ゆめの情景

第2話










深く雲が垂れ込めた肌寒い午後。
帝国劇場の入り口には、華やかな紅いドレスを身に纏った女優の大看板が掲げられていた。きゅっと引き結んだ艶やかな口元。勝ち気な大きな瞳。彼女は見事にスカーレット・オハラになっていた。

夫は紅天女の初演以来彼女の舞台には足を運ばない。大都芸能の女優となったにもかかわらず彼女と夫は生身の言葉を交わさない。二人の間を行き交うのは精巧に作り込まれた偽物の言葉だけ。心乱すもの全てを二人は意図的に排除し、淡々と何もかもがビジネスライクに決定されていく。
…二人は…?
違う。夫も彼女も互いの真実を知らない。心乱すものを排除することは、それぞれが真実を知らないまま自らの考えでしていること。なんと似た二人なのだろう。相手を思い遣る、自らの想いを封じ込める、心の内を密やかに表すそのかたちまでがとても良く似ている。互いの気配だけを感じて夫と彼女は生きている。

私は劇場に行く。私は彼女の舞台は欠かさず観る。
夫の愛する彼女の姿を夫の代わりに私の目に焼き付けるために。
今日もこの歪んだ形が、相も変わらず維持されていることを確認するために。









耳鳴りのような拍手の嵐の中、緞帳がゆっくりと降りて暗闇に客電が灯る。千秋楽の最高の舞台を見終えた客は興奮を引きずったまま席を立ち、この場を後にする。客席に深く身を沈めたまま私は息も出来ずに動けないでいる。彼女の舞台の後はいつもすぐには席を立てない。

諦念。焦燥。思慕。
彼女の果てしなく強い圧倒的な存在感の前で、私は私という存在は余りにも無力なのだと毎回裏切られることなく無情にも突き付けられる。あの眩いほどの生命力を放つ彼女を夫は求め続けている。それは彼女にしか放てない光で、他の誰も…勿論私もそれに変わることはできない。
彼女だけの光。
込み上げてくる塊を喉の奥に押し込む。彼女だけの光なのだから。
彼女の光を総身に浴びて彼女を拒める人間などこの世にいるのかと思う。なぜ、あんな人がいるのだろう。いったい何を以て彼女と抗えばいいと言うのか。ここにいるほかの誰が気付かなくても私には痛いほどにわかる。

彼女が舞台に立つ、彼女が話す、手を差し出す、振り向く、俯く、笑う、黙る、怒る、震える、涙を拭く、抱き合う、叫ぶ、両手を挙げる、回る、目を瞑る、絶望する、泣く、立ち上がる、前を見据える、常に前向きな強さで。

…彼女はそこで出来うる限りの全てを以てただ真摯に夫への愛を叫んでいる。彼女が最も彼女らしく輝く場所で、彼を愛している、自分は生きていると力いっぱいの光を放っているのだ。

「ご気分でもお悪いの…?」

遠い意識の彼方で誰かの声がする。すぅ…っと指の先から血の気が引き、現実に戻されていく。目蓋をぎこちなく開けると左手で強く握り締めていたハンカチがぼやけて見えた。薬指のメレーダイヤをあしらったプラチナのリングも揺れている。視線を上げると女性が一人、一つ離れた席で私を心配そうに覗き込んでいた。私は泣いていた。









女性が席を立とうと視線を横に移したとき、そこに目を固く瞑って手を震わせている私がいた。その尋常ではない姿に、席を立てずに様子を伺っていたという。殆どの客は既に扉を出ていた。

「…なんでもございませんの…。申し訳ありませんでした。どうぞお気になさらずに席をお立ちになって…」

顔を背けてハンカチで涙を拭い女性に向かって薄い笑顔を作り答えると、女性は黙って笑顔を返してきた。
そう、何でもないこと。いつものこと。
彼女の舞台の後はいつも心が悲鳴を上げるほどに痛み、打ち拉がれて泣けてくる。それなのに。…それなのに私は、いつの間にか愛する夫を別な形で真摯に愛し続ける彼女の姿を何故か慕わしく感じてしまっている。一刻も早く他の誰かを愛して欲しいと切に心から願っているはずなのに、毎回舞台上の彼女の強い想いを確認しては愚かにも心の何処かで安堵してしまう。相容れない自分でもおよそ理解できない思いを持て余し、抱えきれずに涙を流す。

「お帰りはお車を?そちらまでお送りしましょうね」

よほど頼りなげに見えたのだろう。
強引ではなくやんわりと促す女性に不快感は覚えず素直に席を立つ。前を歩く女性は、趣味の良いニットに身を包み背筋がピンと伸びた人。年の頃は40代半ばだろうか。この眼差しには覚えがあった。遠い水彩画の中の記憶。

「お迎えのお車があるのかしら?」

劇場の外は薄墨色に染まり、冷たくて細かい雨が音もなく風で舞っていた。

「いえ…」

舞台の終わる時間を運転手には告げていなかった。必要があれば連絡するとだけ言い車は屋敷に帰してある。
胸にざわめきを覚える。この声、この眼差し。桜色の艶やかな爪。

「…あの…、違っていたら申し訳ないのですけれど…。もしかして葛西遥佳先生ではございませんの…?」

女性は傘を広げる手を止めて、不思議そうにこちらを見た。…この目を大きくした表情は間違いない。

「ええ…、そうです…が…。あなたは…?」

「ああ…やはり。…鷹宮…紫織です。今は速水と申しますけれど。あの、ほんの小さな子供の頃少しの間でしたけれど、先生にピアノを教えて頂きました」

「えっ………、まあ…紫織ちゃん…?」

先生は一瞬絶句して、それから信じられないというように巻き髪をふわりと揺らし満面の笑顔になった。私たちは奇跡のような再会を喜び合った。
眼差しも声も華奢な指もあの頃のままで、懐かしさに胸の奥がきゅぅっと締め付けられる。今とは違うあの頃の自分を知っている人。近くに知っている店があるからと誘われ、私たちは夕食を共にすることになった。24年ぶりの再会だった。

















10.14.2004








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