■□ 春きたりなば 前編 □■ |
written by チカチカさま |
「そういえば、明日はきみの誕生日じゃないのか」 その声に、私は書きかけのサインの手をとめると、思わず顔をあげた。 「え…そうでしたっけ」 「おいおい、自分の誕生日を覚えていないのか。若い女の子が」 速水さんは、右手の指にはさんだ煙草をゆっくりとくゆらしながら、からかうような声音で言った。 「誕生日を忘れるのは5年は早いぞ」 「そういえば…誕生日でした…よね」 私はぼんやりと速水さんの顔をみつめた。 「毎年いつも、あんまり覚えてなくて、麗に言われて思い出したりするんですけど。今年も、すっかり忘れていました」 「まあ、無理もない。ここ最近はいろいろ慌ただしかったからな」 声が、わずかに優し気な響きを帯びる。 「何回も言うが、紅天女獲得とは、本当によくやったな、チビちゃん」 「ありがとうございます」 私は深々と頭を下げた。 「今でも、何だか信じられないんです。私なんかが、紅天女をやっていいんだろうかって」 そういいながら、社長室の大きなデスクの後ろに広がる、窓の風景に目を遣った。鈍い冬空の中を、あかるい日差しが一筋貫いている。 「そんな気弱なことでどうするんだ。試演の舞台で満場一致で決まったんだから、もっと自信を持ちたまえ。大体きみは昔から自分に自信が足りないんだ」 速水さんの、いつもの説教じみた口調に、なんとなく笑いがこみあげてくる。 「速水さん、サインこれでいいですか」 速水さんは差し出した書類をゆっくりと手に取ると、ざっと目を通した後、私の顔を注意深げに見た。 「ああ、これでいい。契約は成立だ。これからきみは再び大都所属の人間になるが、本当にいいんだな」 「ええ。もう決心したことですから」 私は、きっぱりと言い切ると、彼の瞳をみつめた。 「よろしく、お願いいたします。速水社長」 「ころらこそ、よろしく頼む。昔のことを思い出すと、こんな風にスムーズに契約が運ぶのは夢のようだぞ、チビちゃん」 速水さんは、口元に苦笑じみた笑いを浮かべて言った。 「きみを大都に引き入れるのは、実に至難の業だったからな」 「もう、昔のことを持ち出すのはやめてください。わたしあのとき子供だったから、何にもわからなかったんですよ。大都に入れようとした月影先生の気持ちも、速水さんのことも」 あのとき、子供だったから。 何にもわからなかったんですよ。 自分の言った言葉が、頭の中に響いている。 「ほう、それじゃ今は子供じゃないから、俺の気持ちもわかっているのかな、きみは」 速水さんは、かたほうの眉をわずかにあげながら、おもしろそうな顔で私をみた。 「今の俺の気持ちはどうなんだ?子供じゃないならわかるだろう」 「そ…それは、やっとこれで、紅天女が手に入ったって…大喜びしているんじゃないですか」 速水さんの、何気なく挑発するような言葉に、何だかカッとして叫んでしまう。 「それに、もうすぐあんな綺麗な人と結婚できるって、とっても嬉しそうな顔してますよ。ご結婚の日取りが近いうちに決まりそうだって、さっき水城さんから聞きました。おめでとうございますっ」 言わなくてもいいことを言ってしまう自分の癖は、昔からちっともかわらない。言ったあとで後悔しても後の祭りなのに。 「そうか…それはご丁寧なあいさつ、どうもありがとう」 私の勢いこんだ言葉に、速水さんは苦笑いを浮かべる。 「ただ、そのカッとする癖だけは昔からかわらんな。それを直さんと成長できんぞ。昔きみを無理やり芝居に誘いだしたときも、俺を蹴り上げそうな勢いだったからな」 「あ、あれは、速水さんが何か企んでいると思ったんですよ」 「そのあとも一日中、ずっと俺を睨んでいたじゃないか。まあ、あのときは俺のほうが無理やり連れまわしたから無理もないがな」 「別に睨んでいたわけじゃありません。何だか、いつもの速水さんと違うから戸惑っちゃって…」 プラネタリウムの淡い明りの下でみた、あの日の速水さんの顔が、今でも鮮やかに記憶に残っている。それまで知っていた速水さんの違う一面を見たようで、あれから自分の心が急速に傾いていったような気がする。今にして思えば。 「そうか。しかし、懐かしいな」 速水さんは、ふいにソファから腰をあげると、ゆっくりと窓のそばに近寄った。 「きみと二人で過ごした時間が、懐かしいな。もうあんなこともないだろうがな」 ひとりごちるように言う。 速水さんの広い背中に、一筋の陽光が差していた。 その背中を見ていると、言うつもりのなかったことまで言ってしまいそうになる。 「あの、速水さん」 「なんだ」 「もう一回、二人で過ごしてみませんか」 速水さんが、驚いたような顔で私を振り向いた。 「明日 もう一回だけ 昔のように二人で過ごしてみませんか」 02.23.2004 |
thanks next |