試演本番直前の通し稽古が終わると、マヤは内掛姿のまま、舞台袖から細い階段を駆け下り楽屋廊下からロビーまで一気に走り抜けた。明るい陽が差し込むロビーの一角で、たったひとりで紫煙をくゆらせる人。目を細めて、まるで見えない遠くをみつめているかのように。 「……速水さん!」 真澄はゆっくりと振り向くと、一瞬目を見開き、それから静かに口元に笑みをたたえた。 「これは紅天女さまのご登場か。しかし、紅天女ともあろうお方が、息を切らして走るのはどうかと思うがな」 そう言われて、マヤは自分が肩で息をしていることに気づき、ばつが悪そうに大きく息を吸って呼吸を整えた。だって走らずにはいられなかったのだ。真澄があの席に座っていたから。関係者だけがちらほらと座る通し稽古の客席。今日の試演本番のために、紫のバラの人へ贈った中央前寄りのこの劇場で一番良い席に、速水真澄が座っていたのだから。 「ちびちゃん、そんなふうに睨みつけているだけでは、君の用件は伝わらないぞ。さすがの俺もきみの心は読めないからな」 揶揄しているかのような軽い口調ながら真澄の眼差しは深くとても静かで、マヤは真澄に告げたいことや、言ってやりたいことがたくさんあったはずなのに、マヤの中にあらゆる言い訳がつぎつぎに浮かんで、結局なにも言えなくなってしまう。 たとえば、あの席に座ったのはほんの偶然で、真澄が紫のバラの人だと認めてくれたわけではないのだとか、この人はこんなに大人なのだから、いつまでも子どものような自分を相手にするわけがないとか、この人と自分は住む世界が違うんだとか、この人が自分にかまうのは紅天女が欲しいだけなのだとか、そもそもこの人には何もかもが釣り合った婚約者がいるのだとか。 真澄は、ふっと小さく息を漏らすように笑う。きっと、睨みつけるだけで何も言い出さない自分を、いい加減呆れているのだろうとマヤは思う。 劇場のロビー。日差しの中で沈殿した空気。紅天女の美しい内掛。仕立ての良いスーツを着こなし完璧な姿で立つ真澄のオーラ。逆光。この映像は、たぶん死ぬまで忘れないとマヤは思う。 マヤが下唇を噛む。真澄の瞳がやさしく歪む。ああ、この人はこんな表情もするのだと、マヤはこの瞳も忘れないでおこうと思う。 「……あの席に、どうして座ったんですか?」 「あの席?」 「この劇場で一番いい席です。あたしが、紫のバラの人に贈ったチケットの席……」 真澄は小刻みに震えるマヤの手を見遣り、唇を引き結ぶ。自分があの席に座ったことに気づいたマヤは、どれほど嫌な思いをしたことだろうと真澄は、後悔の念を揉み消すように煙草を灰皿にぎゅっと押し付けた。陽射しの中で最後の煙がゆらめく。 「それは知らずに失礼した。だが、今は通し稽古だったのだから、誰が座っても許されるはずだがな」 「……それは……もちろん、そうですけど」 「安心しなさい。本番は違う席に座る予定だ」 真澄はまるで機械のように感情の籠もらせない声で言う。できることなら、北島マヤの紅天女の本番で、紫のバラの人のために用意された席に座りたかった。だが、それが許される状況じゃないことぐらい、知りすぎるほど知っているから、せめて通し稽古で、まるで何も知らないことにして、その席に座ったのだ。何気なく。 紫のバラの人のために用意されたその席は、劇場中で一番、舞台の空気を伝わってくる場所だった。まるで紅天女が語りかけているのは自分なのではないかと錯覚してしまうほどに。 「……本当に、それだけなんですか?」 「何が言いたい?」 マヤは内掛けの袖をぎゅっと握り、真澄から視線を外さない努力をする。 「あの席に座ったのは単なる偶然ですか?ほかに理由は無いんですか?」 必死な顔で訊ねるマヤの、その真意を読み取れずに真澄は不可解な表情を返すほかない。 「……いったいどんな理由をお望みなんだ?ちびちゃん、きみは」 「どんなって!」 マヤは思わず言ってしまいそうになる言葉を飲み込んで、俯いて内掛けの裾を睨みつける。真澄に、自分こそが紫のバラの人だと、ただ名乗って欲しいだけなのに。たったそれだけなのに。それはなぜか、どうしても叶わない。マヤの瞳に行き止まりのかなしさが仄かに浮かぶ。 だから、それなら、せめて……。 「座ってください……」 「……なに?」 俯いていたマヤが顔をあげて一歩進んで真澄に近づき、その腕を掴んだ。 「座ってください。本番でも、あの席に」 「……なっ」 真澄の不可解な表情はますます深くなる。 「何を言い出すんだ?あそこはきみが紫のバラの人のために用意した席だと、たった今言ったばかりだろう」 「言いました。でも、座って欲しいんです……」 「……それに、本番にはその人が来るかも、しれないじゃないか……」 途端にマヤの大きな瞳が、込み上げるたくさんの感情を支えきれずに歪んだ。その表情。真澄は、次の言葉を繋げられずに息をのむ。 「……速水さん、それ、本気で言っているんですか?」 「…………」 「あなたは、そんなこと本気で信じているわけがないんです。だから、速水さん。あなたが、あの席に座ってください……」 マヤが掴んだ腕が、びりびりと熱を帯びて熱い。怒っているようにも、むしろ悲しんでいるようにすら見えるマヤの、まるで懇願するような、強い口調。 「せめて、あたしにとって特別なあの席には、速水さん、あなたに座ってほしい。ただ座って、あの席から紅天女を観てくれるだけでいいですから……」 ふたりの間に沈黙が落ちた。 マヤは真澄の腕を掴んだまま下唇を噛み締めて真澄を見上げ、真澄は言葉も無く目の前のマヤを見つめる。午後の空気。莫迦みたいに明るい劇場ロビー。これから始まる亜弓の通し稽古の客席に、足早に入っていく関係者たち。 もしかしたら、マヤは気づいているのかもしれなかった。紫のバラの人の本当の姿を。少なくとも、紫のバラの人が、今日の本番にあの席に座るつもりが無いことをマヤは痛々しいほどに知っているのだ。 「マヤ」 真澄の低音の声が、静かにマヤの名を呼ぶ。 「あの席から、君の紅天女を観るだけでいいのか……?」 そんなわけがない、とマヤは思う。紫のバラの人だと名乗って、あの席に座って、自分の紅天女を観てもらい、それを感じて、ふたりであらゆることを語り、そして……。本当に、真澄を求める気持ちは限りない。身の程知らずにも。 でも。マヤは真澄に真っ直ぐに視線を向ける。 真澄の深い瞳。真澄の香り。声。まもなく結婚してしまう真澄のすべてを記憶に刻んで、試演に臨もうと思う。紅天女になることで、紅天女の愛し方を自分のものとできるように、求めるだけじゃない自分になれるように。どうか、そんな自分になれますようにと。 「観てくれるだけで、いい。あたし、今日の試演にすべてを込めますから。あたしの想いのすべてを」 マヤの右手が、熱い感触だけを残して、ゆっくりと真澄の腕から離れていく。真澄は、この光景は一生忘れないだろうと思う。マヤのたくさんの想いを閉じ込めた大きな瞳は、この先もずっと目を瞑るたびに、まぶたの裏に浮かぶのだろうと思った。 今日の試演が、決して揺らぐはずの無い自分の人生の大きな転換点になる。 通し稽古を見たときから、そんな気がしてならなかった。今、このマヤの瞳に、その思いは確信に変わる。 きっとマヤは本番で、通し稽古の遥か上をいく芝居を見せてくれるだろう。もう自分は、押し寄せる紅天女のオーラに、ただ身を任せるしか術はなくなる。なにしろ、通し稽古を観た時点で、すでにそれに抗う気など微塵も起きなかったのだから。 真澄は打掛姿で素の顔を見せるマヤに、出来るだけ歪ませずに真っ直ぐに言葉を届けようと思う。今、言えるだけのすべてで。 「マヤ」 真澄がマヤに呼びかける。まだ僅かにロビーに残る関係者たちには聞こえないほど密やかに、耳からではなく、そのままマヤの心臓にやさしく触れる声音で。 「きみには、運命を切り拓く強さがある。きみのあらゆる美点の中でも特に素晴らしいものだと俺は思っている」 「速水さん……?」 「マヤの紅天女を、紫のバラの人のために用意された席で観ようと思う。きっと俺の人生の中で忘れられない時間になるだろう」 「速水さん……!」 強張っていたマヤの表情が、みるみる柔らかく解けていく。真澄は穏やかな空気を纏わせたまま、むしろ待ち受ける困難すら待ち望む未来だったように感じて、くくくっと小さく笑った。 「運命は受け入れるばかりではなく、切り拓くものでもあったな、ちびちゃん」 「え?」 「きっと明日から俺は死ぬほど忙しくなる。これまでの比では無いほどにな」 「……忙しく?」 マヤの演技で人生が変わる。人生を変える。 マヤの演技にはそれだけの価値がある。マヤ自身の放つエネルギーは、それだけの力がある。 「まずは素晴らしい紅天女を見せてくれ。話はそれからだ」 「もっ、もちろん、あたしにできる最高の紅天女になってみせます!」 「けっこうだ。……そうしたら、次は俺の番だな」 「俺の番って、どういう……?」 真澄は自分を見上げるマヤの頬に人差し指と中指をそっとあてて穏やかに微笑む。次は自分の運命を切り拓く番。マヤが紅天女を目指して、自分の運命を切り拓いてきたように、自分も本当の自分のための運命を切り拓いてみようと思う。そうしたら、いつか……。 「いつか、君に話せるときがくると思う」 「……いつか」 いつのまにか誰もいなくなった二人だけのロビーで、二人にしかわからない空気がやさしく流れていく。言葉にできそうで、今はまだできない物語。想い。今は言葉として、なんの確信もない。でも、自分のやるべきことをやることで、いつか、すべてを語り合える日がくると、お互いの目をみて静かに想い合うことができる。 「さあ、もう行きなさい」 「速水さん……。観ていてくださいね。あたしの紅天女を」 「ああ」 マヤは黒髪と内掛けをふわりと翻して、関係者用の扉の向こうに去っていく。次に逢う時は、マヤは紅天女のオーラをたっぷりと放って、虹色の光りの中に立っているだろう。真澄はもう一度胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火をつける。 午後の陽射しの中で立ち上っていく紫煙。 同じ場所で先ほど吸っていた煙草とは、まるで違う気がする。明らかに自分の中の何かが変化している。真澄はこの変化の兆しを見失うまいと強く思う。あらゆる困難が立ちはだかったときは、マヤのたくさんの想いを閉じ込めた大きな瞳をまぶたの奥で思い出し、必ずもう一度マヤに会いに行こうと密やかに誓う。 腕時計をちらりと見て、真澄は唇を引き結ぶと、携帯電話を取り出した。 まずはこれから迎える本番を、マヤの想いの込められたあの席で観劇するべく、別な席で一緒に観ることになっていた人との交渉から始めるために。 08.01.2007 ひさびさにガラパロを書いてみました。 リハビリ のためにも、できるだけガラパロの空気を取り入れようと書いてみましたが、これが、なかなか……(玉砕 |
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