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前編

written by kotoさま













小さな部屋の隅々まで掃除機をかけ、目に見える限りすべての埃を拭いてまわった。地方の公演から帰ってくるとまず掃除から始めないと落ち着かないほど部屋は荒れ放題になっている。部屋どころか数少ない掃除道具の上にも埃がかぶっている始末で、いったいマヤはどうやって暮らしていたんだろうといつも思う。
けれども、きっとあんな状態で一人ぼっちでこの部屋で過ごしていたマヤには、掃除や食事は後回しになっていたのだろうと思うと、怒りたい気持ちも萎えてマヤがすごく可哀想になった。一緒になんてずっといられないのに、それでもマヤには誰かついていてあげるべきなのだと思いながら、一角獣とつきかげの地方公演に2ヶ月以上家を空けねばならないのは仕方のないことだった。土産話をねだって付きまとうようにして明るかったのは一晩だけで、今朝もボーっとほうきを握りしめながらピクリとも動かないマヤの背中を見て、マヤにとってのこの2ヶ月という期間を思い描いてみたりする。試演が終わり、上演権について悩み、本公演を前に緊張も高ぶっているはずだと思うし、しかも・・・。

麗は気晴らしになればと夕食のお使いを頼んだ。
けれどももう小一時間も過ぎるのに帰ってきやしない。
きっと今頃財布とおかず(ちゃんと買い物できていればの話だけど)を持ったまま、公園でぼんやりしているに違いない。
マヤが帰ってきたら何くわぬ顔で出迎えてやろうと、寛大な気持ちを思い起こしながら、一緒に食べる遅めの昼食を用意するために台所に向かって冷蔵庫を開け材料を物色した。


Pipipi・・・・・


電子音にピクリと肩が上下した。
麗は携帯電話を持っていないせいでこんな呼び出し音に未だに慣れていない。実際、連絡を取りたい相手はいつも傍にいたし必要性を感じていなかった。
辺りをぐるりと見回すと、マヤの上着のポケットからその音は漏れているらしかった。上演権と引き換えるように、速水の社長から携帯電話を無理やり受け取らされたと、そう、麗に電話で話していたのを思い出した。


“マヤ、携帯持ってても持って歩かなきゃ意味ないだろう”

この場にいないマヤに向かって小言のひとつも口にしながら、仕方なく電話を手に取った。


「もしもし、速水だが」

「あぁ、こんにちは。速水さん。
残念だけどマヤは今出掛けています。もうすぐ帰ってくると思うけど・・・」

「いや、青木くんかい?よかった、君が出てくれて。今日は君に頼みがあってかけたんだ。これから時間はあるかい?」

「えっ、あたしに・・・ですか??」

「そう、君にだ。これから迎えの車をよこしても構わないか」

「えっっと・・・夕方からバイトが・・・」

「バイトか・・・取りあえず今日は休めないか?」

「えぇっと、できない事はないと思いますけど・・。はい・・・じゃあ、連絡してみます。でも急ですね。いったい用件は何ですか?」

「とにかく会って話がしたい。来てもらってもいいかな」

「あぁ・・・はい、分かりました。伺います」

「悪いがそうしてくれ。君が来てくれるのを待っているから」

「あの・・・・用件はあたしにだけですか?マヤには何か伝える事は・・・?」

「・・・今のところ思いつかないな。何か不満でも?」

「いぇ、そういうわけじゃないんですけど・・・ちょっと意外だったので」

「・・・そうかもしれんな。それで、すぐに出れるか?」

「出れます。で、行き先は?」

「大都芸能本社だ。実は外に車が待っているはずだから、支度が済んだら運転手に声をかけてくれ」

「えっ、そうなんですか?!」

「急ぎの用件なんでね。突然済まなかった。それじゃあ」


電話が切れてしまうと、不思議なその違和感に包まれたまま、とにもかくにもバイト先に電話をかけ、今日一日の休みを告げると、はいていたジーンズとTシャツの上にブルーの綿のソフトシャツを羽織って外へ飛び出した。








 







本社の大きな自動ドアを通り抜けると、待ち構えていた秘書と一緒に一番奥の、役員用のエレベータに乗り込んだ。小さな箱のような空間の中で、気詰まりを覚えながらじっと数字の点滅を眺めていた。その数字は止まることなく最上階まで二人を運ぶと、静かにドアを開けた。毛足のふかふかとした絨毯の廊下の奥に、電話をかけてきた主がいる部屋がある。

「速水社長、青木様をお連れしました」

ノックのあとに、秘書がそのドアに向かって穏やかに語りかけた。小さく”入りたまえ”と声が帰ってくると同時にドアが開き、その先には書類をめくりながらパソコンに何かを打ち込みながら柔らかく微笑む速水社長がいた。


「よくきてくれた。もうすぐここが片付くから、すまないが少しだけ待ってもらっても構わないだろうか」

「はぁ、お構いなく・・・」


麗は秘書に勧められるままソファにちょこんと腰を下ろし、見るとはなしに真澄を見つめていた。手際よく秘書にいくつかの指示を出したあと、難しい顔でパソコンの画面を見ながら考え込んでいる。


”このひとが紫の薔薇の人・・・”


マヤが、試演が終わったあと麗にだけは言っておきたいと告げられた衝撃の事実だった。そしてその速水さんを愛しているといって泣いたマヤ。
すぐには信じられず、受け入れることのできなかった事実。その行動の真の意味と重み。

けれども考えれば考えるほどすべてのパズルが組み合わさっていって、失くしたピースまでもがそろっていく。マヤを取り巻いていた一連の謎がすべて解けて、一枚の、壮大で、曖昧で、悲しいほどに刹那い絵が完成されていった。


“なんでこの人なんだろう・・・なんでマヤだったんだろう・・・”


麗の中で、いまだに理解できない事がある。導かれる答えはひとつなのに、どこか腑に落ちない、危うい感触でざわりと心を撫でるものがある。


“速水さんはマヤのことをどう思っているんだろう?罪悪感から?庇護欲?それとも・・・速水さんがマヤに愛情?まさか!?”


「俺の顔に何かついてるかな」


いつの間にかパソコンをたたんで、速水さんが麗のすぐ前に立っていた。


「えっ、・・・あっ・・・すみません」

「いや、待たせて済まなかった。早速話を聞いてもらいたいんだが」

「・・・えぇ、何でしょうか、速水、さん」

「実は・・・・」

企画書のファイルが麗の目の前にどさりと置かれた。そして台本。連続テレビドラマの文字が大きく表紙を飾っている。

「まさか・・・テレビのドラマ・・・ですか?」

「そうだ。どうだ、やってみないか?」

「お話は分かりました。でもお断りします。あたしは舞台以外に興味ないし、ましてや大都のドラマに出るなんて・・・」

「さすがに答えが早いな」

笑いを堪えるように、しかし馬鹿にした感じではなく、とても親しみやすく打ち解けた笑顔を見せた。

「そういう風に言われる事は百も承知だ。けれど君しかいないんだ。明日から撮影が始まる。
身長が高く、ボーイッシュで姉御肌。
ドラマの登場人物は3人のみ、しかもこの役は3人のまとめ役になる、中心人物だ。セットは3人が同居している部屋だけで、3人のやり取りのみがドラマの筋になる。芝居ができないと話にならん。そこいらの見た目だけのタレントではできやしない。素人には無理なんだ。
20分間の短編ドラマだが、仕事から帰った疲れたOLをターゲットにしている。世間でOLと呼ばれる女性達の多くが抱える悩みを、この3人の登場人物も悩み、苦しみ、解決していく、ドラマ仕立てのお悩み相談室という設定だ。深夜とはいえ、記者会見ではかなりの手ごたえも感じられたし、注目も集まっている」

「あたしも一昨日・・・だったかな、朝のニュースでその主役の子が“出来ちゃった婚しました!”って言ってうれしそうに話しているの見ましたけど・・・。
その娘の代役ってことですよね?」

「そうだ。俺もその子の妊娠はそのニュースで知ったんだ。
もちろん寝耳に水の話だったよ。そして付け加えるなら、その子はもう妊娠5ヶ月に入る。来月にはお腹も目立ってくるらしい。とてもドラマになんぞ出られないとニュースの後に事務所から言ってきたよ・・・。当たり前だが降板だ」


速水は大きくため息をついた後、彼にしては珍しく身を乗り出すように懇願した。


「無理は承知だ。君は長期の地方公演を終えたばかりで、今後の舞台の予定もちょうど決まっていない。
君に連絡する前に調べさせてもらったよ。もちろん君に迷惑がかかるようなら電話などしなかった。
それに・・・、この大都芸能の社員の誰一人としてこの時間まで代役を立てることなど出来なかった。俺の最後のつては君しかいない。頼まれてくれないだろうか?」

「そんな・・・無理です。速水さん、だって・・・」


言いたい事があるのに、ぐっと飲み込んで繋げない、そんな麗に速水が曰く有りげに聞き返す。


「だって?」

「いえ、なんでも・・・ないです。とにかくできません。すみません・・・」


速水と紫織の結婚式は本公演が始まるその日に予定されていた。
試演が終わり、速水の結婚式が目の前まで迫っている今、マヤがこの時間も、速水を想って泣いているに違いない事を、麗は痛いほど知っていた。
マヤの夢だった紅天女の始まりが、マヤの女としての気持ちの終わりを告げる。麗に吐き出すようにそう言って寂しそうに泣いていたマヤのその姿が、痛々しいほどのマヤの心が、麗にもいやでも理解できた。
それほどまでに気持ちを削るように過ごし、稽古に打ち込もうとしているマヤを、麗は一番近くで、毎日見守っていた。
そんな男の頼まれごとなんて、引き受けられるわけないじゃないか、と麗は思う。


怒りに似た感情が、真澄に近づかないように高い壁を作る。この男は抜け目がない。自分に不利益なことはやらないと、心の中で警笛が鳴る。
唐突で突然なのに、何もかもが造られたようにお膳立てが整っている。
こんな話、何か裏があるかもしれない・・・。
いつかのマヤのときのように・・・。
いつの間にか大都芸能に支配され、マヤに会うことさえ出来なかったあの頃。
真実が捻じ曲げられ、マヤの人気だけが一人歩きをしていたあの頃。
月影先生だけがただ成り行きを面白そうに見守っていたあの頃・・・。


速水さんが紫の薔薇の人だと思えば、あの時はマヤの為を思ってした事なのだと思い返すことが出来る。マヤに必要な経験と云う名の試練。それもありなのかと思う。

しかし、今は?しかも相手はマヤじゃない、あたしなのに?

マヤをあんな形で平気で裏切る事ができる男の役になどなってはいけないと、麗は咄嗟に身構えた。


「信じられません、こんな話。あたしじゃなくてもいくらでもいるでしょう、背が高くてそこそこ芝居が出来る女なんて。あたし、自分でもテレビ向きじゃないって思うし。うますぎるっていうか・・・」

「君にもプラスになるはずだ。君らの劇団の実力があれば今のままでも充分だということは知った上で言っているんだ。君がメジャーになれば劇団の知名度ももっと上がる。興行的にも宣伝になる。
いや、すまん。君にとってのメリットを並べたところで信用できんだろうな」


前のめりになった身体を起こして、秘書が置いていったコーヒーを一口、口に含んだ。


「正直に言おう。君が引き受けてくれなかったもうお手上げなんだ。出来る限りのことはやった。代役も探したし脚本の変更が出来るように手配もした。しかし、時間がない。明日から撮影が始まる。もう、何もかも間に合わない。俺には後がないんだよ。いい経験だと思って・・・」

「せっかくですけど・・・。あたしのしたいこととは違うし、お役に立てません。 もう帰ってもいいですか」


麗の畳み掛けるような頑なな拒否の返答に、真澄が圧倒されたように身体を引いた。

「そうか、そうだな」

ひどくがっかりしたのを隠そうともせず、爪を咬むような、そんなそぶりを見せた後、諦めたのか毅然とけれど優しく言い添えた。


「無理強いはできない。いやな思いをさせたなら悪かったよ。わざわざ君をこんなところに呼び出して済まなかった。送っていこう、車を回す。それまで待っていてもらってもいいかな」

「あ、いえ、歩いて帰れますので結構です」

「そうはいかない。俺はまだ仕事があるので送れないが、ちゃんと大都の運転手が君をお送りするよ」


事務的に、それでもなぜだか今までのような険はなくて、あくまでも態度が優しい。なぜ、なんだろう・・・。


「速水さんは・・・速水社長はこれからまた代役を探すんですか?」

「そういうことになる。君に断られてしまったからな。仕方がない」

本当に残念そうに目を細め、軽く笑いながら肩をすくめた。


瞳は限りなく優しくて穏やかで、真摯な態度。マヤに対してとっていた挑戦的で挑発的な意地悪な顔など微塵もみせない。いや、挑戦的だったのは私たちのほうだったのか。紫の薔薇の人で、マヤが恋する相手と思うと、今ではそんな簡単なことさえ思い出せなくなっている。
麗の視線を感じると、内線をかける手を一瞬休めて、麗の顔を見て優しく微笑む。

これがあの速水社長の顔?

最近は好意的になって、言葉は厳しくても的確なアドバイスやバックアップも惜しみなく与えてくれていたし、一角獣の団長なんか速水真澄を尊敬していると事あるごとに言うようにもなった。だけど、月影先生や劇団やマヤに対して速水真澄が行ってきた今までの大都の仕打ちは、あたしには簡単に忘れる事などできないほどひどいと思っている。仕事の鬼で、カタブツ、仕事のためなら汚いことでも何でもやると聞いていた。しかし紫の薔薇の人としての速水真澄って・・・・

こんな顔、マヤは見たことがあるのだろうか・・・?

たぶん、あたしが断ったらさっきみたいに難しい顔をするのだろう・・・・。いつも忙しそうにしているのに、これから代役を探すためにまた忙しくなるんだろう。
よりによって何だってマヤはこんなひとを好きになんかなっちゃったんだろう。
こんなやつ、仕事に追われて結婚なんか出来なきゃいいのに・・・。そうすりゃマヤはあんなに泣かなくったって済んだだろうに。金持ちの裕福なお嬢さんだかなんだか知らないが、マヤみたいに一途に、それこそ命を懸けるように思う女がいるのにさ、どうして今更結婚なんかするとか言うんだろう。大都芸能だって、そんな女の力なんかなくてもこんなに大きくて立派じゃないか。


ぐるぐるといろんな考えが頭に浮かぶ。目が廻りそうだ。真澄の伏せたまつげを見ながら、麗の口から出た言葉は麗自身意外な言葉だった。自分でも、正直なところ何が何だかわからない。ただなんとなく、速水真澄という人間が知りたくなったし、忙しそうにしている様がかわいそうになった。ただそれだけかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


「あの・・・」

「ん?」

「あの、あたし、引き受けてもいいです・・」

「本当か?」


「はい。その・・・今更なんですけど、是非やらせてください」


思わず受話器を取り落しそうになりながら、速水社長があたしを見た。意外なほど驚いて、本当に素直に、真っ直ぐにあたしを見た。

どこか少年のような瞳。このひと、よくわからないひとだ。


「ほんとに・・・、いいのか?」

「ええ、あの・・間に合いますか?」

「もちろんだとも。本当にいいんだな?」

「女に二言はありません」

「そうか・・・助かった」


素直に笑う顔は、今まで見たことのない別の顔だった。マヤにだけ、こうして笑いかけていた、そう思い出すと心が落ち着いた。


「助かった?ですか?」

「そうだ。ここのところトラブル続きでね。残業が続いていたんだ。今日は君のおかげで早く帰れそうだし・・・」


麗に握手を求めて手を差し出した。

「久しぶりによく寝むれそうだ」

大きくて骨ばった指が、突然居場所をなくしたように置き所をなくした麗の手を強くひきよせた。
麗の手が、今まで自分の手を小さいと思ったことのない、女にしては大き目の手が、今日は初めてとても華奢だと感じた。
自分も女だったのだと、強く思い出させた、暖かい大きな手だった。


「よろしく頼むよ、青木君」

「あっ、はい。よろしくお願いします・・・あっ、でも」

居心地が悪くなった手を背中に隠して、思い出したように付け足した。

「その、条件が」

「条件?」

「そう・・・、そうです。条件があります」

咄嗟に何かないかと言葉を捜した。マヤのためにも、私自身のためにも、この男の言いなりにならないために何か、何か探さなければ・・。

「怖いな。だが何でも聞こう。言ってみたまえ」

「いえ、やっぱり、いいです。よろしくお願いします」

思いつかなかった。悔しい。

「いいのか」

「あの、考えさせてもらってもいいですか」

「あぁ、ゆっくり考えるといい。
しかし仕事のほうは急いでいるんだ、わかっているね。明日から撮影が始まる。いいか。隣に明日からのスケジュ−ルがあるから大体でかまわない、把握しておいてくれ。君のマネージャーはこちらでつけさせていただく。今日中に幾つか片付けなければいけないこともあるな。詳しくは水城に聞いてもらえば分かるが・・・。
あ・・・と、すまん、急ぎすぎたようだ。君の予定も聞かねばならんな」

「バイト、このまま辞めてきます。他に予定はありません」

「そうだった。それじゃあバイトのほう、すまないがそうして欲しい」

「分かりました。あっ、あの・・・速水さん、今夜早く帰れるって言ってましたよね」

「そうだ。君からOKをすんなりもらえたもんでね」

すでにデスクに戻り、書類をめくりながら内線で隣の部屋にいる水城に複数の指示を飛ばしている。言葉を遮らないように声をかけようとするが、その気迫にたじろいでしまう。


「あの・・・あの、ですね・・・」


伏せたまつげが上がり、目が麗の視線を捕らえると、右手の人差し指が空で止まる。



koto



“すこし、だまって”

そう言われたような気がして、麗は上げた腰をもう一度ソファにおろすと冷めた紅茶に視線を落とした。


“どうしよう・・・。何であたし、いいなんて言っちゃったんだろう”


後悔に似た寒い感情が、急速に心を冷やしていた。喉がからからに乾いてきて紅茶に手を伸ばしてみるけれど、その紅茶を飲むのはなんだか悔しい気がして伸ばした手を引っ込めた。真澄を許すような、認めてしまうような複雑に感情が揺れるなかで、マヤを悲しませたりしないかと思ってみたりもする。マヤにどうやって伝えようか思案しながら、真澄が早く帰れるのなら真澄のほうから伝えてくれないかと思ってみたり、それはきっと無理だと落ち込んでみたり。

「すまない。待たせたね」

「いえ、いいんです・・・」


穴が開き、止まっていたドラマという企画が再び動き出したのを、その電話の重苦しい言葉で充分感じ取る事ができた。重要な決断を、一瞬の気の迷いで引き受けてしまった事を、恐ろしい勢いで後悔し始めていた。大勢の、100人も1000人もの人間が動き出したのは、麗の返事の一言であったのかと思うと、うすら寒くなってくる。


「あの、あたしでほんとによかったんですか」

「もちろんだ」

「でも、でも・・・・ほんとにあたしで・・・」

「青木君らしくないな。いつもの自信はどうした?速水真澄がじきじきに君を推薦し君に頼んだんだ。認めていない人間は一人もいない。すべては動き出したよ。そういうことだ」

残忍なほどにこの男は美しく笑う。認められていた、なんていい響きなんだろう。

「君は明日からは寝る暇もないほど忙しくなる。覚悟してくれ。そして俺はやっと家に帰るだけの余裕が出来る。君には感謝するよ」

家に帰れないほど忙しかったのかと、ぼんやりと考えた。なんだ、それ。信じらんないな。

「お祝いをしよう。いいかい」

私に選択の余地などない気がしてくる。小さく頷くのが精一杯だった。

「君も北島君と一緒で、 “仕事のためなら何でもするゲジゲジ”だと俺の事を嫌っていることは知っている。だが、今日は忘れてもらおう。楽しみにしていてくれ」

「はい」

「そうだな、詳細は後で連絡する」


“連絡する”その言葉がいい終わるか終わらないうちに、すでに気持ちは仕事に戻っている。麗の上に滑るように意識が通り過ぎていくのがわかる。



・・・もう帰ろう。



どうしてこの人はいつもいつもこんなに強気なんだろうかと疑ってみる。混乱する。だから引き受けちゃったりしたんだ、あたし。だって、あたしの周りにこんな男の人は一人もいない。

「・・・・それじゃ、私帰ります。隣の人に声をかければ分かりますか」

「あぁ。わかるはずだ。では、あとで」

一瞬、こちらに向かって顔が上がるのを見た。それを見ないようにそそくさと立ち上がり、速水さんより早く急いで扉に飛びつき、顔も見ずに扉の隙間に急いで身体を滑り込ませた。ドアを開けてもらうのはなんだか恥ずかしかった。







05.31.2004






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