結婚してしまう恋しい人からそんなことを言われても、まるで行き場を失い足が竦んで動けない子猫のように、震えて立っているしかなかった。あの時のマヤは、その言葉に込められた真澄の想いを推し量れるほど、大人では無かった。

「なんですかっ…。どうせ、単純で小生意気なチビの顔でもからかいに来たんでしょっ」

マヤの少し震えた、それでも強気な反論に、真澄はくっと声を殺して笑う。

「…そうだな。きみと喧嘩でもできたらいいと思ってな」

「そっそんなの、いつだって受けて立ちますよっ!!」

夕焼け色を頬に映して、マヤが口を尖らせる。真澄は口の端に僅かに力を込める。長い時間、いや実際には数秒なのかもしれない。真澄は言葉もなく静かにマヤを見つめる。その優しげでどこか寂しそうな眼差し。真澄は時折そんな眼差しをマヤに向けることがある。だから戸惑ってしまう。このまま時間が止まって欲しいような、このまま逃げ出したくなるような、ひどく落ち着かない心地になる。いったいなんだってこの人は、こんな目で自分を見るのだろう。
真澄は眉根を寄せマヤから瞳を逸らすと、小さく息を吐き、それから黙って煙草の火をもみ消した。

「ああ、おれもそうしたいところなんだが…、しばらくきみと喧嘩できそうも無くなった。喧嘩もこれでしばらくお預けだ」

「……なに…言ってるんですか…?まだ、喧嘩…始まっても無いじゃないですか…?」

急に消えてしまうような気がして、真澄が霞の向こうに去ってしまうような気がして、胸が痛くて、思うように声が出せない。いつだってどんな時だって、真澄はマヤの近くにいて、必ず見守り続けてくれていたのに。それに気付いてしまっているのに、いきなりそんな哀しげな台詞を言われても、どう受け取っていいのか分からない。不満げなマヤの瞳にに真澄は苦笑を返すと、マヤの頭を大きな手でくしゃりと撫でる。
とたんに真澄の香りがマヤを包んでいく。
煙草の匂いと、香水の溶け合った真澄だけの香り。
いつまでも、この香りに包まれて漂っていたいと強く願うけれど、真澄はマヤの抱く想いを知るはずもなく、そっとマヤから離れて行ってしまう。触れてくれた場所は、いつまでもその手の感触を覚えているのに、ぬくもりは躊躇なく消えていく。
真澄は運転席のドアを開け、まるでその時初めて気付いたかように車内にあった花束を手にした。

夕焼けにいっそうその色を鮮やかにするバラ。
紫色の、たくさんの、バラ。

「…速水…さん…?」

真澄はバラの花束をいささかの緊張と照れた風情で胸に抱く。
真澄と紫のバラ。
マヤがどんなにかその姿を見たいと願ったか知れない、真澄の抱く紫のバラ。頭の中が真っ白になり、マヤは何も言えなくなる。どくどくと心臓だけが激しく音を鳴らす。

「…これをおれの手から、きみに渡すことが夢だった。おそらく、きみは紫のバラの人がこのおれだと知れば、ひどく落胆するだろうと思う。だが、おれはきみに出会って以来、まるできみと一緒に紅天女の夢を追いかけているような、そんな気分だったんだ。
…ありがとう。チビちゃん」

ぽろりと涙が落ちる。

たくさんのありがとうを言いたいのはマヤの方だったのに、手渡された紫のバラを抱き締めて、泣き笑いの顔でぼろぼろと涙を零しながら、何度も何度も頷くことしか出来なかった。ずっと考えてきたお礼の言葉の欠片だけがひらひらと浮かぶけれど、涙が次々と込み上げてくるから、まるで言葉にならない。
マヤが落胆もせず、怒りもせずに真澄が紫のバラの人であることを、とても自然に受け入れたことに、真澄は心から安堵する。

「きみにバラを手渡すことができてよかった…。おれの勝手な想いだが、きみに直接手渡さなければ、…終われないと思ったんだ」

───終われない…?

「きみが晴れて紅天女になった今、紫のバラの人の役割も終わったと思う…。いままで、ありがとう…」

体中を包んでいた感激の熱が、冷たい水に晒されたようにみるみる退いていく。勝手な言い分だ。なんて、酷く、勝手な言い分なんだろう。つい今しがたの幸福感を、いとも簡単に絶望に変えてしまう真澄の残酷な台詞。幸福も絶望もすべては真澄という存在に帰結する。大切な恋。けれど、行き場のない恋とは、なんて息苦しいものなのだろう。

「……紅天女になったら…もう、バラはいただけないんですか…?結婚したら、もうバラは贈っていただけないんですか…?」

喉の奥から絞り出すような思いの問いに、けれど真澄は何も答えず、ただやはり寂しげな笑顔だけを残し、運転席のシートに乗り込んでいく。

「じゃあな、チビちゃん。次に逢うことができたら、また、思う存分喧嘩しよう」

「速水さんっ!!」

マヤの悲痛な声は、ドアが締められる音に掻き消される。
エンジン音が鳴る。真澄の横顔。前だけを見る真澄の横顔。走り去る車のサイドミラーに眩しいほど反射する夕陽の光。
それがマヤの見た真澄の最後の姿だった。
マヤは真澄の残り香に、わけも分からず泣き崩れる。声を殺して無くなどとそんな余裕はどこにもなく、湧き上がる悲しさに身を任せて声を嗄らすほど泣いた。
紫のバラの人から、真澄の手から、バラを手渡されることをどんなに夢見ていたか知れないのに。それは、こんなに寂しいあっけない終わり方ではなくて、きっと何かを期待させる出来事であるはずだったのに。

知っていたことは、真澄が結婚してしまうということで、それでさえマヤにとってどうしようもなく苦しいことだったのに、まさか、本当に真澄がマヤのいる世界からいなくなってしまうなどと、想像だにしなかった。だが、真澄は予定通り結婚し、大都芸能の社長から大都グループの中枢部に籍を移し、そのうえ海外へ赴任して日本の中からも姿を消してしまった。どこかで姿を垣間見ることすら不可能になった。紫のバラもあれ以来、二度とマヤの元に届くことは無くなった。

終わったのだ。
真澄は、あの夕暮れの場面をラストシーンと決めて
紫のバラに、永遠に幕を降ろしたのだ。
たった一人で。
マヤを舞台の真ん中に置き去りにしたままで。

あれから、もう二年も経っている。紫のバラが無くとも、マヤは立派に紅天女も演じきり、常に良い仕事に恵まれる女優となったし、真澄を激しく求める恋心は、いつか懐かしさを伴う小さな胸の痛みに変化した。だから、困るのだ。不意打ちのように、あの真澄と同じ香水に出会ってしまうと、なんの準備も無く、二年前の真澄の寂しい笑顔と哀しい夕暮れに引きずり込まれ、今に戻って来れなくなる。とても抗うことなどできない。

真澄の香水が“ANTAEUS”だと知ったのはほんの偶然で、三ヶ月前のことだった。ドラマで共演した俳優がその香りを漂わせていた。違うのは、それを付けていたのは真澄ではないことと、彼が煙草を嗜まないこと。だから、俳優の香りは真澄自身が漂わせていた香りとはどこか違ったけれど、マヤは間違いないと確信を持った。

「ねえ、この香り…なんて香水付けているの?」

唐突なマヤの問いに俳優は一瞬の間を置き、なんだ彼氏にでもプレゼントするの?などとからかいながら、「シャネルのアンティウスだよ。悪くないだろ」と教えてくれた。

ANTAEUS。ギリシア語源ではアンタイオス。海の神ポセイドンと大地の女神ガイアの息子で、ヘラクレスに倒されるまで無敵を誇っていた英雄の名。強靭であると同時に脆さも兼ね合わせたこの英雄の名を冠した香水は、強さと一筋縄ではいかない複雑さと繊細さ、甘さを漂わせ、そのすべてが真澄そのものを感じさせてやまない。
厳しさで導いてくれた人。
紫のバラの影から優しさで見守ってくれた人。
子どものような笑い声。
寂しげな笑顔で去っていく横顔。
マヤは香水に詳しいわけではないけれど、香りの記憶は、言葉とか映像とかそういう記憶の扉ではなく、もっと体の芯の奥深くの扉の中にあって、真澄を忘れることを許してくれない。

この俳優と仕事している時間は、奇妙な時間でもある。なにしろ、恋人同士の役なのだ。耳元で囁き合い、触れ合い、抱き締め合うシーンもあった。しかも俳優の声は、低音の良く響く声で、どこかしら真澄の声を彷彿とさせるところがあって、だから、目を瞑って抱き締められると、まるで真澄に抱かれているような錯覚に陥ってしまう。恋らしき錯覚に陥ってしまうのだ。実際、周りの共演者やスタッフには、北島マヤはあの俳優をかなり気に入っていると見られてしまっている。もう、いっそ好きになったことにしてしまおうか。どんなきっかけでも、いつか本当に俳優自身を好きになれるかもしれない。あの恋とは別な恋を始めなければいけない。そんな、義務的で、まやかしめいた気分にもなる。

でも、違う。
どんなに、似た香りを漂わせ、似た声で呼びかけられても、
彼は、真澄ではない。
絶望的に、体中でそれを知っている。

いつになったら忘れられるのだろう。
どれだけ時間が経っても、どれだけもう大丈夫だと思っても、街の中であの香りに一瞬出会っただけで、体中が理性とは別なところで、真澄を思い出そうとして困る。
たった一人で舞台に取り残されたくせに、一人で舞台を降りる術を知らない自分は、いったいどうすればいいのだろう。
今頃、真澄はきっともう、違う舞台を華やかに歩いているのに違いないのに。今頃は、きっと、もう。















「マヤさん」

街の中で背後から声を掛けられる。素顔は目立つタイプではないマヤとはいえ、ドラマにも映画にも出演を繰り返せば、それなりに声を掛けられることはある。嬉しくもあるが照れくさくて、いつも上手に応対できないが、とりあえずマヤは笑顔を作り、後ろを振り向く。
秋の夕暮れの街で、思いがけない人との出会いに、マヤは笑顔を張り付かせたまま、体を硬直させた。
流れていく時間が、一瞬、止まった。

「お元気そうですね、マヤさん」

優しげで、静謐な声。

「……ひ…じり…さん…!?」

名前を口にしてしまってから、人混みで名を出してしまったことにマヤは激しく後悔して口元を押さえる。聖は、「かまいませんよ」とにっこりと微笑む。

「ご無沙汰しておりましたが、お綺麗になられましたね」

相変わらず、右目を謎めいて前髪で隠し、黒のスーツを着こなした聖の姿に、懐かしさのあまりマヤは言葉を無くす。紫のバラを届けてくれていた頃の聖と、目の前の聖が二年の時を超えて重なり合う。

「…どうしよう…」

「マヤさん…?」

「…聖さん…。あたしとは会う理由がもう無いから、だから、二度と会えない人だと思ってて…」

「…マヤさん…」

「嬉しい…です。会えて、嬉しい…」

二年分は大人になったであろうマヤの、それでも変わらぬ素直な反応に、聖は思わず知らず笑みがこぼれる。
そのレストランは、全てのテーブルが壁で仕切られ隣を気にせずに会話を楽しむことができる。涙腺の緩んだマヤを聖はそこに案内し、適当に食事と飲み物をオーダーする。

「もう二年になるのですね。マヤさんの、素晴らしいご活躍を、あの方もとても喜んでいらっしゃいますよ」

あの方…。紫のバラの人。

「まさか…。もう、あたしのことなんて見ることなんて出来ないのに。もう、気にしてなんていないはずなのに…」

マヤの言葉に、聖はふと表情を曇らせ、それから合点がいったように微笑む。

「日本を発たれる前に、紫のバラを贈っていたのは自分だと、告げられたそうですね」

「ええ…。紫のバラをたくさん抱えてきたくせに、いつもの速水さんの顔で、あっさりと…。あたし、ろくにお礼も言えなくて…」

速水さん…

速水さん…

いつも心の中で呼びかけていた名前だったけれど、実際に口にするのは本当に久しぶりで、その名を声に出して呼んでしまった口元が、まるで封印を解かれたかのように、止めようもなく問いかけ始める。

「……速水…さんは…お元気ですか…?」

「…お元気ですよ」

「どこかに行っちゃっても…前みたいに、仕事の鬼って呼ばれてますか…?」

「そうですね。以前と変わりなく、いえ、以前にも増してお仕事にも励まれています」

速水さん…。

「煙草も、吸ってますか?いつも右手の指に挟んで皮肉っぽく笑ってた…。憎まれ口をきくときも、右手には煙草があって…」

「煙草の量も変わりなく」

「…香りも…香水も…以前と同じANTAEUSを…?」

「ええ、今もご愛用ですよ。その香水を」

速水さん…。

  速水さん…!
    速水さん…!!

あとはもう言葉が出なかった。目を固く瞑り、震える両手で口元を押さえ、込み上げてくる嗚咽をのみ込み、溢れ出る涙をただ流し続けた。どこかで生きている。以前と変わりなく元気に、相変わらず仕事の鬼で、皮肉めいた笑顔で煙草を吸い、あの香りを漂わせて。

逢いたい。
逢いたい。
逢いたいのに。

別の場所に行ってしまったのなら、いっそ全く別の人になってしまえばいいのに。そしたら、もう、本当に消えてしまった人として、絶対に叶わない人として、諦められるかもしれないのに。
逢いたい。変わっていない真澄に逢いたい。あの香りを漂わせ、低いけれど胸の奥まで良く響くあの声を聞かせてほしい。優しげな声じゃなくていい。皮肉めいた声でいいから…。

逢いたい…
逢いたい………

涙の向こうの聖の視線。大きく息を吸い込み、乱れた心を落ち着かせようと試みる。聖が何も言わず、静かに見守っている。何事か思案するように。こんなに泣いてしまって、聖はなんと思っていることだろう。気付かれてしまっただろうか。
真澄を想っていることを。
今も…こんなにも強く想っていることを。

「マヤさん…。出過ぎたことなのかもしれませんが…。ひとつ、伺ってもいいでしょうか…」

僅かに躊躇いを滲ませながら、聖が訊く。

「…はい…」

「あなたは、紫のバラの人があの方だと知って、どう思われたのですか…?以前から、あなたは真澄さまを酷く憎んでいらした…」

嘘をつくことは簡単なことだと思った。憎んでいた人が紫のバラの人で、ただ驚きました。そんな風に言うことは簡単なことだけれど、それは、長い間密やかに真澄と自分を繋いでくれた聖に対して不誠実なことだと思った。

「あのね…聖さん…。あたし、知っていたんです。速水さんが紫のバラを持って告白してくださるよりずっと前から、あたし、速水さんが紫のバラの人だって気付いてしまっていたんです…」

聖の表情が一変する。穏やかな顔が歪み、驚きを隠せないでいる。

「…では、まさか…あの頃、マヤさんが恋をしていた紫のバラの人というのは……」

そうです、と言葉にするのは苦しくて、マヤは寂しげに頷くほか無い。

「そのことを、あの方はご存じだったのでしょうか…?」

「…知るはずの無いことだから。あの頃、速水さんはもう婚約しちゃってたし、…あたしみたいなチビからそんなこと言われても困るだけだと思ったし…。とても言えるわけがなかった…」

「…なんてことを…。二年もの時間を…」

「…え?」

氷の溶け始めた水の入ったコップを掴むと、聖は一気に飲み干した。マヤはそれを眺めながら、聖に胸の内を打ち明けたことを僅かに後悔し始めていた。紫のバラの人では無くなった真澄には、真澄のいるべき世界がある。そこに踏み込んではいけないことぐらい、どんなに胸が痛もうが苦しかろうが、マヤにだってわかっている。聖も、今さらこんな話を聞かされて、随分面食らっていることだろう。

「聖さん…。速水さんには、こんなこと伝えなくていいですからね。きっと、こんな話、興味無いと思うし、聞いても今さら迷惑なだけだろうし。だって、今、速水さんは、…幸せなんでしょう…?」

幸せなんでしょう…?

自分で言った言葉が鈍く胸に突き刺さる。真澄の幸せの隣には、自分ではない美しい女性がいるはずだから。そして、いつまで経っても自分の幸せは真澄という存在に支配されたままで、今の自分は幸せだと言えないでいるから。自分の幸福が、自分では無い人間に支配されていることを、何も知らずにそれでいいのだと、それが当たり前なのだと思えない。かつて、自分は自分のために自分の幸せを掴むために全力で生きていた筈だった。その頃の自分が、今の自分を見たら、どんなに不甲斐なく思うだろう。

水滴だけが残されたコップをテーブルに戻すと、聖が下を向いて小さく笑う。とても愉快そうに。それから、なにかを納得したように。

「あの方が心からお幸せかどうかは…、マヤさんがご自身でお確かめになるのがよろしいかと。…いえ、そうなさるべきです。私が言えるのはそれだけです」

「ご自身って。聖さん、あたし速水さんがどこにいるのかも、何をしているのかも、全然知らないんですよ。知っているのは、どこか日本じゃない所に、行ってしまったということだけで」

肩をすくめて戯けてみせる。本当になにも知らないのだ。真澄のことを。結婚したことは、そのことをマスコミが少しばかり騒ぎ立てていたから知っている。海外赴任したことは、水城から間接的に聞いたから知っている。自分も一緒に秘書として行くのだと。知っていることと言えば、たったそれだけで、理由も、赴任先すら知らないのだ。確かめようが無い上に、確かめたところで虚しさが増すばかりな気がした。確かめすぎるのは、よくないと信じた。

「日本にお戻りになりますよ、あの方は」

「え…?」

「年明けには大都グループの総帥に就任される予定です。ご準備のために間もなく帰国されるのです」

──帰ってくる。日本に。帰ってくる…。

左の胸が縮み上がるように、ぎゅうっと痛む。

「責務を果たされて、日本にお帰りになります。マヤさんのいる、この東京にお帰りになるのですよ」

聖の言葉には不思議な力がある。紫のバラの人の様子を語る時、聖の言葉は魔力を帯びる。いつも聖を通じて励まされて来た。いつも聖の穏やかな微笑みがとても頼もしくて、紫のバラの人に繋がっているんだと感じられて、とても安らいだ気持ちになったものだった。そして今も聖は、昔と変わらぬ笑みをくれる。言葉をくれる。

繋がっているのだろうか。
何かが、始まっていくのだろうか。
あの夕暮れのラストシーンで終わってしまった舞台は、
続くことを許されているのだろうか。


速水さん…。

あなたに、また逢える日が来るのですか…?

また、あなたの香りにめぐり逢える日がくるのですか…?






10.02.2005
01.14.2006(転載)





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