第5話 |
私の姿に夫の有能な女性秘書は些か驚きの声を出した。 「奥様、お久しぶりでございます。本日は何か緊急のご用でも…?」 「速水はおります?もちろんお忙しいのは承知しておりますけれど。たった5分で結構ですの。お時間を作っていただけません?」 「…申し訳ございません。あいにく只今社長は会食のため外出中でございます。お戻りまであと一時間ほどございますが、お待ちになりますか?」 「…そう…。水城さん、あなたご存じかしら…。北島マヤさんが今どちらにいらっしゃるか…」 「北島…ですか…?何か…」 冷静な目の奥で何事か警戒しているのが分かる。この秘書は自分の上司と彼女の他を寄せつけない空気を知っている。 「大丈夫よ。…少し話がしたいだけ。あなたの上司を苦しみから解放して差し上げようかと思っているのよ…」 秘書はたっぷり5秒ほど私の顔を眼鏡の奥から見詰めると「お待ちくださいませ」とスケジュールを確認するためパソコンに向かう。 この場所に来るのは久しぶりだった。 結婚前は、何かと理由を付けて私との時間を避ける夫に会うために、度々ここを訪れた。結局結婚したところであの頃と何も変わらない。鷹宮の娘であることなどなんの意味も無い。私は夫となる人へ夫となった人へ変わらず片想いを続けている。お伽噺のように、結婚したら幸せになってENDマークが出るのだと信じていた。信じたかった。けれど結婚しても月日は流れても何一つ変わらない。変わったことを敢えてあげるのならばただ無意味に歳を重ねただけのこと。 「北島は都内でドラマのロケをしています。紫織様…。お一人で行かれるのですか…?」 心配顔の夫の秘書に目を細めて笑ってみせる。 「ええ。少しお邪魔させていただくわね」 「紫織様…」 「なぁに…?」 「本当にそれでよろしいのですか…?」 「……とても胸が痛いわ…。迷っているからじゃないの。どうすべきかはもう分かっているの。ただ…とても怖い。これから私のすることに私自身が耐えられるのか、それが怖いの…」 「…ですが、もうお決めになっていらっしゃるのですね…」 「…ええ、そうね。…一度全部壊れてみるのもいいのかもしれない。温室の蘭のように生きていっても、最期の時まで欲しいものは手に入らないことがよく分かったから…。一度全部壊して…それから…また、考えるわ…」 秋の空にすじ雲が流れるような模様を形作っている。風は少し冷たいけれど快い加減で頬を撫でていく。旧財閥のかつての広大な庭園が今は散策ができる公園として開放されている。樹木や草花が里山を模してごく自然にあり、日本建築と庭園の織りなすその佇まいは見事なものだった。懐かしい鷹宮の屋敷に流れる空気と少し似ている気がする。 撮影が行われている一角を避け少し離れると水音が聞こえた。軽やかなせせらぎに目を遣ると一羽のコサギが足を水に浸し遠くを眺めている。前方からドラマの衣装に身を包んだまま彼女が走ってくるのが見えた。私はベンチに腰掛けたままその姿を見つめる。本当に舞台上の彼女とこの彼女は別人のよう。不思議な人。夫が密やかに愛して止まない人。夫を密やかに真っ直ぐに愛する人。 「ずいぶんお待たせしてしまったみたいで…あの、申し訳ありませんでした…」 「私こそ突然押しかけてきてしまって、ごめんなさいね…。どうしてもマヤさんとお話がしたかったの。お掛けになって。今は、休憩時間?」 ベンチの隣を促すと、彼女は一瞬ためらい、それから衣装の裾を気にしながら隣に腰掛ける。 「今は休憩です。次は一時間後くらいには私のシーンがあるんですけど…。でもその前にマネージャーさんが呼びに来てくれるはずなので…」 「そう…。かわいらしいお衣装ね。鹿鳴館かしら?」 「はい。あの、そうです。えっと来年のお正月に放送されるドラマで…って、紫織さんはテレビドラマなんてご覧にならないですよね…」 とても緊張しているのだろう。何を言いに来たのだろうと心穏やかではいられないはずなのに、それでも一生懸命に言葉を繋ぐ姿がいじらしい。舞台の上とは全くの別人のような話しぶりに胸が凪いでいく。これも彼女の魅力なのだろう。彼女を女性として取るに足らないと思い込もうとしていた私こそ、人間としての魅力に欠ける人なのだと思う。 「拝見しておりますわ…。あなたの出演するドラマも映画も舞台も…。全て拝見いたしましたわ…」 「え…?」 「私…あなたのお姿を拝見するのが、いつの間にかとても楽しみになっておりましたのよ…。拝見するたびに観劇するたびに、どうしようもないぐらい打ち拉がれて途方に暮れるのだけど、だけど…」 「紫織さん…?」 目を瞑る。今ならばまだ間に合う。まだ夫の妻でいられる。 ベルベッドの両肘を掴む。秋風が髪を揺らす。温室の蘭に冷たすぎる風は禁物だけれど、野の花は冬の間は葉を枯らし茎を固くしても、春になれば新芽を育み再び見事に花を咲かす。乗り越えよう。冷たい風を。今、言うべき事を言わなければ、また歪んだ夢に絡め取られていくだけなのだから。 ゆっくりと目蓋を開き、彼女の目を見詰める。 「マヤさん、真柴さんとはお付き合いしていらっしゃるの…?」 彼女は一瞬青ざめ、それから顔を背けながら歪んだ笑顔で微かに頷く。まだ若い年頃の女性が、恋人について問われてこんな反応しかしてみせることができないなんて…。 「あなたの社長はそれについてなんとおっしゃったの?」 「…君が本気ならば…それなら…いい…と…」 彼女の声が震えている。 「それでよろしいの…?…あなたは速水を愛しているのに…?」 私の言葉に彼女ははっとして顔を上げ、激しく首を横に振る。 「いえ…、いいえ…!!…違います。誤解です。それは紫織さんの思い過ごしです…」 本当に舞台を降りてしまえば女優とは思えぬほどの素直な反応。とすれば、彼女が夫に会うときはいつも相当の緊張感を以て対峙していたに違いない。私が夫の心を求めているとき、彼女はただひたすら自分の心を殺していたのだ。 「マヤさんの初恋はいつ…?」 「…あの…」 思いがけない質問に彼女はその真意を図りかねて答えられないでいる。私は小さく笑って勝手に話を続ける。 「私は速水が初恋なのよ。おかしいでしょう?普通はもっと若い頃に初恋をして、歳を重ねると甘酸っぱい記憶になってしまうものなのに。私、ずっと女子だけの学校でしたし、身近に恋の相手などおりませんでしたのよ。親の勧める見合いに何の疑問も持たずに出席して、そこで速水に出会ったわ。そして私はすぐに速水に恋をしたの。恋をすると周りのことなど目に入らなくなってしまう。速水の心さえも。ただ、速水の妻になりたかった。自分の恋を成就させたかった。 …マヤさん、あなたには随分と酷いこともしたわね…。今更…だけれど、謝りますわ…、ごめんなさいね」 「…紫織さん…」 「でもそんなことまでして結婚しても速水の心は手に入らなかった。速水はずっと長い間別のことを求めていたから…。どんなに望んでもあなたに向けるような笑顔を私にくださることは無かった」 大きく息を吸う。 「マヤさん…、速水はずっと長い間、あなただけを愛しているわ。今も変わらずに…」 彼女が言葉もなく小さく震えた。 顔からは表情が消え、ただ信じられないもののように私を見ている。 私の言葉は彼女に届いているだろうか…。 遠くから玉砂利の道をこちらに向かってくる人影がある。 さすがは夫が最も信頼を寄せる有能な秘書。 私はその姿を脳裏に焼き付けるために懸命に瞳を開く。微かに西に向かう日の光を背に受けて急ぎ足で向かってくる人。長身によく似合うイタリアン・シルエットのスーツ姿。髪をかき上げるしなやかな手指。歩く歩幅。彫りの深い顔立ち。眼差し。 私はもうすぐこの夫を失う。 「マヤさん。私、あなたのことが好きですわ。消えて欲しいほどに憎んでもいるけれど、でも、やっぱりあなたのことが好きだわ。…速水の愛する人だからかしら…」 私はそれだけ言うと、呆然と立つ彼女から離れ夫に向かって歩く。一歩、一歩終わりの瞬間に向かって。 “求めているのは彼を所有することじゃない、彼の人生にどう関わったか…” 夫は私の目の前で歩みを止める。その眼差しには戸惑いの色がある。 「紫織さん…」 「真澄様…。あそこに…あなたを愛している人がいます…」 夫が驚きの表情を浮かべる。 愛しています…あなた。心から。 「…そして、あなたの愛している人…ですわね…。どうぞ早く行って差し上げて。他の人のものになってしまう前に」 振り返らずに行こうとする私を、夫は私の手首を一瞬押さえて足を止めさせる。低いけれど良く響く静かな語り口。 「…ありがとう」 私の目を真っ直ぐに見て言う。…やっと私を見てくださったのね。終わりの時になって。穏やかな笑顔で。でも、そんな顔でそんなことを言われても私は喜ばないわ。それが、私の最後のささやかな抵抗。 「ちっとも嬉しくないですわ」 そう言って口の端を少しだけ上げて笑ってみせる。いつも、あなたがしてみせたように。それから、もう一度きりりと少女のように潔く笑ってみせた。 「あのトロイメライを彼女の前で弾いてあげるとよろしいわ」 あとは、前だけを見て玉砂利を踏みしめて歩いた。 潔く、かつての私らしく。 後ろは振り向かずに。 黒のベルベットがゆるやかに風になびく。 あのまま速水の屋敷には戻らずに鷹宮の屋敷に帰ってきた。 鷹宮の庭は幼い頃の思い出のままに夕焼けを映している。 広すぎて果てまで行き着くことができないと信じていたこの庭。でも大人になって果てがあることを知った。それから、この庭の向こうに広い世界があることも。 黄昏の空をやがて音もなく闇が覆い尽くしていく。 闇の到来とともに、救いようのない寂寥のなかに私は投げ出される。夫と彼女を失った喪失感。虚脱感。けれど、それでも心の痛みを抱えながらも、ただひたすら生きていこうとする私がいる。弱さだけで向き合おうとした自分は過去のもの。これからは、私自身の光を求めたいと、そう強く願っている。 今になって初めてわかる。起こったこと全ての台本を書いていたのは私だった。夫のせいではない。彼女のせいでも。ましてや運命という見えない力のせいでもなく。そしてこれからの台本を書くのも私。まだ間に合う。そう信じたい。 きっと明日から私の周りは騒がしくなる。私が決めて私がした行動を巡って様々な出来事が起こる。でも今夜だけは、この心の痛みを抱き締めていたい。ただ静かに愛した抜け殻を愛おしみたい。 “ Tomorrow is another day ” ふとスカーレットの台詞を胸をよぎる。 彼女が意志と柔軟さをもって言った台詞。 そうだ。今日はゆっくりとお風呂に入ろう。お湯に柔らかな光を反射させながら。バスオイルを数滴垂らして。 そして“ dans le rêve”で、温かいヴァン・ショーを頼もう。 躰を芯から温めよう。じんわりと。 それからでいい。 それから、ゆっくりとこれからのことを考えよう。 水彩画の記憶の中で 幼い私が笑いかけてくれたような気がする 10.17.2004 第1話を書き始めたのは、8月。 それから他の作品に手を付けたりしながら、時々テキストファイルを取り出して読んだりはしていましたが、きっちり紫織モードにならないと書けなかったため、なかなか本腰を入れてかけなかったこの作品。 やっと日の目を見ることができて菌無量です。 紫織については、最初はご多分に漏れずマヤマスを邪魔するイヤなお人じゃ…という見解だったのですが。でも、心の何処かで「でも、彼女はそもそも純粋培養的なお嬢さんで、普通に恋をしたのに、その相手があのマスだったがために…(以下略)」なんて思いもあって、いつか紫織の心情を私なりに書いてみたいなぁと思っておりましたのが、こんな形になりました。 彼女はこの後どうしたのでしょうねぇ。 できれば、恋がひとつ終わって、ひとつ成長した紫織になって、どんなかたちでもいいから前向きにしなやかに生きていってほしいもんだ…と思っています。 |
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