第4話 |
彼女の噂がテレビから伝えられたのは彼女の舞台「風と共に去りぬ」の千秋楽から数日経った朝だった。夫は既に出社していた。 朝の騒々しい番組で芸能レポーターが彼女の交際相手について報じていた。相手は真柴聡という直木賞作家で半年前彼女が主演した映画の原作者だった。総じて好意的な論調だが、17歳の年の差を面白おかしく伝えている。過密スケジュールの彼女だが来春4月に2週間ほどのオフが予定されており、そこが結婚のタイミングではないかと穿った予想まで立てられていた。 おかしい。 今まで彼女のスキャンダルは全て夫が握りつぶしてきたはずなのに。例えその噂に真実が欠片ほども含まれていなくても。それなのに何故この件だけ表沙汰になったのか。その作家と本気で付き合っているから、だからこそ夫も見逃さざるを得なかったのだろうか…? 違う。それはおかしい。 私が彼女の舞台を観たのは、つい先週のことではないか。 彼女はいつも通り舞台の上から私を打ちのめした。 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに。 庭の肌寒さを超えて蘭の温室へ入る。 夫は結婚して間もなく速水の屋敷の広い庭の一角に温室を作ってくれた。丹精した様々な品種の蘭が季節を惑わすほどに咲き誇っている。実家から運んだ幾つかの株が数年の間に随分増えた。いつものように枝振りや花びらの様子を一株ごとに丁寧に見て回る。夫はまた休みの日の夕暮れにトロイメライを奏でるだろう。これからも愛情の無い優しさで私に接するのだろう。彼女は夫への愛を秘めながら、別の人と生きていくのだろう。お互いの気配に人知れず神経を注ぎながら。 気付いていないわけがない。 おそらく、あの二人はただ言葉として語っていないだけなのだ。 その真実を。だからこそ夫は彼女の舞台へ足を運ぶのを止めた。 いったい夫は何に対して誠実になろうとしているのだろう。 自分の立場に? 鷹通との契約に? 私に? 彼女への愛情に? その全てに? ふいに、猛烈な苛立ちが私を襲う。 一生。 最期の言葉を交わすその瞬間まで夫は私に歪んだ笑顔しかくれない。彼女が本当に別の人のものになれば、なおさら彼女は夫の中で絶対的な存在となってしまうのだから。 “歪んだ笑顔を愛してる…” 違う、違う、違う…! 私が本当に欲しているのはあの笑顔。 初めて彼女に会った日、1階ロビーのエレベーターが開き彼女と夫がまるで兄弟喧嘩のように屈託無く子供のように口喧嘩をしながら降りてきた。彼女に送る彼の笑顔。言葉ではない。心から湧き上がる愛情を込めた笑顔。 あの笑顔をいつか私に向けてくれることを、私はずっと…ずっと…ずっと…諦めきれずに待っているのに! 彼女が一刻も早く他の誰かを愛し始めることを願ったところで、彼女は夫以外の人を愛さない。彼女も愛情のない優しさをその作家に注ぐつもりなのだろうか。また一人この歪んだ関係に巻き込むつもりなのだろうか。 それは何故!? “本当はどうしたらいいのか、あなたはきっとよく分かっているのに、もうどうにもならないほどに縛られてしまっているのね、きっと…” わかっている…! わかっている…!! 歪みきった関係を望んだのは他でもない…私自身なのだから! あの日、手首に包帯を巻いてまで望んだのは、私なのだから…! 蘭の香りを胸一杯に吸い込む。胸の痛みは治まらない。 自分の心に浮かんでしまったこれからの私の動きを想像してみる。体中の神経が身を刺すかのように痛みを発する。私はそれをやり遂げられるだろうか。耐えられるのだろうか。やり遂げた後に待ち受ける様々な出来事を乗り越えられるだろうか。二度と会えなくなっても私は生きていけるのだろうか。偽りとはいえ穏やかな関係を本当に捨ててしまっていいのだろうか。 一度動き始めてしまったら取り返しの付かないことなのに。 本当に。本当に…?! 眩暈を覚えてその場にしゃがみ込む。 どこからか聞こえてくる旋律。耳の奥でかすかに鳴り響く優しい音。 …あのトロイメライは夫の音なのか…、先生の音なのか…。 さまざまな儚い想いをのせてメロディは静かに流れていく。 “夢は醒めてしまうからつまらない” 私の声。幼かった私の声。 怖いもの知らずで世間知らずで潔い私の声。 潔く夢はつまらないと言えた幼い私を抱き締めたい。 今の私は歪んだ夢にがんじがらめに縛り付けられて、それに抗うことをしない。この夢の呪縛をほどけるのは自分自身だけなのに。 どうか力を…。 水彩画の中で潔く笑っている私から、どうか今の私へ力を…! 「奥様、お呼びになりましたでしょうか…?」 「…出かけるわ…。支度をしてくださるかしら」 「かしこまりました。お召し物はいかがいたしますか?」 「黒いベルベッドのワンピースを…」 今日という日には黒の色が相応しい。 想いを葬り去る日に相応しい黒。 10.16.2004 |
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