■□ 夢を想うとき 3 □■























控え室で空っぽの左の薬指を眺めてマヤは安堵の溜息を吐く。
数週間の短い間だったが、そこに確かに在ったものが無いことは、ほんの少しだけれど違和感がある。だが、それは寂しさではなく、開放感に近いかもしれない。


真澄の結婚は分かっていたことだったが、マヤをどうしようもないほどの衝撃と脱力感が襲った。ろくに食事も喉を通らなくなり栄養ドリンクとサプリメントだけで生きているようなものだった。もともと細かった線はますます細くなり、麗や周りの人間は心配してあれこれ手を尽くすが、マヤはただ小さく微笑んで、大丈夫よと答えるだけだった。

そこに現れた里美茂は、するりとマヤの凍った心に入り込み居場所を作った。もともと嫌いになって別れたわけではない。いろいろな不可抗力で別れることになったのだ。(不可抗力だと考えられるようになった分、マヤは少し大人になった)以前と変わらぬ優しい笑顔と優しさでマヤを包む里美に少しずつ心を許していった。

このままこの優しさに甘えたら楽になれる。自分を愛してくれる人と一緒にいることを幸せだと思えば楽になれる。

プロポーズを受けたとき、その時は本気で里美と結婚しようと決めてエンゲージリングを受け取った。これで自分は真澄の呪縛から解き放たれるのだと、そう信じた。だが、薬指にリングを付けたマヤを覆った感情はそんな単純なものではなかった。


真澄との永遠の別れ。
真澄に恋していた自分への別れ。
里美への深い罪悪感。
幸福感とはかけ離れた世界に自ら飛び込んだ。


だけど、これでいい。

これでいいのだ、と湧き上がる気持ちを無理矢理抑え付け、里美の隣で幸せそうに微笑む自分を肯定し続けてきた。


指輪を外した時の感覚は忘れられない。
真澄に恋する自分を初めて正面から認めてあげられた気がした。


たった一度だけ見せてくれたピアノを弾く姿。

トロイメライの音色。


その情景を思い出しただけで愛おしさに体が震えた。やはり忘れようとしたところで無駄な努力なのだ。それほどまでに愛している。その想いに自分を委ねて生きていくしかない。この気持ちを真澄に伝えることは、きっと迷惑になってしまう。だから、叶わない恋でいい。伝えられない恋でいい。治らない病気のようなものだ。死ぬまでうまくつき合っていくしかない。

だけど…。

“結婚するな…。誰とも結婚なんてするな…”

そんなことを言うから。
一瞬、夢を見てしまう。
ずるいな…。
自分は結婚しちゃったくせに…。
あたしのことを何も知らない子供だと思っている…。
速水さんは、自分が言う言葉が、どのくらいあたしに影響を与えるか全然知らない。たとえ、ほんの戯れだったとしても。
速水さんの方こそなにも知らないし、気が付かない。

治らない病気は、やっぱり少し心臓が痛い…


















「北島さん、そろそろお願いします」

スタッフの声で現実に帰る。
舞台袖にはすでに里美が待っていた。顔を合わせるのは数日前に指輪を返したとき以来だった。里美の出方を伺い挨拶しそびれてしまう。

「行こうか、マヤちゃん」

いつも通りに声を掛けてくれた里美にほっとすると、ふいに手を繋がれる。

「ファンサービスだよ。手を繋いで舞台に出て行ったら会場中すごく盛り上がるから」

「でも…、里美君…」

何でもないことのように里美は言う。
たしかに二人が手を繋いで舞台に現れると、会場は割れんばかりの歓声と嬌声に包まれた。マスコミは色めき立ち、映画のスタッフは囃し立てるように拍手する。里美はにこやかに笑い、マヤは曖昧な顔になる。真澄は客席の一番後ろのドアで腕を組み、舞台の二人を射るように睨む。舞台の上は真澄には手が出せない世界だ。たとえそれが映画の舞台挨拶であろうが、そこに登ることのできる人間だけがその場を作ることができる。
舞台の上の二人は、紛れもなく“恋人”のようだった。


“彼女は、あなたが!…あなたが紫の薔薇の人だと知っていた。知った上で恋しているんですよ!?”


“結局あなたは彼女の紫の薔薇の人への恋心を知っていたのに、何ひとつ応えずに結婚した。だから僕は彼女を諦めない”





試写後の囲み会見では、質問は映画に関することだけと通達は出されていたはずだった。だが、里美とマヤを囲んだ記者からは映画に絡めた振りをして次々と際どい質問が投げかけられていく。


「映画の中ではお二人は素敵な恋人を演じていらっしゃいますが、実際のお二人もかなり仲が良さそうですね?」

「映画でのプロポーズはとてもシンプルな言葉でしたけれど、北島さんはどんなプロポーズを受けたいですか?」


記者の質問に、貼り付けた笑顔で「ええ、そうですね。いいお友達です」「どうかな、考えたこともないですし…」などと言うマヤの言葉を里美が遮る。



「聞きたいのは、もっと核心に触れたことでしょう」



記者がざわめく。マヤが里美を見る。遠巻きに見守る真澄に緊張が走る。素早くマネージャーと数人のボディーガードに指示を出す。






「僕は北島マヤさんを愛しています。僕の恋人は彼女だけです。いつか結婚したいと思っています」



目を見開くマヤ。一斉に向けられるカメラのフラッシュ。記者の騒ぎ立てる声。背中を押すマネージャー。人混みを掻き分ける訓練された男たち。車に押し込む真澄の手。


一瞬、振り向いたマヤと真澄の視線が絡み合う。
その一瞬が永遠になる。














次の瞬間、ドアは閉められ、走り出すエンジン音がなった。

何が起こったのか。一連の出来事にマヤは呆然となる。
里美には確かに指輪を返したはずだった。結婚できないというマヤの言葉に最初は納得しなかったが、根負けしたという風情で理解してくれたはずだった。記者の質問は切り抜けられるものだった。時が経てば別の話題に関心が移っていく程度のものだった。

里美になにがあったのか。



なぜ、結婚などと…



そして





真澄のあの視線は…何を語っていたのだろう…























03.22.2004








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