■□ もしも あのとき 伝えられたら 5 □■ |
砂浜に押し寄せる心地よい波の音だけが、真澄の耳に届く。潮の香りが疲れた体と心を癒してくれる。バルコニーの長椅子に横になり、目を閉じる。秋の午後の日差しが目蓋を透かして暖かな色を見せた。こうしていても、浮かんでくるのはマヤの怒りに震えた姿。 どんな思いを抱えて社長室に乗り込んできたのだろう。結局、自分は最後まで憎まれる役と決まっているらしい。きっと騙されたと思ったのだろう。また、何かを企んでいたと思われたのだろう。 自分の気持ちを抑えることは慣れていたはずなのに、なぜか疲れる。これからも死ぬまで、こんなふうに生きていくんだろう。 …これじゃ、死んでいるのと変わらんな… 自嘲気味に笑ってみたところで、何も変わらない。 ふと、潮の香りに混じって甘い香りが鼻孔をくすぐる。 「だれだ…。聖か?」 目を閉じたまま、声を出す。此処に来たことは聖にだけに伝えてあった。 その時、顔に何か柔らかなものが降ってくるのを感じる。目を開けて確かめると。 それは、紫の薔薇の花びらが3枚。 「なっ…」 跳ね起きて振り向くと、そこには、自分の顔を隠すように紫の薔薇の大きな花束を抱えた、小さな愛しい人。 まさか… 「マ…ヤ…なのか?」 「紫の薔薇の人…。今までの感謝を込めて、今日はあたしから薔薇の花を贈るために来ました…」 顔を隠したまま話し出す。 マヤから紫の薔薇を贈られる…。想像もしていなかった場面に真澄は頭の中が真っ白になる。言葉も出ない。 これは…、都合の良い夢なのだろうか…? 「初めて薔薇をいただいた日のことは忘れられません。あの日があったから、あたしはお芝居を続けてくることができました。高校にも通わせて下さってありがとうございます。いつも紫の薔薇を贈って下さるあなたに心から感謝していました。今、紅天女目指して女優を続けていられるのは、あなたのおかげです」 花束を顔から離す。マヤの顔はすでに涙で濡れて、瞳は秋の日差しをいっぱいに受けてきらきらと輝いていた。 「速水さん。あなただったんですね。紫の薔薇の人は…。いつも、あたしを目の敵にして酷いことばかりする人だと思っていました。でも本当は。いつも、あたしを見守って、あたしが間違わない方向に歩いていけるよう導いてくださっていたのは、速水さん、あなただった…」 「マヤ…」 「受け取ってください。紫の薔薇の花束…」 一歩に進み真澄の前に立ち、震える手で花束を差し出す。真澄がゆっくりと腕を伸ばし受け取る。両腕の花束の重さが胸に響いた。 「こんな日が来るとは、思わなかったよ…。驚いた。君には本当に驚かされることばかりだ。ありがとう…。憎まれたままいるしかないと思っていたから…」 「母さんのことは…」 マヤの言いかけた言葉に真澄の心臓がズキリと鳴る。 「あたしが先に母さんを捨ててしまった心の痛みから逃げるために、速水さんに甘えてきてしまったって、今は認められるようになりました…。あの出来事は、速水さんのせいだけじゃない…。ごめんなさい…。あたし、酷いこと言ってばかりいましたね」 「ただ…、母さんのことを乗り越えるには、もう少し時間がかかるかもしれない…。でもこれからは、ただ速水さんを責めるんじゃなくって、…一緒に乗り越えていきたいんです…。一緒に…」 一緒に。 その言葉に真澄は、一生取れないと思われた心臓に突き刺さった後悔という名の楔が少しずつ溶けていくのを感じる。 「あれは俺が一生を掛けて責めを負うべきことだ。だが…、そう言ってくれただけで少し気持ちが楽になった…。ありがとう」 マヤは、ニコリと微笑んでバルコニーの木の柵に両腕を乗せた。波は何度も寄せては返し、同じリズムをどこまでも刻む。真澄は薔薇を長椅子に置き、マヤの隣に立つ。二人の間にあるものは、波の音だけだった。 隣に立っているだけで胸がざわめく。この人がこのまま、あの美しい人と婚約して結婚してしまったら、自分は耐えられるのだろうか…。紫の薔薇がもう贈られることは無くなるだろう。心の支えだった紫の薔薇を失い、そして、こんなにも胸がざわめくほどの真澄をも失ってしまう。 海からの風に乗るように顔をふと横に向ける。端正な横顔。西の空に沈みかけた太陽が真澄の髪で反射して、髪を亜麻色に変えている。そよぐ風が、その髪を揺らし少し乱れた。 マヤの視線を感じ、真澄が優しく視線を落とした。目と目が合う。そのまま、二人とも視線を外すことができなくなる。 どうしよう… あたしは、こんなにも速水さんが好きなんだ… 「…あたし…、速水さんがお見合いしたって聞いて、騙されたと思いました。もう信用できないって思いました…」 「すまなかった…。だが、決して騙したわけでもなく、何かを企んでいたわけでもない…。君を愛しているのは…真実だ」 どこか諦めにも似た笑顔を作りながら言う。 「だが、君を困らせてしまっただけだったな。だから…、あとは自分の運命に逆らわず、生きていくことを選択した…」 「その考えは今でも変わっていないですか?」 「え…?」 「もし…、あたしが、速水さん…を、その…好きだ…としたら…」 耳まで赤くして、一生懸命言葉を繋ぐマヤの様子に、真澄は小さく笑う。 「チビちゃん…。俺が紫の薔薇の人だったから、気を遣ってくれているのか?そんな気遣いは無用だぞ…。もう君に憎まれていないとわかっただけでも、救われた気分なのだから」 「…速水さん…。ホントにあたしのこと好きなんですか?それとも、もう好きじゃなくなりました?」 上目使いで、照れを隠すように少しムッとしてみせながら責めてみる。 好きでなくなるなんて、そんなことがあるわけがない。 好きになったことで、どんなに自分が救われたか分からない。 好きでなくなれたら、どんなに楽に生きられたか分からない。 それでも好きで、たぶん一生その気持ちが変わることはない。 心の内をうまく言葉に出来ないまま、ただマヤの目を見つめることしかできない。どんなに困難な交渉ごとでも見事に裁いてみせる真澄も、マヤの前ではこんな簡単なことすらうまく表現できない。 マヤは真澄の目を真っ直ぐに見つめ返した。 「例えば、気が付くとずっと速水さんのことを考えていたり、顔が見たい、声が聞きたい、逢いたいって思ったり、速水さんが言った何気ない一言を思い出して自分の都合のいいように考えて浮かれてみたり、でもやっぱり違うのかも…って落ち込んでみたり。それから、速水さんが、他の誰かと結婚してしまうかも…って思うだけで息が出来なくなったり…。そういうのって、『好き』っていうのとは…違いますか…?」 「…違わ…ない…」 「あたしがそんなふうに、速水さんを好きって思うことは、もう…迷惑なことですか…?」 返事をするよりも真澄はマヤの腕を掴み、そのまま抱きしめる。 ずっと、こうしたかった。笑顔でいる日も、泣き顔の日も、怒りで震える日も、いつもこうして抱きしめたかった。抱きしめて包み込みたかった。 「君に最初に出会った時から、きっと好きになっていた。会えば会うほどに…。だが、諦めなくてはいけないと思っていた。君がそんな気持ちでいるなんて…。ありきたりの言葉だが…、夢なら醒めないでいて欲しい…」 長い腕と暖かい胸に閉じこめられたマヤは、真澄の香りに泣きそうになる。 コロンと煙草と真澄の溶けた香り…。 「この香りが…教えてくれたんです…」 「え?」 「速水さんを包んでいるこの香りが、紫の薔薇の人だって教えてくれた…」 「そう…か…。思わぬところからばれたりするんだな…」 真澄は笑い、華奢な肩にかかる黒髪に指を入れる。さらさらと髪が指から抜け落ちる。 「あたし、速水さんが紫の薔薇の人だって、気が付かなかったら、もっと自分の気持ちに気が付くのが遅かったと思う…。あたし、鈍感だから…。そしたら、速水さんは、別な人と結婚しちゃって、きっと、もうこんなふうに速水さんの香りに包み込まれることは無かったんだなって思うの…」 「だから、この香りに感謝しなくっちゃ…。あたし、速水さんの香り…好きです。ずっと、こうしていたくなる…」 真澄に抱きしめられ最初は身を固くしたマヤだったが、その香りに癒され柔らかく真澄の背中に腕を回す。その様子に、真澄はますます愛しさが募る。これほどの愛情を誰かに感じたことがあっただろうか。 息がかかるほど近づいた唇で囁くように言う。 「愛してる…」 そのまま唇が重なり、影が重なる。 太陽が山の端に入り、空が西から茜色の見事なグラディーションを描く。 波の音が、今ゆっくりと、二人の時間を刻み始めた。 03.08.2004 あとがき 原作を読んでいると、ときどき「ああ、なぜこの展開にっ!?」と白目になることがあります。それの最大の場面はなんといっても“社務所”ですが、その次ぐらいに、月影先生の失踪があります。なぜ、あの真澄が意を決して告白しようとマヤを強引に呼び出して、デートして、さあ言うぞっていうその時に失踪なんてするんだーーっばかばかっっ!! ・・・真澄には、とりあえずちゃんと告白してほしかったし、水城さんには、真澄のお見合いを告げておきながら「あら、時間だわ」と、さくっと去って欲しくなかった。 そんな、私の勝手な願望を詰め込んだお話でした。 紫の薔薇の人の決め手が香りだけかい…とか、メッセージカードの僅かな香りを嗅ぎ分ける水無月さやかの嗅覚は狼少女並み…などという、ツッコミはどうかご勘弁くださいませ、ははは。でも、ほら、香りって五感の記憶っていうか妙に記憶に残ってるときあるし…(言い訳) ところで、ラストですが、マヤを別荘まで連れてきたのは(当然ですが)聖です。別荘の外から、聖が「おやりなさいませ」とか呟いてたら、ちょっと怖いけど、やっぱり呟いていて欲しい…と思ったりもする。 |
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