■□ 夢を想うとき 2 □■























マヤと里美が主演する映画の公開初日の映画館は、一般客とマスコミの熱気で溢れていた。マヤが紅天女として世間を圧巻させた直後の主演映画であり、里美も若手実力派俳優として不動の人気がある。それだけでもこの映画の成功は約束されたようなものだった。公開初日には二人が揃って舞台挨拶するために、この初日を見逃すまいと徹夜組も出るほどだった。
映画館の熱気の原因はそれだけではなかった。
二人は映画の撮影中に急速に親密になっており、今日にでも婚約発表するのではないかと、映画の内容はもとより二人の動向にも大きな注目が集まっていた。まだ若かった二人が過去に交際していたことも噂が加熱する材料となっていた。












「お久しぶりです。速水社長」

控え室の廊下で里美が声を掛ける。
里美は煙草をジャケットのポケットから出し、ガシッとZippoで火を付ける。
視線だけで挨拶し真澄も黙って煙草を出す。
ピィンとDuponの金属音。
煙を吐く音。
灰を灰皿に落とす音。
奇妙な空気。
真澄が、静かに沈黙を破る。

「…先日、北島を見かけた時、たいそうな指輪を付けていたのを見たが、もう婚約したのか…?まさか今日発表なんてことはないだろうね。まだ俺のところにはなにも報告がないのだが」

里美は、真澄の顔に目を遣り、天を仰いで戯けたように答える

「…もう、彼女はそのリングを外しましたよ。僕としてはずっと付けていて欲しかったんですが」

「はずした?なぜ?」

数日前の夜を思い出す。まさか、本当にあの言葉を真に受けて結婚するのをやめたのだろうか。



“速水さんったら…真面目に答えるんだもん。びっくりしちゃった〜…。そっか…紫の薔薇の人はそう思ってるのか、ふふ、参考にしときま〜す”


軽く酔っていたマヤはそう笑い、じゃあ、遅いから帰りますと陽気にタクシーに乗って帰っていった。


「まあ、ようするに振られたんですよ」

「だから、なぜ?」

速水社長、なぜなぜ…と質問ばかりですね、と里美は苦笑する。

「先日、僕のいとこがピアノのリサイタルをしましてね。それに彼女と一緒に行ったんですよ。普通に聴いていましたよ、終わる直前まで。いとこはたくさんの拍手にアンコール曲を弾いて応えましてね。その曲を聴いているとき彼女は変わった。たった一粒だけ真珠のような涙をこぼして。その夜の食事の約束も断って彼女は一人で帰って、そして翌日、突然結婚できないと」

「わからない。なぜ、ピアノを聴いて結婚できないなどと…」

「僕にもさっぱり。とても納得できる話じゃないんで、彼女に詰め寄りましたよ、僕だって。そしたら」

里美は真澄の読みとれない顔を眺めながら続ける。


「紫の薔薇の人が忘れられないと」


真澄の顔が一瞬ひきつる。

「ばかな。紫の薔薇の人など、彼女は会ったことも誰かもわからずに、ただ憧れていただけの人じゃないか。現実に恋だの愛だのといった話じゃないだろう」

「それが、そのアンコールと同じ曲を自分の前でたった一度だけ弾いていたことがあるって言うんですよ。それを思い出してしまったら、封印していた気持ちが溢れて止まらない。そんな気持ちではとても結婚できないと。彼女は紫の薔薇の人に現実に会ったことがあって、話もして、そして恋しているんですよ」

真澄の煙草を持つ手がかすかに震える。



「…アンコールの曲名は?」


「どこかで聴いたことがあるけど曲名まで知らなかったんで、いとこに一応確認したら…」

「…シューマンのトロイメライだと言ってました」





むせかえるほどの薔薇の香り。

姫川邸の白いグランドピアノ。


戯れに動く指。




    “速水さん、ピアノ弾けたんですか?”


 “子供の頃、少しな”


     “この曲を知っているか?”


  “えーと、たしかよくきく…
       学校で習ったはずだけど、えーと…”

   
     “シューマンのトロイメライだ…”


 “今は、これしか弾けない”






「ばかな…そんなはずは…」

ポーカーフェイスは崩れ、拳を握る左手は震える。
明らかな真澄の変化を里美は見逃さない。

「速水社長は紫の薔薇の人がどなたかご存じなんですね…」

「…いや…」

否定する声も震える。はっとして口に手を当てるがその手すら震えている。

「ま…さか…。あなたが…?」

真澄が里美を鋭く睨む。

「これ以上この件を追求するな」

その場を立ち去ろうとするが、里美が真澄の肩を激しく掴み押し止める。

「速水社長…、あなたが紫の薔薇の人…?」

「君には関係ないことだ…」

違う、それは間違いだ。そう威圧してその場を離れるのだ、と心の警鐘が鳴る。長い間、ずっと心に秘めてきたことだ。マヤにすら告白していないことを、こんな男に知られるわけにはいかない。
なぜ、この場を立ち去らないのだ…。
俺は何を言おうとしているのだ…。



「…俺が紫の薔薇の人だったらどうする…?」


周りを慌ただしく動くスタッフ達に聞こえないように、絞り出すような低い声で問う。

「速水社長が本当にそうだとしたら…許せませんね…」

真澄の肩を掴んだまま里美は怒りを含んだ声を出す。

「許せない…?」

「彼女の紫の薔薇の人への恋心を知っていながら、何一つ応えずに結婚したあなたが許せない…」

「彼女の恋心は、彼女の幻想の人物への甘い憧れだったはずだっ!」

思わず大きな声を出し、肩を押さえつける手を振り払う。
周りの人間が驚いて振り向く。
そう思ってきたからこそ、彼女の幻想を壊さないように、憧れを貶めないように影に徹してきたのだ。
怒りと困惑の顔で里美が真澄を責める。

「あなたは本当にそう思っているのですか?彼女の、あの真剣な想いをただの憧れだと片付けてしまうのですか?
彼女は、あなたが!…あなたが紫の薔薇の人だと知っていた。知った上で恋しているんですよ!?」



“本当は本人に聞きたいんだけど、だけど名乗り出てくれないから聞けないでしょ。…だから、速水さんは臨時の代理人”


マヤは紫の薔薇の人が自分だと知っていた…。知っていて…?


“…結婚やめちゃおかな…とか…”



「彼女は言ってましたよ。紫の薔薇の人はぜんぜん手の届かない人だって。だけど、とても忘れられない。自分は一生独りで構わない。それでもいいって。そんなに真剣に想っている彼女に僕は“そんな無駄なことはやめたほうがいい”なんて、軽々しく言えませんでしたよ」

酷く頭が混乱していた。

「僕はずっと不思議に思っていました。紫の薔薇の人が何故マヤちゃんをそんなにも支え続けるのか…。そりゃ、ファンって言ってますけど…、やっぱり、何故かと不思議になりますよ。速水社長が紫の薔薇の人なら、それはやはり女優として価値のある存在だからですか?金持ちの道楽ですか?冗談じゃないっ!例えそんな理由じゃなくたって、結局あなたは彼女の紫の薔薇の人への恋心を知っていたのに、何ひとつ応えずに結婚した」


混乱した真澄の頭の周囲を、里美の言葉の欠片がただ無意味に回る。


「だから僕は彼女を諦めない。覚えておいて下さい、速水社長…いや、紫の薔薇の人」


里美は真澄に挑戦的な発言を残しその場を立ち去る。

残された真澄は、左手で頭を抱える。
煙と共に長い溜息をつき、右手の煙草を強く灰皿に押しつけた。

































03.21.2004








fiction menu   next