■□ 夢を想うとき 5 □■
























確かに真澄自身も自分が結婚してしまった頃から、マヤから子供っぽさと明るさが消え、変わりに儚さと僅かな色気が漂い始めたのを感じていた。彼女も誰かに現実に恋をして、子供から女性に成長していくのだと身を切られるような思いでいた。
その相手が里美茂だと知ったときの衝撃。
またしてもあいつにマヤを奪われてしまった。あの男がマヤを女性にしたのだと思った。

それなのに

マヤが俺に恋をしているだと…?

もしその話が本当ならば、俺はなんて馬鹿で間の抜けた男なのだ。彼女にこれ以上嫌われることだけを恐れ、幾度も機会はあったのに、たった一言の告白さえできずに避け続け、流されるままに心ない結婚までしてしまった。
マヤの気持ちが自分にあるとわかったところで、それを手放しで喜べない苦しい場所に立っているのは何故だ。
あまりの情けなさに、笑うしかない。


里美の堂々とした態度。あの言葉こそ、俺がマヤの前で言いたかった言葉。それをなんの躊躇もなくあの男は言う。殺しても飽き足りないほどだ。

もう既にあの里美の言葉は独り歩きを始め、新聞もテレビもネット上でも煩く報じている。何も応えずに姿を消したマヤに様々な憶測が飛び交い、里美の一方的な交際宣言だとか、マヤの数年に渡る恋が実っただとか、既に入籍の日取りまで決まっているらしいなどと、いい加減な情報が氾濫し始めている。

情報流出前だったらいくらでも差し止めることは出来ただろう。だが、公の場で出た言葉は止めようがない。里美は、俺にも止められないあの時を狙って既成事実を作り上げ、マヤとの婚約を復活させようとしている。あの男も必死なのだ。
だが、俺を甘く見られては困る。マスコミには徹底した圧力を掛けた。いずれ数日でこの話題は何事もなかったかのように終息し、他の話題へと世間の関心は移っていくはずだ。


マヤはマンションには帰さずにホテルに向かわせた。事務所の社長として、マスコミから所属女優を守るためにホテルを手配した。

マスコミから守るため? ……………  それは、違う。

本当の理由は、里美に奪われたくないからだ。自分の手の中から、もう奪い取られたくないからだ…。閉じこめて、いったいどうしようというのか。いつまで閉じこめておけるというのか…。


あの場から彼女を強制的に連れ出さなかったら、マヤはなんと応えただろう。あの数年前の時のように、頬を染めて頷いただろうか。
…それとも、助けを求めるように自分に視線をくれただろうか。

振り返った時のあの視線。
あれは何を語っていた?


何杯目かのマッカランをストレートで喉に流しこむ。正気なのか酔っているのかさえ分からない。初老のマスターはカウンターの奥で何も語らず静かにグラスを磨く。


「もう一杯だ…」

マスターは黙って近づくとグラスにマッカランを注ぐ。

「俺は酔っているのかな…。自分が情けなくて、殺したいほど憎い男がいて…。もう訳が分からない。後戻りしてやり直したいことばかりだ…」


屋敷には結婚してから、片手で数えてもまだ余るぐらいしか帰っていない。紫織には指一本触れていない。紫織は、自分に固執する理由を愛する故と信じて疑わない。それが本当の愛なのか疑わない。 もともと紫織は育ちの良いおっとりとした女性だった。先日、英介に呼ばれて久しぶりに屋敷に戻ると、廊下の奥から紫織がこちらを見ていた。恨むでもなく悲しむでもなく、ただ真っ直ぐに立って「おかえりなさい、あなた」と言った。
彼女の人生も充分に狂わせてしまっている。


不幸で愚かな結婚だ。


わかっている…。


殺したいほど憎いのは里美ではない。



…この俺自身だ…




手を休めずにマスターは静かに語る。

「やり直しの効かない人生など無いと私は思っています。諦めてしまったら、それで終わり。まだなんとかなる、やり直せる、違う一歩を踏み出せると、そんな気持ちさえあれば、案外なんとかなるものですよ」

自分や誰かの行動を後から論評するのは簡単なことだ。
あの時こうしていれば…
だが、実際、その時その立場に立ってみなければ分からない感情や理由がある。あの時も…あの時も…。マヤに自分の気持ちを伝えようと思えば伝えられた。だが、その時は伝えることがベストの選択とは思えなかった。今、心が思うままに動いたとして、それがベストな選択だとどうして言えるだろう。また時が経ち自分のしたことを酷評する時がくるのかもしれないではないか。

「…そんなものとは、とても今は思えない…な」

「そんなものですよ、速水様」

マスターは手を止め、真澄の顔を見る。

「まだお若いのに、そんなお顔をなさってはいけませんね。まだ人生の半分も終わっていらっしゃらないのに。残りの人生をどんな顔で過ごすかは、今をどう生きるかにかかっているのですよ。
ご自分にとって何が一番大事なことか、よく考えて、決断なさらなくてはいけない時もあります。…いいお顔をなさらなくては」


微笑むマスターの穏やかな声。
差し出された氷水。
体の芯をきりりとした感覚が走る。


何から逃げているのだ、俺は…。
いったい何から。


同じ間違いはもう繰り返したくない…。

それだけは、わかっている。



「ありがとう。今夜はこれで帰ろう…」

「また、いらしてください。美味しいお酒を美味しいと感じられるように、今度は幸せなお酒をご用意しておきましょう」


軽く手を挙げて店を出る。
夜の空気にも和らいだ春が感じられる。
酔いを覚ますようにタクシーも拾わずに夜の街を一人歩く。



紫の薔薇の人が名乗るのを待ち続け、自らの告白が真澄の負担となることを恐れて結婚をただ見つめるしかできなかったマヤ。
紫の薔薇の人の幻想を守るため影に徹し、光りの中のマヤを守り、大都の運命をその身に背負う真澄。
マヤを幸せにできるのは自分だと信じて、世間の前で堂々と愛を誓う里美。
真澄に向けるものが愛なのか愛によく似た執着なのか疑わず、結婚という脆い形式に縋り続ける紫織。



誰かに悪意があったわけではない。
誰もが誰かを想い、愛情の糸を紡いでいたのに、ただ、少しずつ糸を紡ぐタイミングがずれた。

糸を紡ぐ場所を間違えてしまった。

そしてなにより、自分の決断力と意気地の無さが、何人もの人間を巻き込んで不幸の糸を複雑に絡ませてしまっている…。



“まだなんとかなる、やり直せる、違う一歩を踏み出せると、そんな気持ちさえあれば、きっとなんとかなる”





自分にとって何が一番大事なことか…






マヤ…























03.24.2004








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