■□ もしも あのとき 伝えられたら 4 □■ |
その日、稽古場にマヤ宛ての荷物が届いた。 「あんたに届け物だよ」 受付のおじさんが、管理人室の小さな窓口から差し出したものは。 「紫の薔薇!!あのひとからだっ!紫の薔薇の人!!」 一緒に渡された大きな箱の中にはプロ仕様の化粧ケース。周りに役者が集まってきて、その贈り物に見入っている。 「うわあ、すごい!舞台のメイク道具が一式揃っているじゃない!」 薔薇の花束に添えられた一通のメッセージカード。マヤはその直筆のメッセージがなによりも嬉しかった。 つぎの舞台をめざしてがんばってください。 今度のあなたの舞台がとても楽しみです。 あなたのファンより たった、2行のメッセージに紫の薔薇の人の暖かな気持ちが凝縮されているように感じた。ただ、その気持ちがありがたかった。今日の稽古は心が乱れて演技できず散々の出来だった。酷く落ちこんでいるときに、タイミング良く届く紫の薔薇…。 名もない不思議なあたしのファン。会ったこともないのにいつもどこかであたしを見守っていてくれる…。いつも励ましてくれる…。 「へえ、ずっと君のファンなんだね」 桜小路優が遠慮がちに近づきながら話しかける。 「君がはじめて舞台に立ったときからの…」 「ええ!」 「…きっと、とても君が好きなんだよ…」 「ええ…」 紫の薔薇の甘い香りを抱きしめながら答える。そのとき、マヤは気付く。メッセージカードには、紫の薔薇の香りとは違う香りが僅かに漂っていたことを。メッセージカードを再び取り出す。 …この香り…!? アパートに帰り、麗と遊びに来ていた水無月さやかに紫の薔薇の人のプレゼントを見せた。薔薇を花瓶に生けながら、さりげなく問いかけてみる。 「ねぇ…、紫の薔薇の香りと、そのメッセージカードの香りと違うよねぇ…。麗、わかる?」 麗が双方に鼻を寄せ、くんくん嗅いでみせる。 「うーん、違うような…。こういうのはさやかの方が得意なんだよ」 そう、実は香水集めるのが趣味で…などと言いながら、さやかが注意深く鼻を寄せる。鼻孔に漂う僅かな香り。 「これ…。ホントに少しだけど、薫ってるね。このメッセージカード香り付きのものだったのかなぁ…。それにしては、男モノっぽいんだけど…」 「え?じゃあ、この香りは紫の薔薇の人の香りってことっ??だって、このカードは紫の薔薇の人が直筆でメッセージ書いてくれているんだろう?」 勢い込んで麗が訪ねる。男性なのか女性なのかもわからなかった紫の薔薇の人。 「…あたし、この香りの人…知っている…かも…」 半ば呆然としてマヤは呟く。 そんなことって、あるんだろうか…!? マヤの様子を麗が素早くキャッチする。さやかが疑問符を頭に並べてマヤを見ている。 「で、でも、マヤ。これと同じ香水付けている人も結構いるかも知れないよ、ねえ、さやか」 「うん、…そうだなぁ…、この香水…。ARAMIS LIFE…とか?かなぁ…。これ付けている人も、結構いるだろうね。これからいくと、おじいさん…というより、もっと若い人な気がするなぁ…。でも香水もね、付ける人によって香りが変化するの。瓶に入った香水を体に身につけると、その人特有の香りと混じって、その人独自のものになったりするんだ…。煙草を嗜む人の香りだね、これは」 さやかが疑問符を消さないまま、答えた。 その人独自の香り…。 あたしは今日、それを本人に投げつけた…。 あのとき。 ふたりの王女の舞台に招待しろと、壁まで追い込まれたとき。 公園のボートに無理矢理乗せられたとき。 姫川亜弓のジュリエットを震えながら観ていたとき。 雪の降る中、ひとつの傘で歩いたとき。 マヤは、あの真澄の香りを感じていたことを次々と思い出す。そして、贈られてくる紫の薔薇に添えられたメッセージからも同じ香りがいつもしていたことも。 どうして、今まで気が付かなかったんだろう…。あんまりだ…。これが本当なら、神様は残酷だ…。憎んでさえいれば良かった相手が、真実は感謝するべき人物だったなんて! 『色は紫がいいか?』 真澄の言葉が脳裏に蘇る。この言葉を聞いたとき、真澄がただ自分をからかっただけだと思った。それ以上の理由なんて深く考えられなかった。もしかしたら、あれは真澄の願望だったのだろうか。紫の薔薇を贈っているのは自分であると、マヤに気が付いて欲しかったのか。あの横顔は、そう語っていたのだろうか。 『君を愛している…』 それは、愛していたから…? あの夜、半信半疑で聞いた真澄の言葉が、今、まざまざと具体的な形でマヤの前に現れる。 「…結構、屈折した愛だよな」 さやかが帰った後、台所で洗い物をしながら麗が呟く。 「え?」 手を拭きながら、マヤの前に座り、顔を見ながらゆっくり話し出す。諭すように、あやすように。心の中の絡まった紐をほどくように。 「大都の鬼社長が、紅天女獲得のために月影先生やマヤにいろんな罠を仕掛けて潰そうとしていたように見えるけどさ。実際そういうこともあったけど、それだけじゃないように思わないかい?」 「・・・・」 「マヤの母さんのこと…。あれは確かに酷いと思ったけどさ…、あの後、マヤが立ち直ってここまで来るまでに、大都の鬼社長がしてきたことは?…よく考えりゃ、みーんな、今のあんたに繋がってる」 「…う…ん…」 「鬼社長としての顔と、紫の薔薇の人としての顔…。どっちも速水社長の顔だろ。…いい大人が屈折してるな」 麗は笑う。その笑いには嫌味や嫌悪感はなく、どちらかというと、子供のたわいもない悪戯を見付けた時の笑いに似ていた。 いつも意地悪を言う真澄。分岐点で必ず出てきては嫌味を言い、立ち去る真澄。 自分はその言葉になんか負けまいと、汚い罠なんかに負けまいと流されそうになる気持ちを奮い立たせてここまで来た。 あと一歩、もう少しで亜弓の隣に立つことが出来る。 ここまで来られたのは…。 ひとつひとつの逆境を乗り越えたとき、そのときも必ず真澄はいた。 そして、あの澄んだ瞳で、優しい眼差しで言うのだ。 “よくやったな…チビちゃん…” いつだって、どんなときだって、必ずそこにいた。 自分を見守ってくれていた…。 そんな大事なことに、今まで気が付かないで来たなんて…! いったい真澄はどんな心境で、表の顔と裏の顔を使い分けてきたのだろう…。 マヤは表の顔しか知らずに、真澄に投げつけた言葉の数々を思うと、胸が苦しくなる。顔をひっぱたいたこともあった。母のことでは一方的に責め続けてきた。 ふと、夜ごと見る夢の自らの声が聞こえてくる。 母さんを返してぇぇ…。 …どうして、そんな目をするの… 苦しいから。それを考えるのは苦しいから、あたしは逃げる… 全てをあなたのせいにして あなたのせいにして…!!! 速水さんっ… 「麗…。麗…!!あたしが、あたしが速水さんに二つの顔を作ってしまったのかもしれないっ!母さんのこと。速水さんが何かをする前に、自分が先に母さんのことを捨てていたのにっ、死んでしまった理由を全部…、速水さんに押し付けてしまっ…た…」 喉の奥の固まりが痛い。心臓が痛い。速水さんっ! 「マヤ…!?」 「速水さんが、俺は憎まれることには慣れてるからって。あたしは、その言葉にずっと甘えて、酷いことばかり速水さんに言い続けてきてしまった…」 後悔の涙が溢れる。マヤや周りの人間の非難を一身に浴び、それでも言い訳などせず、ただ黙って真澄は耐えてきた。 「速水さんに会いたい…。ありがとうって伝えたい。そして…、会って謝りたい…」 黒塗りの車。後部座席の女性。真澄の笑顔。社長室での冷ややかな眼差し。 「でも…。速水さん、お見合い…したの」 「なんだって?」 「今日、聞いたの…。あたし、ホントに鈍感だから、本当の速水さんに、今まで全然気が付かなくって…。もう信用しないって叫んで帰ってきちゃった…」 「…あんた…。あんた、感謝だけかい?あんたの気持ちは…」 蘇る。見合いをしたと聞いたときのあの感覚。いまなら分かる…。あれは、喪失感だ…。自分を見守ってきてくれた人が、自分ではない誰かを見つめ始めてしまうという恐怖。嫉妬。 「もう婚約しちゃったのかい?速水社長は」 「…それは、まだだと思うけど…」 「…一度会った方がいいんじゃないか。謝るんでも、ありがとうって言うんでもいいけどさ、あんた、とにかく自分の気持ちを確かめな。速水社長だって、自分の気持ちにケリを付けるために、あんたに告白したんじゃないのかい?マヤも自分の気持ちを確認して、きっちりケリつけておいで」 「そうかもしれないけど…。だけど、会えないよ…。あんな言い方して、きっと、もう、呆れてるよ。…まともに顔、見れない…」 いつものマヤだと麗は思う。自信なさげで下を向いて。 「マヤ、ありがとうって伝えたいんじゃなかったの?」 「…そうなんだけど…」 「じゃあ、行ってきな。でないと、何にも先に進まないよ」 「麗…、ありがと。いつも、ありがと」 「なに言ってんだよ」 「明日、会いに行ってみる…」 「そっか。がんばりな」 クッションを胸に抱き、いつもよりも更に小さくなって目の前に座るこの頼りなげな少女の幸せを、麗はただ祈るしかなかった。 「え?いない?」 「ええ、急に休みたいとおっしゃって…。珍しいのよ。社長がそんなこと言い出すなんて…。まあ、最近全くお休みなさっていなかったしね…」 大都芸能には、困惑した水城がいた。ドアを開け放した社長室に主はおらず、この部屋の色彩だけがモノトーンに変わっているようだった。 「あ…の、じゃあ、ご自宅にいるんでしょうか」 「それが、私も連絡を取りたいんだけど、お屋敷にもプライベートマンションにもいらっしゃらないようでね…。まあ、こちらのことは、何とかするけど…」 「そうですか…。あの、あのお見合いしたお相手の方と一緒とか…?」 「ふふっ…。それはないと思うわよ。マヤちゃん、何か緊急のご用?」 「…そうですね…。緊急…かもしれません」 真澄が消えた。 会社からも、屋敷からも。 街を歩きながら、無意識に真澄を探す。こんなところに居るわけがないと分かっているのに。背の高い男の人。スーツの人。似た声の人。思わず振り返り、確認し、落胆する。 こんなに会いたく思うなんて。声を聞きたくなるなんて。 あんなに嫌いで、憎らしくて堪らなかったのに…。 今はただ、あの声が聞きたい。いつものように嫌味を言われてもいい。笑い声が聞きたい。馬鹿にされてもいい。全部、速水さんの愛情が籠もっていることがわかったから。時々見せる、あの優しい眼差しこそが速水さんの真実だってわかったから…。 早く伝えなければ。何もかもが手遅れになってしまいそうな焦燥感。真澄を見付けるためには、いったい何から始めたらいいのか見当が付かない。水城にすら見付けられていないのだ。 街のスクランブル交差点には、数え切れないほどの人が溢れている。こんなにもたくさんの人々が目の前にいるのに、たった一人の会いたい人だけが、此処には居ない。 交差点の信号が赤から青に変わった。信号待ちの人々が縦横無尽に流れ出す。ざわめきの中、横断歩道の途中まで歩いて、マヤは立ち止まる。 あっ…、もうひとつあった。“速水さん”と繋がるパイプ… 急いで公衆電話に向かいダイヤルを押す。数回のコールで、その人に繋がる。 「北島です…。お久しぶりです…。あの、あたし、速水さんに会いたいんです…」 『速水さん』という言葉に、電話の向こうの人物は全てを悟る。 03.07.2004 |
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