■□ もしも あのとき 伝えられたら 3 □■



その日マヤは、芝居の稽古に行く前に、大都芸能本社に立ち寄ろうとしていた。借りたハンカチを真澄に返すために。真澄の顔をまともに見られるわけもなく、ハンカチは水城に託そうと思っていた。なんとなく、名残惜しい気持ちは自分では認めたくなかった。

「…しょうがないじゃない。借りたものは返さなくっちゃ…」

誰に言うともなく呟いてみる。
大都芸能ビルのガラスのエントランス前に、黒塗りの車が停まった。秘書らしき人物が車に走り寄りドアを開ける。降り立ったのは速水真澄。中にいる人物に一言二言話しかけてドアを閉める。その笑顔。女優やタレントに向けるものとは全く異質な笑顔。
マヤの前を黒塗りの車が走り去る。後部座席には、美しい女性が一人座っていた。

マヤは目の前で何が起こったのか理解できず、真澄が去ったエントランスを、ただ突っ立って見つめることしか出来なかった。

「気になって?マヤちゃん」

マヤの背後から聞き覚えのある声。

「あ、水城さん…。こんにちは。あの、気になるって言うか、速水さんがあんな目をして話すなんて珍しいな…って。なんか、車の人、女優さんとも雰囲気違うし…あの…」

もたもたと言い訳ともつかない言葉を並べるマヤに、水城は敢えて無表情で事実を伝える。

「真澄様、お見合いなさったのよ。今の方はそのお相手」

お見合い…?!

速水さんがお見合い!!!

息が止まる。
体ごとどこかへ放り出されてしまったような感覚。今まで当たり前に存在していたものが足元から一気に崩れ去ってしまった感覚。おかしいぐらいに膝が震え、唇から色が消えていく。

あのひとがお見合い…!結婚するかもしれない。あの速水さんが!

「あの…あの、それでもうお決まりなんですか?あのひとと…」

「いいえ、まだよ。でもきっとそうなるでしょうね。会長である御義父様が大乗り気なのよ」

「あの…それで、速水さんはなんて?」

「マヤちゃん?」

小さく震えるマヤの姿を、水城は眼鏡の奥から鋭く捕らえる。

「さあ…。私にも真澄様が何を考えているかはわからないわ。社長に直接伺ってみたら?きっとマヤちゃんになら答えて下さるんじゃないかしら」

心拍数が上がる。体中の血流が逆行しているようだ。眩暈がする…。この気持ちはなに?喪失感?(なぜ喪失感など!)それとも怒り?あの非道で冷血な男は、また自分を陥れようとして、あんなことを言ったのだろうか?あれは嘘?
愛しているなどと言いながら、一方ではあんな美しい人と見合いをする男…。
あれは…よからぬことを企んでいる瞳だっただろうか。
わからない!わからない!!

「マヤちゃん!」

水城が叫んだときには、すでにマヤは受付を突破し、役員専用エレベーターのボタンを押していた。扉が開くまでに水城が追いつき、一緒に箱に乗る。

「マヤちゃん、どうしたの?社長にお会いしたいのなら時間を作ってあげるわ。少し落ち着いて、ね」

水城の言葉に構わず、最上階のフロアに降り立つと迷わず秘書室に乗り込む。社長室は秘書室の奥の扉の向こうにあった。

「ちょっと、この子? あ、水城さん!この子は!?」

慌てふためく秘書たちを尻目に社長室の扉を一気に開ける。水城が他の秘書たちを目で制す。

「チビちゃん…」

扉の向こうには、窓辺に立ってこちらを振り向く真澄の姿があった。








鷹宮紫織との見合い。真澄にとってそれはビジネス以外の何物でもなかった。紫織にとって心地いい言葉を掛けることも、優しく微笑みかけることも、全てビジネスと割り切っているからこそ出来ることだった。今日も、平日の昼という通常ならば仕事に忙殺されるべき時間を、紫織の希望で昼食を共にしてきたところだった。これもビジネスだ。他の仕事と何ら違わない。上質の接待をして相手の機嫌を上手く取り、大きな仕事、利益を獲得する。それが、自分にとっての成功なのだ…。

目蓋を閉じると、あの夜、自分の言葉に身を固くして全てを遮るように目を塞いでいたマヤの姿が目に浮かぶ。愛しているなどと伝えたことが、マヤにどんな影響を与えてしまったのか分からない。だが、はっきりしたことが一つだけある。自分と彼女が結ばれるなどと都合のいい夢は、泡のように儚く消えてしまったということだ。自分に残されている道は、自らの気持ちに二度と開けられない錠を掛け、紫の薔薇の人として影の存在に徹すること。そして、表向きの自分は、かねてから決められていたレールの上を大都グループの後継者として生きていくということ。

紫織の“接待”を終えて、真澄にとって皮肉にも心安らげる社長室に戻り、煙草の煙を細く吐き出す。限りなく空に近い社長室の大きな窓からは、秋の高い青空に、すじ雲が見事な模様を作っていた。

こんなに接待というのは疲れることだったか。たかが、女性一人もてなすだけの簡単な接待ではないか…。自分の心に嘘をつくことなど、今までも数限りなくやってきたことではないか…。

秘書室が騒がしい。理由は二通り考えられる。仕事上なにかトラブルが発生したか、もしくは、…豆台風の襲来だ。まさか、今になって有り得ないと真澄は自らの心を抑え付ける。気持ちのどこかでは期待していたかもしれないが…。
乱暴にドアが開く。

「チビちゃん…」

思いがけず、いや期待通りそこに現れたマヤの姿を認め、真澄は嬉しく思う。先日言葉もなく振られたばかりなのに、姿を見れば嬉しくなってしまうなどと自分でも情けないと思いながらも、この気持ちだけはどうしようもないと心の中で白旗を上げる。それでも極めて冷静な声を出してみせる。

「豆台風のお越しか…。今日はどんなご用かな…」

真澄の冷ややかな眼差しが痛い。どうして、そんなに冷静な顔を向けられるのかと思うだけで、怒りが湧き上がってくる。もう自分でもどうしようもない。

「…あ…あたしだって、わかってないんです…。どうして、こんなところまで来て、あなたに会いに来て、どうして自分が、こんなにぐちゃぐちゃに怒っているのか、全然わからないんですっ!」

震える声で怒りを吐き出すマヤに、真澄は訝しげな顔を返す。

「…でもっ!よくわかったことが一つだけあります!もう、あなたを信用したりしない。どうかお幸せにっ!それだけです!これっ、ありがとうございましたっ!」

小さな袋を真澄に投げつける。

そんなことを言いたかったわけじゃないでしょう、あたし!

心の隙間が囁く声を無視して、マヤは踵を返して社長室を飛び出した。真澄はマヤの言葉の意味を理解できず、呪いを掛けられたようにその場を動けない。

「…先ほど、社長がお車から降りられるご様子、マヤちゃん、じっと見ていらっしゃいましたわ。真澄様、マヤちゃんとの間に何があったのか存じませんけれども…。この場合、追いかけるというのが、常套ではございませんか?」

水城の言葉にはっと我に返るも、真澄は追いかけることなど出来ない。足元に落ちている小さな袋を拾って、中身を取り出す。あの夜マヤに差し出したハンカチ。このハンカチを握りしめて、一層激しくマヤは嗚咽していた。

「いや…。このままでいい…。これ以上何を言っても、あの子を困らせるだけだ…」














03.06.2004








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