■□ 空の上のひとりの部屋 □■ |
マンションのドアを開けると、部屋の中はまるで深い海の底のように暗くて重い。息苦しさを感じながら暗闇の中を泳ぐ。窓を開け放つと、冷たい風が一気に部屋の中を駆け抜けた。 そこは深海ではなく、空の上。 淡い月明かりの中、高層マンションの下に広がる人工的な星の煌めきを眺めながら、マヤは溜息を一つ。 「ここに一人はやっぱりキツイよ…。速水さん…」 紅天女の上演権を手にしたとたん、マヤの周りは全てが変わった。 いつか想いが叶ってほしいと心のどこかで願いながらも、一生叶うことはないと諦めていた真澄への恋が成就した。紫の薔薇を手にした真澄が、紅天女の楽屋で待っていた。それまで、ひた隠しにしていたお互いの胸の内を、なぜかその時は素直に話すことができ、そして素直に聞くことができたのだった。 マヤは大都芸能の所属となった。 だが、変わったことはそれだけでは無かった。紅天女として時の人となったマヤをマスコミは放っておかなかった。マヤの住むアパートにまでマスコミが押し寄せ、彼女のプライベートを探ろうとした。真澄は直ちにマヤの住まいをセキュリティの厳しい高層マンションに移した。真澄もそこで一緒に暮らすつもりだった。 紫織との婚約解消及びマヤとの交際に英介が真澄に突きつけた条件、それは一年の期限で海外20都市の大都グループ拠点の経営立て直しをすること。そして、鷹宮の力を借りずとも大都の次期総帥としての地位をグループ全体に浸透させること。 真澄はその条件を受け入れた。 もちろん経営立て直しが一筋縄で解決できる問題ではないことは承知の上だった。一口に大都グループと言っても、業種は運送から商社、サービス、一部に製造を抱え生半可な知識と覚悟ではやり遂げられるはずはない。一年という期限も20拠点という数を考えると、本音を言えば短いとも感じた。だが、もともと仕事の上で難題に立ち向かうことに遣り甲斐と面白さを感じる人間であったし、なにより、それが解決されればマヤと胸を張って歩くことができる。 「必ず、ここで一緒に暮らそう。期限内に絶対に全て問題を解決してみせる。それまでこの場所は、君が守っていて欲しい」 そう言って真澄はマヤの前から消えた。 それから、10ヶ月。今、真澄はサウジアラビアの首都リヤドにいる。たぶん、いる…はず。マヤは仄かに光りを放つ地球儀を回しながらリヤドを探す。 「ここが日本で…あたしはここにいて…」 軽やかに地球が回り、マヤの人差し指がアラビア半島にたどり着く。 「ここに速水さんが…いる」 その場所がどのくらい遠いのか、マヤには想像できない。距離で何千キロと言われても、飛行機で何時間と言われても結局、それは会いたい時に会えない距離であることに変わりはない。 紅天女となり築き上げた女優としての場所も、決して安住の地ではない。同業者の嫉妬や妬みに晒されつつ、それを跳ね返すほどの空気を蓄え、演出家や観客の期待を裏切らずそれ以上の結果を出し続ける。それが、今後とも演技できる場所に居続けるために必要なことなのだ。ましてや、真澄との交際が明るみに出てしまえば、さらに羨望と妬みのネタにされることは間違いない。その時までに、自分の女優としての格を揺るぎないものにしたい。純粋にお芝居が好きだからと何も考えずにいた頃とは違う。大人になるということは、そういうことも一人で乗り越えられるようになること。そう自分に言い聞かせてきた。 …だけど、ときどきどうしても会いたくなる。顔を見たくなる。「間違えていない、大丈夫だよ」と言って欲しくなる。大きな体で温かく包んで欲しくなる…。 「会いたい」と呟いても、この暗い夜に、遠い場所にいる真澄にはその声は届かない。 「あたしばっかり好きで、好きで、会いたいって思ってる気がする…」 「きっとお仕事楽しくって、お仕事以外のことはぜーーーんぶ忘れちゃってるんだっ!なんてったって、天下の冷血仕事虫だもんねっ!!」 窓の外に向かって思いっきり憎まれ口を叩いてみる。でも、そんな声も真澄には届かない。声は、まるでバースデーケーキのろうそくの炎のように、風で消えてしまった。 ふいに携帯電話のメール着信音が鳴る。はっとして振り返ると、暗闇の中で着信を知らせる赤い光が瞬いている。 メールの送信者は…、『速水さん』 なんだか泣きそうな夜を見透かして、狙ったようにメールを入れてくる真澄に、マヤはかなわない…と思う。久しぶりのメールに逸る気持ち押さえきれずに震える手で携帯を掴む。 『元気でいるか? 君のことだ。どんな時でも食事はきちんと取っていると思うが、芝居のこととなると、突飛なことをしでかす癖があるから、それだけ心配している。 自分の体は大切に。 次の舞台もいいものができると信じている。』 「…なっ、なによぉっっ!!!それだけっ??他に言うことはないの!?」 「…もう、あたしのことばっかり心配して、これじゃぁ、速水さんがどこで何してて、何考えてるかなんて、全然わかんないじゃんっっ!!!もうっ!鈍感っ!!」 思わず窓際に置いてあったテディベアを無人のソファに向かって思いっきり投げつける。 ぼすっ…! 鈍い音を出して、悲しげに歪んだテディベアがソファに沈んだ。 「…泣きたいのは、あたしだよぉ」 …そうじゃない…、そうじゃないっ…! ホントは…。 ホントはわかってる…。 真澄がマヤとの未来のために遠い場所で頑張っていることを。短い素っ気ないメールに、ありったけの愛情を込めていることも。 会いたい、会いたい、会いたい… 湧き上がってくるような、この想いを力に変えて…。 「ごめんね…」 ソファに向かいテディベアを抱き起こし、頭を撫でる。 姿見用の大きな鏡の前にぺたりと座ると、両手の人差し指を口に入れて、口角を無理に広げてみる。 「にぃーーーーーーーーーっ」 笑顔の練習。 泣くと幸せが逃げるから。 今はまだ、先のことはわからないことだらけで、会えない寂しさに押しつぶされそうになるけれど、あたしの周りで起こる全てのことが、幸せな未来に繋がっていると信じよう…。 会いたい、会いたい、会いたい… この想いを力に変えて会えない夜を越えていこう。あたしらしく笑顔でいること。あたしにできることを精一杯がんばること。それが、全て速水さんとの未来に繋がるから。 速水さんが、堂々とここに帰ってきたときに、自分も同じだけ胸を張って迎えられるように。 部屋中に灯りを点ける。暗闇の重さを吹き飛ばすように。携帯を手に取り返信メールを打ち始める。穏やかな横顔で、親指の動きも軽く。少しでも真澄に近づくように、窓際でアンテナをのばして。 『速水さんこそ、仕事夢中になるとお食事もしないで睡眠時間も削っちゃうでしょ。ちゃんと食べて寝てくださいね。あたしの今度のお芝居も順調に仕上がってきてます。速水さんが観られないのが残念だけど、最高の舞台にしますから期待しててくださいね』 …そこまで打って指が止まる。 「あーーーーっ!!でも、やっぱり会いたいよぉぉ!」 pirurururururu…!!!!! 電話の着信音がマヤの叫びに対抗するように鳴り始める。 「えっ?!」 慌てて発信者を確認すると、携帯の液晶画面の文字は 『速水さん』 「う…そ…?」 pirurururururu…!!!!! …もし、本当に速水さんからだったら…、10ヶ月ぶりに声を聞くことができてしまう…。 メールだけは時折していたが、一度でも声を聞いてしまったら、きっと会いたくなってしまうから…と、お互いに電話はかけずにいた。マヤは震える指で携帯の応答ボタンを押してそのまま耳に当てる。 「…もしもし…」 「やっと出た。何コール待たせるんだ?留守電になってしまうかと思ったぞ」 全身に真澄の声が染み渡っていく…。 久しぶりに聞いた声。相変わらず、どこか説教じみた話し方だけど、低くて滑らかで優しいその声は、自分をこんなにも癒してくれる存在だったのかと改めて思う。 「もしもし?マヤ?」 「あっ…はい」 「なんだ、久しぶりの電話なのにつれないな。俺の声を忘れたのか?」 「ま…まさか…。久しぶりに声が聞けて、ちょっと感動してたんです」 「…俺もだ…。君の声が耳に心地いいよ」 「元気…ですか?」 「ああ。君も元気そうだ。何をしてたんだ?」 「さっき帰ってきて…、窓の外、ぼーっと見てました」 「窓の外?夜景か…。俺のことでも考えてたか?」 少し笑いを含んで真澄が語りかける。“そうです”と肯定するのもなんだか癪に障るし、かといって“違います”じゃ味気ない。返事を言い淀んでいると真澄がさらに語りかける。 「俺は、いつも君のことを考えていたよ。朝はコーヒーを飲みながら、夜は酒を飲んで眠りにつくまで」 真澄の言葉にマヤの涙腺が緩む。仕事のことばっかり考えているなんて、憎まれ口を叩いたばかりだったから…。毎日少しでも自分のことを思い出してくれていたと知っただけで、心が熱くなって目頭も熱くなって、勝手に口が言っても困らせてしまうだけのことを言い始めてしまう。 「会いたい…」 「ああ」 すぐには不可能だと分かっているのに、一度口に出してしまったら、止まらない。 「会いたい…、会いたいよぉ…速水さん…!」 「フッ…。よし。それなら、とっておきの魔法を教えよう」 電話の向こうから、真澄の柔らかい楽しげな声が聞こえてくる。 「え?魔法って…」 「シンデレラを美しい淑女に変身させてくれた魔法使いが唱える呪文を知っているか?」 「ん…と…。あ、ビビデバビデブゥってやつですか?」 「そうだ。それを3回声に出して唱えてごらん」 「えー、もう、速水さん何言ってるんですか?」 「いいから。言われた通り呪文を唱えてごらん」 「もう…。ビビデバビデブゥ…。ビビデバビデブゥ。ビビデバビデブゥ…」 会いたい気持ちを込めて。嘘でもいいから、想いが叶うように…。 「……」 「…速水さん?」 ピンポーーンッ! 「ひゃっ!!」 呪文を唱えたとたんに鳴り出すインターホンのチャイムに、マヤは心臓が口から飛び出そうになる。 …まさか、まさか…。 インターホンの液晶画面に映る姿に、マヤは自分がとっておきの魔法のおかげで都合のいい幻を見ているのだと思う。だが、幻ではない証拠にインターホンの受話器から携帯と同じ声が響く。 「なんだ、チビちゃん、開けてくれないのか?」 それから大急ぎでエントランスのドアロックを解除し、真澄がエレベータで上がってくるのを待った。エレベータの所在を示す明かりが、今はマヤだけが住む最上階の数字で止まり、ゆっくりと扉が開く。 少し髪の毛が伸びたかもしれない。緩いウェーブの柔らかい髪が少し肩に掛かっている。以前よりも肌が日に焼けているような気もする。きっと日本にいたときよりも、外に出ることが多かったんだ…。 エレベータから下りた真澄をマヤは身じろぎもせずに、声を出さないまま見つめる。今、目の前にいる人に声を掛けてしまったら、魔法が解けて煙のように儚く消えてしまうような気がしたから。 真澄の長い腕があっという間にマヤの背中に回り、小さなマヤは真澄にすっぽりと包まれた。真澄の大きな手がマヤの髪を撫でる。真澄の香りがマヤを擽る。 「ただいま、チビちゃん」 その途端。 「ひぃ〜〜っくえっえっ…」 「マヤ…?」 「ほんとは…、…今度逢えるときは、もっともっとちゃんと大人になって、もっとクールに出迎えるつもりだったのに。速水さんが突然帰ってくるから、こんな、こんな…泣いちゃって…、かっこわるぅ…、うっえっえっ…」 背中に回した両腕で強くしがみつきながら子供のように泣き崩れるマヤを、真澄は世界で一番愛おしい存在が今自分の腕の中にいることを確認するように優しく見つめた。長い指で、大きな瞳から流れる涙を拭う。 「いいよ。その方が泣き虫のチビちゃんらしくていい」 「もうっ、泣き虫じゃありませんよっ!速水さんが泣かせてるんですぅっうっえっ…!!」 「そうだな…。長い間待たせてしまって悪かった」 「う…ううん…えっ…えっ…」 「あっ…、お仕事は…?期限内に解決するって言っていたお仕事…。帰って来ちゃって、大丈夫なんですか…?」 鼻を赤くしながら真澄を見上げてマヤが不安な声を出す。一呼吸置いて、真澄は勝ち誇ったように最高の笑顔をマヤに向ける。 「俺は約束を守る男だからな」 「ほんと…?」 「ああ、勿論。全て片付けてきた。さすがのオヤジも驚いていたがな」 「すごいっ!すごい…。すごいね、速水さん…!」 「惚れ直したか?」 「…」 「マヤ?」 マヤの表情が一瞬固まる。 10ヶ月の間に自分は何をしてきた?ただ、ひたすら帰りを待って文句だけ言っていなかった? ちゃんと、やれることやってきた? 「あたしも…そんな顔して“おかえり”って言えるかな…」 「言えるさ。君のことならなんでも知っている。いろいろと報告してくれる奴らがいるのでね」 「え?」 「10ヶ月の間に二つの舞台で主演して成功したことも、ドラマで主役を演じたことも。一つのグチもこぼさずに期待以上の結果を残したことも。君が頑張っていることは遠くにいても伝わってきた。何度も君に会いたくなって日本に帰ろうかと思ったが、君が頑張っていることを聞いては、負けていられないと、会いたい気持ちを奮い立たせて俺も頑張れた。こうして期限よりも早く結果を出して帰って来られたのは、君のおかげだ」 「うん…、うん…」 「泣きたい日もあっただろう…。だけど、よく頑張ったな…。もう小さなチビちゃんじゃないな…。会わない間に、すっかり大人になった気がする」 真澄の言葉にマヤは全身の力が抜けていくのを感じる。涙で返事もままならない。 何も言わなくても分かってくれている。自分をわかってくれている。紫の薔薇の人だったその昔から、一番わかってくれている。 赤い鼻で目は涙で濡れているけれど、マヤは真澄に負けないほどの最高の笑顔で言う。 「おかえり…。速水さん」 二人で、二人のマンションのドアを開ける。 そこは深海ではなく、空の上。 遙か未来まで見渡せる 二人だけの 空の上の場所。 fin 02.2004 あとがき え〜と…。 もしかしたらお気付きの方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、このお話は、MISYAの歌がベースになっています。その曲を聴いていたら、浮かんだお話です。歌詞をそのままに近い形でつかっている箇所があります。なんですが〜。その曲名が今、わからないんです…。レンタルしたCDをMDにダビングして、曲名を控えずに返却したものでして。…今度、調べておきます(^^;; …ということだったのですが、なんと!! こちらを読んだ方から教えていただいてしまいました! ありがとうございますっ○○さま。私、パソの前で小躍りしました。 タイトルはMISYAの「It's just love」でした。 挿絵あります。こちらからどうぞ→◆ |
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