■□ もしも あのとき 伝えられたら 1 □■


ー 色は紫がいいか? ー

あのとき確かに速水さんはそう言った。
聞き間違えたりしない。

あたしが紫の薔薇の人にとても感謝していることを速水さんは知っている。紫の薔薇の人のためにも立派な女優になりたいと思っていることも知っている。だから、そんなあたしをいつものようにからかう為にあんなことを言ったんだ。
そう思うのに、それしかないのに、なぜか心が納得しない。
心の中にあの台詞が、あのときの横顔が、くすぶっている火種のように取り残された。




 



銀座。
窓から臨む夜景は、どこまでも星の煌めきを散らしている。満天の地上。室内にはドビュッシーのArabespue 1が緩やかに響いている。薄紫のドレスを身に纏ったピアニストの白い指が、魔法のように美しい旋律を奏でる。食事を楽しむ人々のざわめきが穏やかに絡んで流れていた。
そのテーブルにも食後酒が置かれ、穏やかに会話をする時間のはずだった。だが、二人の間にあるものは奇妙な沈黙。北島マヤはまだ一度もグラスを口に運んでいない。食事も何を食べたのかよく覚えていない。
アンナ・カレーニナの舞台。誰がチケットを送ってくれたのかもわからないままマヤは指定された座席に座った。隣に現れたのは速水真澄。予想外の出来事に理由も分からないまま一日を真澄と過ごした。いつもと違う…。そんな違和感とともにマヤは真澄の隣を歩いた。一緒に過ごせば過ごすほどに、いつもの真澄ではないものを感じた。
今日、自分を誘った理由。そして、ときおり真澄の目に宿るやさしい光。自分を見る目の寂しそうな影。なにもかもが、分からないことだらけなのだ。

「俺と一緒ではつまらないか?」

「いえ…!」

激しく首を振って否定する。この沈黙は苦しい。だが言葉が見つからないのだ。何を話すべきなのか。何から聞くべきなのか。そもそも聞いてもいいことなのか。自分は真澄から忌み嫌われ、否定され続けているではないか。これまでも、きっと、これからも。それなのに。

真澄の心境はさらに複雑だ。
義父から見合いを勧められ、ほぼ断れない状況。見合いの相手、鷹宮の家柄は完璧だ。首尾良く結婚できれば大都にとってこれほど有益なことはない。それなのに、気が付けば11歳も年下の彼女のことばかり考えている。しかも誰よりも自分を憎んでいる彼女を。一言告げてしまえばいいではないか。愛していると。だが、たった一言を口にすることが、苦しい。真実を告げたところで何かが変わるのだろうか。彼女が自分を憎んでいることが変わるだろうか。ましてや、この想いを受け入れてくれることなど有り得るだろうか。はっきりと拒絶されたら…。

「今日…、今日君を誘い出したわけは…」

マヤの心臓が一度ぎゅっと高鳴った。

「ただ…君に会いたかった…」

「速水…さん?」

「君を…11歳も年下の君のことを想うと、何も手に付かない。全く自分が信じられない…。どうやら…俺は、君を…」

「はっ…速水さんっ!!」

全く予期せぬ内容が語られようとしている。
有り得ない。そんなことは有り得ない。速水さんは間違いなくあたしを嫌っているし、そして、あたしも間違いなく速水さんが嫌いなのだ。間違いなく…。

青い顔をして、真澄に鋭い視線を送っているマヤの様子に、真澄は吐き出そうとしていた言葉を危うく飲み込む。
軽く溜息を一つこぼす。
たった一言告げるだけでいい、そう思っていたが、それすら許してもらえそうにない。普段、仕事の鬼と言われ、何一つ思う通りにならないことはない自分など、この小さな彼女の前では何の役にも立たない。彼女の拒絶の言葉がなによりも恐ろしいのだ。

「いや…。やめよう。これ以上はもう何も言わない。安心しなさい…」

真澄の瞳に映る虚ろな光にマヤは一瞬呆然とする。
これはいったいなんなのだろう。自分はいったい真澄の何を知っていたのだろう。冷血でしたたかで、大都の成功のためだけに生きている男なのではないのか?今だって、何かを企んでいるだけなのかも知れないではないか。…わからない、わからない…。

答えのでない問題だけが、迷子の子犬のようにぐるぐると頭を巡る。マヤは出会った頃の真澄から、今、目の前に座り窓の外を虚ろに眺めながら手の中のワイングラスをもてあそんでいる真澄までを振り返る。いつだって、攻撃的で威圧的で、マヤを憤慨させ落ち込ませるばかりだった真澄が思い出されるはずだった。だが、脳裏に鮮やかに浮かぶ姿は、ふとした瞬間に見せる包み込むような暖かい眼差し。

「いえ…。続けてください…。あたし…あたし、何がなんだか分からないんです…。速水さんは、あたしが嫌いで、あたしなんて演劇の世界からいなくなってしまえばいいと思っているはずなのに、ときどき…あたしに向ける優しい眼差しは何ですか?…今日、あたしを連れ出した理由はなんですか?」

一旦飲み込んだ言葉を再び口に出すことは、簡単にはいかない。だが、今言わなければ、もう一生話す機会は無くなってしまうかもしれない。

「…君を…愛しているから…と言ったら、驚くだろうか…?」

絞り出すような、低い声。その真澄の視線に嘘は無い。
マヤはその視線を遮るように、ぎゅっと固く目を閉じる。その視線の衝撃を受け止めるには、あまりに無防備。無防備な心臓を守ろうと震える右手で心臓を必死で掴む。真澄の言葉が脳内にこだまする。


アイシテイル…

   アイシテイル?

        アタシヲ?

あたしを、愛しているから?


その様子を真澄はじっと見つめる。
わかっていたことなのだ。告げたところで、何かが変わるわけではないと。ただ、自分のために言いたかっただけなのだ…と、自分を無理矢理納得させようと試みる。自分の心のコントロールは苦手ではないはずだ…と。
そして、マヤから拒絶の言葉が出る前に、自ら幕を閉じる。

「チビちゃん…。忘れてくれ。君にとって、俺は憎むべき相手だ。こんな話、迷惑なだけだろう。聞いてくれただけで感謝している…。今まで通り、憎み続けてくれて構わない」

目蓋を開けたマヤの前には、いつもの真澄がいた。
ぽとっぽとっ…と大粒の涙がマヤの瞳から零れる。涙を流さないように、懸命に目を大きく見開いても、それでも雫が溢れ出す。

なんで、泣いてるの…?あたし…
あたしが、泣くなんておかしいのに…!

「困らせてしまって、悪かった…」

真澄がハンカチを差し出す。受け取ったハンカチから仄かに薫る真澄の香り。コロンと煙草と真澄が溶けた香り…。

何も返事ができない自分への悔しさと、傷ついているはずの真澄の優しい言葉と、真澄を包む香りが、マヤをさらに泣かせた。







03.04.2004








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