第3話 |
秋の夜は果てしなく長い。一人で過ごす秋の夜は殊更長く感じる。 24年ぶりの葛西遥佳先生との再会は、今夜だけは秋の夜の数時間を共に過ごせる人がいる喜びをもたらした。それから、記憶の中のほんの少しの胸の痛みと。 そこは帝国劇場からほど近い場所で、私も時折閑を持て余すマダム達とのランチのために訪れる界隈だったが、先生はするりと細い路地裏へ入り仄かに灯りの灯る扉を開けた。 木製の扉には小さく“ dans le rêve”とあった。 テーブルが3つ置かれただけの小さな空間。あちらこちらに花が飾られ、一見無造作に塗られたかのような白い珪藻土の暖かみのある壁。高い天井。カウンターの奥には大鍋をかき混ぜる男性。ピアノの音色が小さく流れている。ショパンの夜想曲。食事の時間にはまだ早いからだろうか、3つのテーブルには他には客がいなかった。 「お夕食をいただくのには未だ少し早いわね。とりあえずヴァン・ショーなどいかが?」 「ヴァン・ショーは、あの温かい…」 「そう。ホットワインのことよ。今日のような肌寒い日にはとても美味しいわ」 私が頷くと、先生は店の奥にいる男性に声をかけた。 窓の外はやがて夜に向かい、外灯の光に無数の雨の粉が舞っている。 「…何年ぶりかしら…」 「24年ですわ。先生」 私が答えると、先生はまた目を大きく開いて唇の両端をきゅっと上に上げた。幾つになってもコケティッシュな魅力のある人だ。 「…そう…そんなに。そうよね、あんなに小さかった紫織ちゃんが、こんなに素敵な女性になっているんですものね」 私を紫織ちゃんと呼ぶ人は、すぐには思い出せないほどしかいない。おそらくもう随分お会いしていない親戚の伯母ぐらいだろうか。父も母も夫も紫織さんと呼ぶ。学校の頃の友人も。その仄甘い油断した呼び名がせつない。私はいつから水彩画の記憶の住人では無くなったのだろう。 ヴァン・ショーがテーブルに置かれる。深い赤にオレンジが浮かぶカップ。 フルーティーな香りが心地よく広がっていき、温かさが喉を通り体の芯を溶かしていく。温かさは頑なな心も溶かす。こんなにも寒かったのだと。ヴァン・ショーのカップを両手で持ち、手のひらでその温もりをじんわりと包み続けた。 「…先ほどは、おかしなところを見せてしまって申し訳ありませんでした。人前で泣くなんて、まるで小さな子供の頃と変わりませんわね…」 苦笑しながら言うと、「…泣くことが必要な時もあるわ」と先生は目だけでふんわり笑いカップに付いた口紅を親指でそっと拭った。 「先生は今もパリにお住まいですの?」 先生は軽く首を振る。巻き髪が肩で揺れる。 「…結局パリにいたのは1年半ほど。それからウィーン、ベルリン、ミラノ…。放浪癖でもあるのかしら、一番長く住んだのはミラノ。東京に戻ってきたのは3年前よ」 「そうでしたの」 「紫織ちゃんにはパリから手紙を書いたのよね。覚えてる?」 「ええ、もちろん。ずっと忘れられないお手紙ですもの…」 恋して止まない人に想いを伝えるために。それから、あの曲はシューマンのトロイメライだと。聞きたいと思った。伝えられたのか。想いは叶ったのか。 「紫織ちゃんにね、トロイメライを弾いた時言われた言葉が胸に残って疼いてしょうがなかった。私は“心の中にずっと住み続けている人を想って”弾いたと言ったの。そうしたら、あなたは私に“夢は醒めてしまうからつまらない”と言ったわ。遠く離れていても想い続けていれば、いつか再び出会って私と彼は現実に結ばれる時がくるだろうと、どこかで思っていたんだわ。でも、あなたに言われて、遠く離れた距離と長い時間でこの想いが消えていってしまうことが怖くなった。彼が東京からパリに行ってしまって2年近く経っていて、実際、彼の顔がよく思い出せなくなっていった。彼がデッサンするときの視線や、指の動きは鮮明に思い出せたのだけど。…ああ、彼は絵描きなのよ」 一気にそこまで話すと、温かいカップから目線を私に向けて、にっこりと昔と変わらぬ笑顔を見せた。私は一言も聞き逃すまいと耳を傾けていた。 「…ごめんなさい。こんなお話つまらないわね」 「いえ。聞かせてください、先生のお話を。私の記憶の中にも先生のトロイメライが住んでいるんですの。どうしてもこの旋律が蘇ってくることがあって、…そんな時はとても堪らない気分になってしまう。この記憶に繋がるエンディングを知りたいんです、先生…」 先生の想いを込めたトロイメライ。夫のトロイメライ。二人の旋律が同調して、想いまでが同調して螺旋状に私を駆け抜けていく。 「食事を頼みましょう。こちらのオーナーが適当に今日の食材で美味しいものを作ってくださるわ。ワインもお任せでいいかしら」 「ええ、お任せしますわ…」 やがてシャトー・マルゴーがワイングラスに滑るように注がれる。深い紫色の液体を軽く揺らして再会を祝う。やわらかな味わいと精緻なバランス。シャトー・マルゴーは先生のようだと思う。 ーーー 彼がパリに行きたいと言ったとき、私はピアニストとして生きていけるかどうかの瀬戸際にいたの。日本を拠点にして活動できるようにやっと足がかりができたところだった。彼がパリで本格的に絵の勉強をしたいと決心したのは、そうした私の活動にも影響を受けたからだと彼は言ったわ。喜んだのよ。それまで、彼は絵描きとして生きていこうか随分と悩んでいたから、彼がそういう決断をしたことは私にとっても喜ばしい出来事だった。 だけど私は私で必死だったから、何日も何日も考えて出発の一週間前にやっぱりパリには一緒に行けないと告げたのよ。私の言葉に彼は酷く傷付いた顔をしていたわ。けれど翌朝には、“遥佳も元気で”といつもの笑顔をくれた。 それで思ったの。これで終わりになってしまったんだ。 もう彼を求めることは許されないと。 彼がね、好きだったのよ。私の弾くトロイメライを。だから、彼と別れた後に弾くトロイメライは、彼への想いの結晶になった。ピアノに想いを託して現実に彼を求めることを懸命に抑えていたの。 パリに行ってすぐに彼のところへ向かったわ。私は若かったし彼に想いを告げることが人生の最大の目的のような気がしていたのね。彼はカルチェラタンの安いアパルトマンにいて、私の姿に驚いて、それからゆっくりと抱き締めてくれた。ハッピーエンドだと思ったわ。彼を抱き締めて本当に求めていたのは彼だったと心から思い知らされた。 ところがね、彼にはパリに新しい恋人がいた。彼女はヴァイオリン奏者の卵だった。もう2年も離れていたのだから彼のことは責められない。なにしろ別れを決断させたのは私だったし。私の姿に驚いたときの一瞬の戸惑いを私は見逃してしまったのね。それでも私はまた彼が昔と変わらず私を愛してくれると信じていた。 抱き締めてくれた温もりは嘘じゃなかったから。 …けれど、結果的に私は彼とその彼女を苦しめる存在になった。 それから一年と数ヶ月。彼は私と彼女の間で揺れていた。 …なんて言うと、情けない男と思われそうね。それでも愛してた。 彼から離れようと決断したのは嵐の夜だった。その日は朝から雨も風も酷くて。でも私はその嵐を喜んでいた。彼は私の部屋にいて、きっとこの嵐では彼は今夜も私の部屋に泊まっていくだろうとそう思ったから。それなのに彼は帰り支度を始めた。こんな嵐の日に何処へ行くのかと問いつめたら、今日は彼女の初めてのリサイタルの日だと。何があっても行くからと彼女と約束をしていたんですって。誰もが外出を控えてしまうような酷い嵐。きっとリサイタルも中止になるわと言ったのだけれど、それでも“行くと約束したから”と出て行ってしまった。信じられる?濡れ鼠のように馬鹿みたいに一途に行ってしまったのよ。 その後ろ姿を窓から眺めながら、やっと悟ったの。もう止めよう。彼を苦しめるのはもう止めよう。彼が必要なのは私ではなく彼女で、彼女も彼を必要としているんだってやっと私の中の気持ちが納得したのね。 そして、彼に別れを告げてパリを離れた。 「…というわけ。私のトロイメライのお話はそれで終わり。そんな顔しないで。遠い昔の話よ。私はその後もたくさん恋をしたわ。………紫織ちゃん…?」 わかっている…。私だって知っている…。 私だって、もうとっくに…最初から悟っているのに…。 「そう…紫織ちゃんも苦しい恋をしているのね…。大人になると子供の頃には想像も付かなかった辛い想いをすることがあるわ。…そんなときは泣いていいのよ。神様も許してくださるわ」 「…先…生…、私もまた恋することができるかしら…。とても、そんな風には思えない…」 「自分の感情で自分を縛って身動きできないでいるのはとても苦しいことね、紫織ちゃん。本当はどうしたらいいのか、あなたはきっとよく分かっているのに、もうどうにもならないほどに縛られてしまっているのね、きっと…」 “紫織ちゃん…” その優しい響きが私を油断させる。 両頬を涙が幾筋にもなって流れていくのがわかる。 「私はこう思うことにしたの。彼に対する想いを貫こうとか彼を自分のものにしてしまいたいと思わない、求めているのは彼を所有することじゃない、彼の人生にどう関わったかだと、そんなふうに。 私は彼の人生に確かに足跡を残した。それは苦しみもあったと思うけれど、でもパリ行きを決心させたことも、私と愛し合ったことも、あの彼女が本当に必要な人なのだと気付かせたことも、全て私の足跡だわ」 シャトー・マルゴーがゆっくりと口の中で転がって喉を滑っていく。 “彼の人生にどう関わったか…” 私は夫の人生に苦しみの足跡だけを残しているのだろうか… 小さく流れるピアノは いつの間にかトロイメライに変わっていた。 10.15.2004 |
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