速水さんは。
 いかなる状況に於いても、
 あたしの人生の中で、揺るぎの無い、絶対的な場所にいる。
 たとえ、彼自身が望まなくても。
 たとえ、もう逢えなくても。
 ただその事実だけが、今のあたしを生かしている。

 速水真澄、その人は、紫のバラの人でもあった。




Concerto

  written by 咲蘭  .


 story 1 : Maya



















 あたしの日常は、主に仕事と睡眠と散歩で成り立っている。
 その合間に、食事をしたり、お風呂に入ったり、掃除や洗濯をしたりする。以前に、あたしの食べる姿を見ては、いかにも楽しげに笑う人がいたけれど、今のあたしにとって、食事は生きるために必要な雑事に過ぎない。生きるために必要な雑事からはどうやっても逃げられないことを悟ったから、もうあまり考えないようにして淡々とこなすことにしている。自分で言うのもなんだけれど、あたしはたった独りでも、まともに生活している。ちゃんとした大人のように。
 仕事は最高だと思う。日常の全てから、あたしを隔離してくれる。日常は自分自身。演じているときは、幸せをすぐそこに感じることができる。
 女優で良かった。
 幸せだと思う。過不足なく。


「…ん。いいね、悪くないね。うん。たいしたもんだ」

「ありがとうございます!」

 滅多に役者を褒めることのない演出家の小澤先生が、顔を紅潮させて言う。稽古場の空気が一気に温かく活気付くのがわかって、あたしも笑顔になる。

「この調子で頼むよ。じゃあ、次は第二場から続けてやるぞ!」

 興奮気味の小澤先生が他の役者に稽古を付け始めると、あたしはタオルを持って稽古場の窓辺の床に直に座り、共演者の演技をじっと見つめた。ひんやりとして気持ちいい。

「北島さんがいると稽古場の雰囲気がよくなるね」

 有吉凌二──有吉さんは、なんの躊躇いもなく隣に同じようにぺたりと座り、ペットボトルのエヴィアン水をごくごくと喉を鳴らして飲み干す。初めて共演する相手役だけれど、すぐに打ち解けて、冗談も交し合うこともできて、とても演じやすい。ずっと小劇場でやっていた役者で、今回初めて大きな劇場に出ると聞いた。そのわりには余計な気負いなどは微塵も見せない。端正な顔の持ち主ながら、根性は据わっているらしい。

「楽しいもの。演じていられる時間が、いちばん…」

 目の前で繰り広げられる稽古をふたりして眺める。

「それって、それ以外の時間は、つまんないってこと?」

 膝を抱えたまま、目線は稽古を追い続ける。

「つまんなくないよ。幸せだよ」

「即答だね」

「考えるまでもないもの」

「そりゃ、いいね。考えるまでもなく幸せなんて、最高だ」

「…そ」

 有吉さんは、あたしの横顔に視線をくれて、喉の奥でくくくっ…と笑い、足を投げ出して壁に寄りかかった。
 有吉さんの声は、低くて滑らかだ。









 eau cafeという近所のカフェは、独りで食事をするにはとてもいいところだ。15席ほどのこじんまりとしたカフェで、独りでいても安らげる。
 女優であるがゆえに人目に晒されることには、いつまでたっても慣れない。でも、ここでは、たった独りで女優が食事をしていても詮索するような視線を感じることはないし、台本を読みながらぽつぽつと口に運べるサンドウイッチのメニューが豊富なのも嬉しい。
 それに口数の少ない30代のマスターが美味しいコーヒーを淹れてくれる。コーヒーは、ただ苦いだけの(あるいは苦くて酸っぱいだけの)飲み物だと思っていたけれど、このカフェで認識を改めた。コーヒーを日常的に、まるで眠気覚ましの麻薬のように飲み続けることはないけれど、このカフェにくると、ブルーマウンテンを淹れてもらう。香り高く、少しばかり切ない味わいのブルーマウンテンを。
 このカフェで座る席は、道路に面した窓際と勝手に決めている。水色に塗られた木の窓枠はかわいくて、ちょっとだけ寂しい。小さな幸福の木。卵色の陶器の鉢。
 コーヒーカップに手を伸ばすと、左手首にさらりとした感触が流れる。
 香り高いブルーマウンテン。あたしは今日も生きている。たぶん明日もあさっても。同じように息をして、なにかを食べて、演じている。この場所で。

 手首に絡まる金色の細い鎖。
 二連で巻かれた、ごく細い華奢な鎖。

 あたしは手首をみつめて身動ぎもしない。動けないのか、動かないのか。
 鎖は、こんなに細いのに、こんなにも頼りないのに、それなのに、あたしをこの場所から前にも後ろにも動かさないほどの威力を持っている。まるで檻のように。
 檻の扉の開け方は知っていたような気もするけれど、今は忘れてしまった。少し考えてみるけれど、とても思い出せそうにない。ついに、あたしは檻の中で扉の開け方について考えることをやめてしまうことにした。
 大丈夫。小さく息を吐く。ここはこんなにも心地良いのだから。

 明るいカフェから、夜に出る。住宅街の夜に浮かぶカフェの黄色い柔らかな灯り。巨匠の絵画に似たような絵があったなと思う。青と黄色の油絵。名前は知らない。描いた人の名前もよく知らない。たぶん、どこかでレプリカでも見たのかもしれない。
 そのまま夜道を散歩する。
 右手に台本。左手首には揺れる金色の華奢な鎖。柔らかな夜風。プルシアンブルーの夜空。童話のような星たち。
 過不足はない。
 あとは部屋に帰って、お風呂に入って、静かに眠ろう。
 朝になって、女優の仮面を被るそのときまで。夢も見ずに。



 速水さんは、どんなときでも、速水さんでいてください。
 速水さんとして、速水さんらしく、幸せになってください。

 それが、あたしにとっても幸せだから。

 だって、速水さんは。
 あたしの、大事な、紫のバラの人、…だから









10.02.2006






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