第1話 満月 full moon |
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大都芸能本社32階。 聞こえてくるのは一定のリズムでキーボードを叩く音。 ハードディスクが低く唸る音。 もちろん下のフロアには、定時など有り得ない社員達がまだ働いている時間であり、大都芸能本社ビルは不夜城のように夜景を彩る一端を担っている。 23時。 秘書も役員らも退社し、このフロアでは真澄だけが淡々と書類を眺めキーを叩く。 社長稼業は嫌いではない。 むしろ好きだと言っていい。 人と金と物をまるでチェスの駒のように自分の思うように動かすゲームは面白い。それに伴う責任すら心地良いものだと感じていた。 子供の頃は野球選手になりたかったような気もするし、天文博士にもなりたいと思っていたかも知れない。いつのまにかそれが許されない状況になり、この椅子に座っているが、流されてここまで来たのではなく、自らの意志の作用も大きかったのだと思いたい。だが、その責任は“心地良いもの”だけでは済まされなくなった。 作成していた資料の最後の一文字を打ち込み、enterキーを勢いよく叩く。詰めていた息を大きく吐き出し、天井を見上げた時。 執務机に置かれた電話が鳴った。 外線から直通で入るボタンが赤く点滅している。 この時間に外線が入ることは滅多に無い。まして社長室直通の外線番号はそれほど告知していない。真澄宛の電話は基本的に秘書室に入り転送されることが多い。 …妻…からだろうか。 受話器に伸びる手が一瞬鈍る。呼び出し音は鳴り続ける。 一旦手を握り直し、ボタンを押して受話器を上げた。 「はい。…速水です」 応答がない。 ……悪戯か? 受話器の向こうから遠く外の音が聞こえる。 通り過ぎる車。バイクの排気音。 「もしもし…?」 もう一度言ってみる。 これで応答が無ければ、切ってしまおう。 受話器の奥から短く息を吐く音が漏れる。 瞬間。 胸が弾ける感覚に襲われる。 ーーーーー間違いない。 「…チビちゃん…か…?」 「…あ…の…。あれ?……はい…」 じわじわと受話器をあてた左耳が粟立つ。 簡単に認めてしまうのは不甲斐ないことだが、真澄は自分が満身で受話器の向こうの存在を求めていることをいやというほど自覚している。それに抵抗することは無駄な努力だと知っている。 「どうした…?」 「……どうして…、あたしだってわかったんですか?」 「くくっ…、こんな時間に電話してきて無言でいるようなヤツは君以外に思いつかないな」 「ごめんなさい。…ホントにいるとは思わなかったんです。こんな時間だし。それでちょっと驚いて…。まだお仕事してたんですか?」 「ああ、やってもやっても終わらない仕事なんでね」 胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥える。 「…そっか。社長さんも大変ですね…」 ピィン…と金属音を部屋に響かせ火を付ける。煙をざわめきの止まらない胸に吸い込み、そのざわめきごと細く吐き出す。吐き出された煙は自身の周りを緩く漂う。 「…どうしたんだ…?いるとは思わないのに、なぜ電話を?」 機械の向こうから微かに伝わってくるマヤの気配を逃さないように受話器を強めに耳にあてる。 「……なんでかな…」 「チビちゃん…?」 「…ごめんなさい。お仕事中に電話かけておいて、“なんでかな”じゃ、いくらなんでも失礼ですよね。…もう切ります…!お邪魔しましたっ…」 「待てっ…切るなっ…!」 「………」 「…あの…今は、外にいるのか?」 間の抜けた問いだ。 もう少し気の利いた台詞は出てこないのかと思うが、咄嗟に口をついて出てきた引き留める言葉は、いたく単純でどうでもいい話だった。 「…はい…。外に。夜風がちょっと冷たいかな」 「一人でこんな時間に夜の散歩か…?相変わらず無防備だな」 「…そ…ですね。でも夜は昼の風景とは全然違くて、なんだか夜の方が落ち着く気がします。見えなくてもいいものは暗闇が隠してくれるからかな…」 「……チビちゃんも、難しい話をするんだな」 「…笑ってるんでしょう…。そう言いますけどね、あたしだって結構いろんなこと考えてるんですからね〜」 「ケーキが食べたいとか、チョコパフェが食べたいとか…?」 「もうっ…ほんっとにいつまで経っても、子供扱いですねぇ…。まあ、いいですけどっ」 二人の笑い声が、夜の電波に乗って運ばれていく。 笑いの後には、刹那、愛しさに胸苦しくなる沈黙。 「…風邪…ひくなよ。ずいぶんと夜は冷える」 「…………はい……」 「気を付けて帰るんだぞ…」 「はい…」 温めたい。 守りたい。 たったそれだけのことを 望んでもやれない自分がいる。 「やけに今夜は素直だな」 「…速水さんだって。やけに優しいじゃないですか…」 「そうか…?俺はいつでも優しいつもりだがな」 「よく言う…。…でも、そうですね…」 「…え?」 「……あの…速水さん…」 「…なんだ?」 「夜……時々…電話しても、いいですか…?この番号に。ちょっとだけ話したらすぐ切りますから。5回コールして出なかったら…お仕事中か、もう帰ったんだって思って切りますから…」 思いがけないマヤからの提案。 そこにどんな想いが隠されているのか、いつものマヤの突飛な行動なだけなのか、ただの思い付きなのか、すぐには判断が出来ない。 …それでも。 椅子の背もたれに全身を預け、ゆっくりとぐるりと向きを変えた。 ガラス窓の向こうには、満月。 眼下の偽りの煌めきの上に、それを凌駕するほどの真の満月。 「…毎日…でも構わないぞ」 「え…?」 「毎日でも構わない。思い立ったときにかけてくればいい。大抵この時間は、まだここにいるから…」 「…あの…迷惑…とかじゃないですか…?」 「君と話すと煮詰まっていた仕事の気分転換ができる。俺にとってもメリットがあるさ」 それならば、マヤにとってはいったいどんなメリットがあるというのだろう。 「…そっか…。じゃあ…時々…電話しようかな…」 どこかほっとしたようなマヤの声に少々驚く。 自分に電話するということが、マヤにとってそんなに緊張するほどの事柄とは思えないのに。電話どころか過去に何度も直接ここに押しかけて来ているのだから。それよりも、マヤの方こそ自分を嫌っているだろうに、なぜこんなことを言い出すのかその意図が読み切れない。 「ああ、楽しみにしていよう…」 「………じゃあ、…今日は、そろそろ切ります」 「マヤ…」 「はい?」 「…いや…なんでもない…」 「また…電話します」 「ああ、気を付けて帰るんだぞ…」 「はい…、おやすみなさい…」 pu…tuーtuーtuー 通話の途切れた受話器を握り締め、真澄は夜空を仰ぐ。 心を惑わす満月。 まるで水面に投げ込まれた小さな石のように たった一本の電話が、凪いでいたはずの心の水面に 放射状の波を作っていく。揺らいでいく。 冴え冴えとした冬の満月が静かな光を放つ夜。 その波はゆっくりと、 確実に 心を乱していく。 01.13.2005 |
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