■□ もしも あのとき 伝えられたら 2 □■




「おかえり、マヤ。どうだった舞台は?」

その日、マヤがアパートに帰ってきたのは夜11時過ぎ。青木麗とて、マチネを観劇して帰る時間にしては遅すぎるとは思っていた。しかも、帰ってきたマヤの様子がおかしい。 瞳は明らかに涙を含んで真っ赤だったし、舞台の感想を羅列するはずの口は、さっきから何も言葉を発しない。

「…マヤ?何かあったんじゃないのかい?」

「もしかして、チケットを送ってきてくれた人に会えたのかい?」

麗の質問にマヤが激しく反応する。

「…う…ん。速水さん、だった…」

「速水社長かい?」

意外と言えば意外。有り得ると言えば、これほど有り得る人物はいない。麗は妙に納得して、ふんふんと頷いた。

「で、どんな話をしてきて、そんな目してるのさ」

「う…ん…。なんていうか…」

「なにさ」

「…つまり、愛してる、と言われた…」

「誰が?」

「速水さんが」

「誰を?」

「…あたし…を…」

「マヤをっ!…ほほぉ…」

「夜の食事の席で、そう言われた…。今日の速水さん、なんだかいつもと様子が違ってて。舞台観て、プラネタリウム行って、お祭の出店を覗いて、食事して…って、なんだか…デートみたいな一日で…。どうして今日誘ったのかって話になったら…、そう…言われた…。へんだよね?速水さん…」

麗は、マヤの話を自分でもおかしいぐらいに冷静に聞いていた。あの速水真澄という人は、最初に出会った頃からマヤに対してだけは接し方が異なった。表向きは、一見対立する人間として、マヤに辛く当たっていたように思えるが、麗はいつの頃からか漠然とそれだけではない真澄の隠された面に気付いていた。最初に感じたのは、亜弓の一人芝居"ジュリエット"に連れ出した時だったかもしれない。信用できる男なのかもしれないと。マヤに関することで真澄が絡んできた事柄は、確かに全てがプラスに働いたとは思えない。だが、少なくとも今振り返って真澄の存在無くしては現在の女優マヤはないと思う。

彼はいつでもマヤを見ていた。正しくは感じていたというべきか。女優として商品価値のある人間に対する興味からとは、とても思えなかった。マヤの笑い声、怒り声、息使い、いや、存在そのものを体全体をアンテナにして感じているように思えた。速水真澄がマヤを愛している。それは、麗にとって突拍子もない話ではなく、とても素直に納得できる話だった。

「で、あんたはなんて答えたの?」

「なんにも言えなかった…。言えなくて、よく分からないけど…涙が勝手にいっぱい出てきて…。どうしてあんなに泣けたのかな…。どう思う…?麗は…」

「…あんたは、どう思うんだい?」

暖かいココアを入れながら麗は振り向かずに聞く。

「…分からない。だって、速水さんは母さんの敵で、劇団つきかげを潰した張本人で、…つまり、あたしにとって、最も憎むべき敵。速水さんにとってもあたしは目障りな存在なはずで…。」

膝を抱えて、アパートの窓から覗く遠い月を眺める。

「こんな話をしたのも、もしかしたら大嘘で、また何か企んでいるのかもしれない、そうとしか考えられないのに…。でもね、麗。なんかだわからないけど、やっぱり速水さん、嘘を言っているようには見えなかったよ…」

「…ショックだったのかい?」

「それは、もう。だってあの速水さんだよ?」

ふぅ〜っ…とマヤは一つ大きく溜息をつく。夜空の満月は雲に阻まれてぼんやりとした光が見えるだけだ。朧月夜。自分の心も朧月のようだとマヤは思う。考えれば考えるほど混沌として、心の中の真実は雲に隠れて闇に溶けてしまうようだ。

「正直、混乱してる。でもね、なぜか不快感はなくて、…なんていうか、速水さんと話したり過ごしたりする時間って、なんか心地いい…と思うこともあるんだよね…。甘いかな、あたし…。いや、もちろん腹が立つことの方が多いような気もするんだけど」

麗はクスッと小さく笑って、マヤに暖かいココアを差し出す。

「さ、今夜はこれ飲んで、歯を磨いて寝ちまいな。考えたって混乱するだけの時は、一晩ぐっすり眠るのがいいよ。次の朝には自分の心が見えてくることだってあるさ」

「うん…」

手にした大きなマグカップの暖かさが麗の優しさに感じられて、こんな夜に一人じゃなくてよかった、麗と一緒で良かったと心の中で感謝してココアを口にした。








あたしは、必死で家に帰ろうとしている。まわりは知らない家だらけで、みんな暖かい光が漏れているのに、自分の家だけが見つからない。流れて行く家々の奥に、ポツンと明かりの無い小さな家が一軒あった。

あれがあたしの家だ…

母さんっ!母さんっ!帰ってきたよ!
あたし、母さんのところに帰ってきたんだよっ!!

何もない家の中に虚しくあたしの声だけが響く。ドアを次々と開けて、母さんを捜す。最後のドアを開けると、仄かに明るい部屋の中、やや背中を丸くして畳に座り込んでいる人がいた。

母さんっ!!

母さんが振り向いて、ニコリと微笑む

おかえり、マヤ。あんた、がんばっているじゃないか…

懐かしい母さんの声。
こんな親不幸なあたしを誉めてくれるの?きっと会ったら叱られると思っていたのに
ありがとう…。ありがとう…!!
嬉しくて胸がいっぱいになり、泣きながら母さんに抱きつこうとする。

その瞬間。
母さんはそこにはいない。真っ暗な闇。

母さんを返して!人殺し!!
母さんが死んだのは、あなたのせいよっ!!!

怒りと悲しみにまかせて、拳で叩く。
その人の胸を。
何度も、何度も…強く!
その人は、悲しげな瞳であたしを見つめる。何も言わずに…。

悲しいのはあたしなのに!なんで、そんな目であたしを見るの!?
あなたには、あたしの気持ちなんかわかるはずない!
非道で、野蛮で、目的の為ならどんな汚い手段も厭わないあなたなんかに!!

母さんを返してぇぇ…

…どうして、どうして?そんな悲しい目をするの…?
苦しいから。それを考えるのは苦しいから、あたしは逃げる…。
全てをあなたのせいにして

悲しげな瞳のあなたは、最後に告げる。


君を愛している…


キミヲアイシテイル…



アイシテイル…






いつもそこで目が覚める。マヤは起きると汗をびっしょりかいていて、胸に去来する切ない想いをどうしようもなく持て余す。夢の中の真澄は冷血な人間などではなく、ただ深く、悲しみを湛えた目をしていた。

アンナ・カレーニナの舞台の日から、幾日かが過ぎていた。
次の舞台「狼少女」への出演が決まり、芝居のことを考える時間も必要だった。あの日以来真澄とは会っていない。声も聞いていない。時々真澄の言葉を思い出し、心が苦しくなるような、わけのわからない感情に支配される。
真澄は忘れてくれと言ったが、忘れられるわけがない。

あの夜の言葉と、

ハンカチから伝わった真澄の香り…








03.05.2004








fiction menu   next