■□ 春きたりなば 後編 □■ |
written by チカチカさま |
冬の谷間のような、どこか、春の訪れを告げるようなやわらかな陽が降り注ぐ朝だった。 先日までの冷え込みが嘘のような、暖かい空気が取り巻いている。 駅を出ると、広い一本通りがまっすぐに続いている。通りに沿ってゆっくりと歩いていく。しばらく歩くと、入り口が見えてきた。まだ誰も並んでいない。入り口を塞ぐポールにかるくもたれかかると、さっき駅で買った缶紅茶のプルトップをあけた。一口飲むと、甘い香りがじわりと口に広がる。 昨日の速水さんの顔が、ふいに頭に浮かんだ。 「突然だな、チビちゃん」 私の口にした言葉を少し驚いたようすで受け止めながら、速水さんが口早に言った。 「す、すいません。つい勢いで言っちゃいました。突然ごめんなさい。明日なんて無理に決まってますよね。忘れてください」 慌てて一礼をして出て行こうとする私を、彼の声が呼び止める。 「待て、チビちゃん」 強い口調に、歩きかけた足がとまる。思わず振り返ると、速水さんは、余裕めいた笑みを浮かべながら、私をみつめていた。 「どこに行きたいんだ、チビちゃん」 「え……」 優しい問いかけだった。 「もう一回だけ、きみを昔のように、誘ってもいいか」 囁くような口調だった。 「きみのリクエストにお答えしよう。明日一日、つきあってくれるか」 ――速水さんの顔は、あの日の横顔を思い出させた。初めていったプラネタリウムで見た、速水さんのいつもと違う顔。それまで私が知っていた強引で嫌味虫な顔ではなく、どこか遠いところを見据えているような、透明な横顔。 あの横顔の意味を、あれからずっと考えていたような気がする。 あの頃は、速水さんが紫の薔薇の人だとは気づいていなかったし、まさか彼に恋をしてしまうとは、予想さえしていなかった。 けれど、その苦しい思いのなかで、あの日の横顔だけが、いつも私の心の中にあった。 心の中の、いちばんやわらかい場所にあった. 「おい、何をぼんやりしてるんだ、きみは」 背後からいきなり声をかけられて、私は飛び上がった。 「は、速水さん」 「まさかと思って早めにきてみたが、行列の一番前にいるとはな。一体いつから並んでいるんだ」 言われて振り返ってみると、誰もいなかったはずの通りに30メートルくらいの列ができている。平日のせいか、家族連れというより、幼い子供を連れた若いお母さん同士の姿が目についた。 「たしか駅についたのが八時くらいですけど…いつのまにこんな人が並んでいたんですか」 「2時間も前にきていたのか」 やれやれといった調子で肩をすくめると 「おかしな子だな。どこでも好きな場所に連れて行ってやるつもりだったのに、なぜこんなところに来たかったんだ。さびれかけた遊園地だぞ、ここは」 「だって…ここ、今日で閉園なんですよ。今日を逃したらこれなくなっちゃうんですよ」 速水さんに「行きたいところは」と聞かれて、テレビのローカルニュースで見た今日閉園のこの遊園地の風景を、ふいに思い出したのだった。 「今日は、ラストデーだからって、先着で入園料が全部タダになるんですよ」 「おいおい、まさかそれが目当てで早朝から並んでたんじゃないだろうな。俺が入園料をけちるような男にみえるのか」 「お金持ちの人でも、タダはやっぱり嬉しいもんじゃないですか」 呆れて私を見下ろす顔に、へへへと笑いかける。 「何乗っても全部タダなんですよ、速水さん。すごいと思いませんか?」 「わかった、わかった、もういいからちゃんと並びたまえ。チビちゃん、ほらもう開門だぞ」 速水さんは「さびれかけた遊園地」と言ったけれど、最終日の今日は、どこから来たんだろうと思う人たちであふれていた。きききと、きしむ音をあげてはしりぬける年代物のジェットコースターも、隣接する高層ビルの陰にすっぽりと姿を隠している’大’観覧車にも、長い行列ができていた。 「すごいですね。この遊園地にこれだけの人が集まるなんて」 フライングカーペットの行列に並びながら、私は顔を見あげて――そうしないと横に立つ速水さんの顔がまったく見えないのだ――速水さんに話しかけた。子供たちが走り回る園内では、速水さんのトレンチコート姿は異様に目立っていた。象さんの絵が書かれた壁を背にして立つ、その姿のアンバランスさに可笑しくなってしまう。 「チビちゃん、何をにやにやしているんだ」 速水さんが、こみあげる笑いをがまんしている私をじろりと見下ろした。 「きみは、この遊園地をよく知ってるのか」 「よく知ってるってわけじゃないんですけど。小学校のとき、年に一回バス遠足ってのがあって、4年生はこの遊園地って決まってたんです」 「ああ、俺のときも確かそういうのがあった」 速水さんは、胸ポケットから煙草を取り出したが、私たちの前に並んではしゃいでいる子供たちに目を向けると、軽く苦笑しながら、もう一度煙草の箱を戻した。 「で、そのバス遠足とやらでここにきたのか」 「ええ、すごく楽しみにしていたんですよ」 「だろうな。きみのことだから、前の晩は寝られなかったんだろう」 「何で知ってるんですか」 「ははは…やっぱりそうか」 「あのときは、まだまだ乗り物も新しかったんですよ。なんかすっかり古くなっちゃって」 言った先から、目の前のフライングカーペットが、がりがりと大きな音を立てて急降下する。乗客から叫び声があがった。 「…これはちょっとした’絶叫’マシンだな。いつ機械のネジがはずれるかわからんぞ」 速水さんはにやりと笑った。 「で、きみのことだから、乗れる物にはかたっぱしから乗ったんだろうな」 「ええ…もちろん。と言いたいところなんですが、ひとつだけ乗れなったものがあるんです」 「なんだ」 「メリーゴーランドなんですけど」 「メリーゴーランド?」 「ジェットコースターとかの人気の高い乗り物ばかりに並んでいたら、帰る時間になっちゃったんです」 わくわくするようなスリルを求めていた幼い私には、メリーゴーランドがとても子供っぽく感じられたのは確かだった。あの時は、何とも思わなかったはずなのに、なぜ今ごろになって思い出したのだろうか。 「よし、他の’絶叫’マシンも全部乗ったあとはメリーゴーランドだ」 「え…」 「今日が最後だ、乗り損ねるなよ、チビちゃん」 速水さんのてのひらが、頭のてっぺんにふわりと落ちてきた。 春の陽だまりのような、とても温かい、ぬくもりだった。 「うわ、何だかこれに乗るのってちょっと恥ずかしいですね」 ピンクとブルーに彩られた夢見るような彩色が、目の前に広がっていた。 「乗りたいといったのはきみだぞ。ほら、早く並ばないか。もう閉園の時間だぞ」 速水さんに腕を引っ張られながら、列の最後尾に並ぶ。 小さな遊園地は、最終日を見届けたい近所の人たち――スエットにサンダル履きで電車に乗ってきたとはとても思えない――で次第にあふれかえり、どの乗り物も信じられないほどの長蛇の列ができていた。そのせいで、閉園間際になってようやくここにたどり着いたのだ。 「すごい人ですよね」 「ああ、閉園までに乗れんかもしれんな」 行列に並んでいる人々は、それぞれこの小さな遊園地にまつわる思い出を声高に話し合っていた。 (子供の頃によくきたよ) (はじめて男の子ときたのよ) (懐かしいね) (残念だね) みんな、みんなこのさびれた小さい遊園地に、なにかの思いを持っている。 思い出を抱えている。 傍らのスピーカーから突然大きな声が響き渡る。 「メリーゴーランドをお待ちのみなさん、当遊園地はもうすぐ閉園いたします。次の回転でメリーゴーランドは営業を停止いたします。ご了承ください。長年のご愛顧ありがとうございました」 グレーの作業帽をかぶった切符もぎのおじさんが、マイクを片手に叫んでいた。このおじさんは、一体どれくらいの間、こうやってメリーゴーランドの回転を見てきたんだろう。 「チビちゃん、ほらいくぞ、最後だ」 速水さんの大きな手のひらが、私の手をぎゅっと握った。胸の隅っこを一瞬だけ、かすかな痛みが走りぬけていった。 「は、速水さんも乗るんですか」 メリーゴーランドの白い木馬の前に、速水さんが立っていた。私が乗っている間はてっきり脇で見物するとばかり思っていたので、驚いて声をかける。 「俺が乗っちゃ変か」 メルヘンチックなメリーゴーランドと、速水さんの取り合わせはもちろん「変」なのだけど、速水さんの問いかけにそう答えられなかった。 速水さんの端正な姿が、夕陽に浮かび上がっていた。橙色の陽が、速水さんのやわらかな髪に透けている。白い木馬のたてがみの前で佇むその姿は、何だかおとぎ話の中の美しい王子様のように、思えた。 「いいえ…王子さまみたいです、速水さんが」 夢見るような思いで、そっとつぶやく。 速水さんは、にっこりと笑いながら、私の前に右手を差し出した。 「じゃあ、最後の回転をご一緒いたしましょうか。お姫さま」 白い木馬の背中に、速水さんと二人でまたがる。速水さんの胸の中に、私の背中がすっぽりと包まれている。不思議な安心感。軽快な音楽とともに、木馬が回転をはじめる。木馬の背中が上下に揺れ動く。 木馬が、まわる。 ゆっくりと。ゆっくりと。 「お母さーん、これで最後だよ、見ててねえ」 隣の木馬にまたがった男の子が、両親に向かって歓声をあげながら、手をふった。 最後の回転。男の子にとっては、これが幼い日の思い出になるのだろう。 この子だけじゃない。 今日、この遊園地に集まったたくさんの人たちも、それぞれの思い出を抱えている。思い出の最後の風景を切り取って、その瞬間を自分のものにするために、ここへ来ているのだ。 速水さんの胸に包まれた背中が、温かい。春の日差しのような、ほのかな暖かさが、背中から全身に伝わってくる。 私は首を傾けて、そっと速水さんの顔を見上げた。 「どうしたんだ、チビちゃん」 速水さんが、笑う。 私をみて、優しく笑う。 その笑顔は、冬の淡い夕陽に溶けて、私の心の中にゆっくりと染み込んでいく。 ふいに。 もう、これでいい、と思った。 速水さんの笑顔が誰のものになろうと、私の思いが決して口にだせないものであろうと、もう、かまわない。 何も伝えられなくても、何を望まなくても、いい。 速水さんの今のこの笑顔は、私のものだ。 この瞬間のこの風景は、誰のものでもない、私だけのものだ。 この笑顔を切り取ろう。切り取って、宝物にしよう。 これが、速水さんのくれた贈り物だから。 速水さんがくれた、誕生日のプレゼントだから。 回転木馬が、まわる。 くるくると、思い出をまわしていく。 あの、プラネタリウムの日の、透明な横顔が浮かんでくる。ずっと心のやわらかい場所にすみついた、あの速水さんの横顔。 その顔を、今日の笑顔にそっと置き換える。 いつでも、取り出せるように。 この笑顔をいつでも、取り出せるように。 まわる、まわる。 ゆっくりと。くるくると。 過ぎ行く風景を切り取りながら。 流れる思い出をまわしながら。 最後の回転を、繰り返す―― やがて、回転が次第にゆるやかになり、静かに木馬が止まった。 「ご乗車ありがとうございました。お忘れ物ないようにお降りください。長年のご愛顧ありがとうございました」 スピーカーから流れるおじさんの声が、淡々と響いていく。 「おい、チビちゃん、何をしてるんだ。降りるぞ」 ふと気がつくと、速水さんはすでに木馬から降りていて、ぼんやりしたままの私に手を差し出していた。速水さんの手に支えられて木馬から降りる。 「速水さん、今日はどうもありがとうございました」 私は、速水さんの手に触れたまま、その顔を見つめた。夕方の少し肌寒い風が、速水さんの髪をそっと揺らしていた。 「思い出につきあってくださって、ありがとうございました」 深々と頭を下げる。 「どういたしまして」 速水さんが、笑いながら、軽く会釈を返した。 「こちらこそ、きみと過ごせて楽しかったよ」 「ええ、私も、本当に楽しかったです」 園内に、「蛍の光」のメロディーが流れ出す。人の流れが、出口に向かって動き出す。 「きみの誕生日に、何もプレゼントを用意できなかったがな」 「いいえ、素晴らしいプレゼントをいただきましたから」 「プレゼント?そんなものをした覚えはないぞ」 「エヘヘ、覚えはなくても、もらったんですよ。速水さんに」 不思議そうに首を傾げる速水さんと、出口に向かって歩き始めた。速水さんの手につかまったまま、人の波に乗ってゆっくりと歩いていく。 私は、速水さんの顔を見上げながら、静かに言った。 「速水さん、私この日のことを忘れません。ずっと思い出にしますね」 「チビちゃん、ひとつだけ提案があるんだが」 「なんですか」 ふいに、速水さんの手が、私の手のひらを優しく包み込んだ。 「来年のこの日も、ふたりで過ごさないか」 足が、止まった。 その瞬間、暮れ落ちかけた空を閃光が走り抜ける。ドンドン、という鈍い音が辺りの空気を震わせる。 帰りかけた人々が、ざわめきながら上空を見上げる。 冬の花火だった。 「本日は大勢の方のお運びをいただきまして、誠にありがとうございました。当遊園地への長年のみなさまのご愛顧に感謝いたしまして、最後に祝火を上げさせていただきます。今日の日が、みなさまの思い出に残ることを心から――」 ドン。 ドドン。 スピーカーから流れるおじさんの声が、花火の大きな爆音にかき消された。 黄昏時の空に、淡い花の火が散っていく。どこかに季節のうつろいを感じさせる、晩冬の花びらだ。 「来年は、ちゃんとプレゼントを用意しておくからな、チビちゃん」 花火の下で速水さんが、私を見て、笑った。 暖かい陽だまりのような、笑顔だった。 春が、すぐそこまできていた。 02.24.2004 あとがき ■チカチカさんより YOYOさんこと咲蘭ちゃん、新サイトオープン本当におめでとう! あなたのイラストには今まで一体何回心臓を射抜かれたことでしょう。そして、何回癒されたことでしょう。 ずっと憧れだったあなたさまの新しい世界がこれからこのサイトで繰り広げられるのかと思うと、ワクワクドキドキします。 ヘボバナシで申しわけないですが、サイトオープンのお祝いとして受け取ってくださいませ。甘さが少し足りないですが、そこはご愛嬌ということで(笑) では、これからも妄想仲間(爆)として、仲良くさせてくださいね♪ ■咲蘭からお礼♪ チカチカちゃん、ホントにありがとう。 作品数も少なく寂しい限りのこのサイトに花を添えて下さって本当に嬉しいです。 チカチカちゃん得意分野のせつなさ・儚さ漂う空気感、余韻のあるラスト、どれをとってもとてもとても素敵なお話でした。 こちらこそ、これからも遊んでくださいまし♪ |
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