■□ 夢を想うとき 8 □■
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真澄の指にある長い煙草から、ゆらゆらと細い煙が真っ直ぐ上に登って夜空に溶けていく。風が止まった。まるでこの公園の時間だけが止まってしまったかのように、静かな空気に包まれていた。 横を向いて煙を細く吐き出すと、淡々と語り始める。 「その男は、子供の頃から自分の感情を抑えて、いつか復讐を果たすためだけに生きていた。人を愛することも、何かに夢中になることも記憶の彼方に消されてしまっていた。 そんな時、目の前に現れた少女は、驚くほどの情熱を掛けて演技することに挑んでいて、舞台の上で信じられないほどの光りを放っていた。そんな情熱を燃やせることが、眩しくて、そして羨ましかった。自分が忘れていた何かを刺激されたように思った」 「…気が付いたら、その少女に紫の薔薇の花束を贈っていた」 話し始めた真澄を見て、マヤはまるで夢の中にいる心地になる。真澄が紫の薔薇の人について語り出している。何度と無く夢の中で想像して再生してきたその告白の場面を。一字一句聞き逃すまいと相づちも打てずに必死に耳を傾ける。 「べつに最初から匿名で贈ろうと思ったわけじゃない。最初は偶然だった。だが、名乗れなくなった。その少女からみたら、そいつは憎まれて当然の男だったからな。そいつはその少女が、より大きな光りを放つ為なら、どんなことでもしてあげたいと思っていた。下手な画策もした。それが裏目に出て、どんなに償っても償い切れないほどの過ちを犯した…。少女を深く傷つけた。もう、きっと何があっても許されることはないと思った。…このまま恨まれ続けていく覚悟をした」 真澄の顔は穏やかだった。 全てを語るつもりでいる。 今まで、ずっとずっと待ち続けたその時が、今なんだ…。 「それでも、紫の薔薇はずっと贈り続けていた。紫の薔薇の人として、少女を励ましていけることに喜びを感じていたから。だが…だんだんと本当の自分と紫の薔薇の人とのギャップを苦しく感じるようになった」 「…なぜだと思う…?」 「え、…そこで質問が入るんですか…?あたしに答えを言わせるの…?その人の気持ちがわかったら苦労しません。速水さん、やっぱりずるい」 少し膨れて上目遣いで見るマヤを、真澄は優しく受け止める。 「そうだな、ずるいな。……答えは…」 「そいつは彼女を愛してた」 一瞬にしてマヤの息が止まる。 震える唇でその言葉を繰り返す。 「愛…してた…?」 「ああ、とても愛していた」 やっぱり夢なのかもしれない…。 紫の薔薇の人から告白は、夢…。 こんな都合のいい展開…ありえない… 「だが、彼女の紫の薔薇の人への幻想と憧れを思うと、自分がその正体だとは言えなかった。彼女が誰よりも憎んで恨んでいる相手こそ、実は紫の薔薇の人だったなどと知ったら、きっともっと傷つけると思ったからだ」 「いや、それだけじゃないな…。幻想を壊すのが恐かった。信頼を裏切るのが恐かった…。そいつは、彼女に関することには、とても臆病だった…」 「そんな…」 「だから、そいつは愚かな選択をした。一生、紫の薔薇の人として影に徹し、彼女を支えていくこと。そして、表の自分は会社の将来のために心ない結婚をすること…」 「速水…さ…ん…」 真澄は穏やかな笑みを絶やさない。 「それが、今までの俺だ…」 「君を、愛している…」 ブランコの鎖を握る手が震える。大きな瞳から涙が溢れてくる。たった今聞いた言葉は本当に現実なのだろうか…。目が覚めると儚く消えてしまう幻の中で、何度この言葉を聞いただろう。 真澄はマヤの側に来てかがみ込み、長い指でマヤの頬の涙を拭う。 「トロイメライ…、覚えていてくれたんだな…。ほんの小さな思い出なのに…、君の中にも残っていてくれた…」 「…忘れられるわけ…ない…。速水さんの言った言葉、してくれたこと、ぜんぶ…覚えてる…。今のあたしがいるのは、速水さんがいてくれたから…。とても…感謝して…る…。それから…」 湧き上がる涙に上手くしゃべれない。瞬きをする度に涙が頬を伝うのがわかる。でも、今、言いたい…。 「あたしも、速水さんが…好き………、好き……」 「ああ、知ってる…」 にっこり笑って真澄が応える。 諦めていた恋い焦がれている人から、この世の中にありふれるものの中で一番聞きたかったその言葉。 真澄の胸を覆ってきた諦めや迷いの靄が消え、変わりに優しい未来への光りが灯る。 「君の口から、その言葉が聞きたかった…。その言葉さえあれば、俺は何でも出来る…」 ゆっくりとマヤを立たせ、ゆっくりと抱き寄せる。その大きな手で何度も髪を撫でる。自分の体にすっぽりと収まってしまう華奢な体を感じて真澄は小さな感動を覚える。こうして抱き締めるまでに、なんと遠い回り道をしてしまったのだろう。 「速水さんったら…やっぱりずるいよ…。トロイメライのことも、あたしの気持ちも、何にも知らないと思ってたのに…」 「君のことなら、何でも知ってる…。…と言いたいところだが」 マヤの顔を見ながら、肩をすくめて言う。 「俺の次に、君の幸せを願っている男から、思いがけず教えてもらってしまったんだ」 「俺の次って…、あ……、里美君…」 “…知ってしまったんだ 紫の薔薇の人がいったい誰だったのか…” “君が幸せになるように祈ってる… 負け惜しみじゃないよ ホントに…、そう願ってる…” 「里美君ったら…」 里美の優しさを思い、ただただ、心から感謝する。 里美がいなければ、とっくに自分は壊れていたかもしれない…。 今、こうして真澄の腕の中にいる幸せをいつか里美に伝えたい。 「君と並んでいる姿を見ているときは、こんな憎らしい男はいないと思っていたが、今となっては、感謝しなくちゃならんな」 「憎らしい男って…、速水さん、そんなこと思ってたの…!?」 「そうだ。たとえ仕事でもプライベートでも、なんの躊躇いもなく君の側にいられる全ての男を憎いと思っていたよ」 「信じられない…。速水さんが、そんなこと思うなんて…。しかも、こんなこと言うなんて…」 顔を赤らめながら驚いているマヤを、真澄は満足げに見つめる。くだらない見栄を張らずに想いを伝えられることを楽しんでいる自分がいる。 「俺は、そういう男なんだ。呆れたか…?」 「え、…ううん…、…えっと…嬉しい…」 笑いながら視線が合う。 そのまま、静かに唇が重なる。 優しい口づけ。 最愛の人の唇。全身に痺れるような感覚。 「…どうしよう…。速水さんのくちびる……。柔ら…かい…」 真澄にしがみつきながら小さな溜息と共に漏らしたマヤの言葉に、真澄は堪らずもう一度もっと深い口づけを与える。 指の先まで痺れるキス。 いつか、こんな場面が自分にも訪れるのだとは思っていた。 その相手が真澄だったらどんなにいいかと夢見ていた。 これは現実…? これは夢…? 眩暈のような幸福感に足の力が抜けていく。 ゆっくりと唇を離すと、ふらつくマヤをしっかりと抱き締める。 「だめだ…。これ以上こうしていたら、君を無事に帰す自信が無い」 「…無事って…」 抱き締め合う心地よさと幸福感と快感に、とても離れられなくなっている。いままで離れていたことが嘘のように、こうしていることが自然に思える。 「今はまだ、俺には君を迎える資格がない。…これから、少し時間はかかるかもしれないが、自分自身の周りを整理してくる。本当は、きちんと整理してから、君に告白すべきだったのかもしれないが、君に俺の気持ちを伝えることから始めようと思った。だから、もう少しだけ待っていてほしい…。必ず…、迎えにくる」 真澄は結婚している。それは動かせない事実。 だけど、待っていてほしいと言ってくれる。 必ず、迎えにくると言ってくれる。 それだけでも、なんて幸せなことなんだろう…。 マヤの目を真っ直ぐに見て話す真澄に、マヤもその揺らぎない真澄の目を見て応える。 この目が好き。鋭くて涼しげで、時に誰よりも優しいその眼差しが好き。今は、他の誰でもなく自分にその眼差しを向けてくれている…。 「…それなら…もう一度…、夢じゃない証拠に、もう一度だけ強く抱き締めてください…」 「ああ…」 なくせないもの、離せないもの、守りたいもの。 それはこの腕の中にいるマヤ以外にはありえない。 一度覚悟を決めたら、あとは自分には絶対に出来ると信じて、立ちはだかる何枚もの大きな壁に向かっていくしかない。 散々傷つけてきた紫織を更に傷つけることになるだろう。鷹宮家は威信を賭けて阻止してくるだろう。義父を納得させるのは至難の業だろう。世間は好奇の目を向けてくるだろう。 それら全てからマヤを守り、必ず解決してみせる。 必ず、マヤと共に生きる道を作る。 「…待ってます。それが、速水さんにとっても幸せなことなら…。いつまでだって待てます…」 「…ありがとう、絶対に正々堂々と君と歩けるようにしてみせる…」 その想いを込めて、今は、しっかりと自分の体にマヤを包み込む。 抱き締めるその腕を離す自信が無くなる直前、真澄はわざと戯けた声を出す。 「ところでアイス、すっかり溶けちゃったんじゃないか…?」 「あぁぁぁ〜っっっ…。奮発してハーゲンダッツ買ったのにぃ…」 ぴょんっと真澄から離れると袋の中身を恨めしそうに見る。 堪らず、真澄は笑い出す。 「くっくっくっく…俺もどうやら、甘いモノと比べられたら完敗らしい」 「あ、ご、ごめんなさい!でも、ホントに奮発したんだから〜っ。だって、リッチミルク味ですよ?」 「何味だって、値段は変わらないだろうが。ハーゲンダッツぐらい、いくらでも買ってやる。腹痛をおこさん程度にな」 「んも〜〜速水さんっ、この期に及んで子供扱いするんだからっ」 そうやって、ムキになるところは相変わらず子供だな… 思った言葉は口には出さず、尖らせた唇を素早く奪う。 「俺は、子供にはこんな真似はしないよ… 愛してる女性にだけするんだ…」 春の柔らかい夜風が戻ってきた。 地面に降り積もった花びらが、ふわふわといつまでも踊っている。 “まだなんとかなる、やり直せる、違う一歩を踏み出せると、そんな気持ちさえあれば、案外なんとかなるものですよ” なんとかなる…。必ずなんとかしてみせる…。 この柔らかい風が、冷たい冬の風になる前に この世で一番愛しい人を 心ゆくまで抱き締めるために 半年後。 大都芸能社長夫妻・離婚の記事が新聞に掲載される。 「なんだ…。あの人だって、結局マヤちゃんを愛してたんじゃないか…。ったく、遠回りな人だなぁ…」 「里美さん、カメリハお願いしまーすっ!」 「今、行きます」 新聞を楽屋のテーブルに軽く放り投げ小さく微笑むと、里美は足取りも軽く楽屋を出て行った。 03.27.2004 (言い訳ともいう) お話の最後に里美君の動向を書いてしまうぐらい里美君への肩入れっぷりの激しいお話でした。よっぽど里美君とのハッピーエンドの方がいいんじゃないかと思ったほどでした。(おいおい) そーじゃないだろーーーーっっ!!…と自分にツッコミを入れて、なんとか真澄様とのハッピーエンドに持ち込みました。ああ、よかった。真澄様を愛しているんですもの…。やっぱり、マヤちゃんには真澄様と幸せになってほしいし。 掲示板で、紫織と里美が手を組むのか?的な予測がありましたけど、確かに私もその展開、脳内で妄想が広がりました。けど、今回は誰にも悪事を働いてほしくなくて、手を組ませる展開はボツにしました。「誰も悪くないけれど、絡まり合う人間模様」のようなものが書ければいいなと思ってて、みんなが誰かを想っている気持ちをだらだらと書いてみました。(ホントにだらだらだった…) で、紫織はあれで放置かい?…と自分でもそう思うのですが、せっかく気持ちの通じ合った二人の後ろに泥沼の戦いを書くと、更に長くなりそうなので、すっぱり切りました。 (その辺が重要な気もするのですが、今回は二人が幸せな顔になることを最優先) 元はいいお嬢さんだったのですから、若干危ない紫織さんも、きっと最後は美しくお別れしたことと思います(いい加減) いつか、番外編として、離婚に至るまでを書いてみてもいいかな、と思いつつ、いやいや誰がそれを読みたがるんだと(笑)。 こんなエセ黒背景話に最後の最後までお付き合い下さったミナサマ…。 感謝の雨あられでございます。 咲蘭から、精一杯の抱擁を。逃しませんわよっ! むぎゅ〜〜〜〜っっ!!!!! それにしても、里美君…。 また、いつか書いてしまいそうだ…。 |
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