恋の少し前



 Extra chapter :

















 たしかに、ここのところ真澄はすこぶる機嫌が良い。相変わらず多忙を極め、まともな時間に家路に着くことは厳しいが、それでも困難と予想された案件を次々と解決し、さらには社員にも時おり笑顔を見せることまであり、周りの者も一様に驚きを隠せない。

「真澄さま。今日の商談も見事でございましたわね。先方の息を飲む音まで聞こえてきそうでしたわ。いったいこの快調ぶりの原因はどちらにございますの?」

 興味津々ではあるが、表情だけは冷静に水城が訊ねる。真澄はブルマンの香りを鼻孔で捕らえつつ、何気ない顔をする。

「失敬だな。おれにはもともと商談の才があると思っていたが?」

 口は割らない。
 言える訳が無い。この有能な秘書のことだ。いずれバレてしまうかもしれないが、自らの口から言うには、あまりに立場が無い。

───マヤと同居している。(期間限定)

 などと、バレた日には威厳もクソもへったくれも無い。

 マヤも最初こそ戸惑いを見せたり、明らかに毛嫌いしている気もあったが、最近ではすっかり屋敷に慣れて、夜ごと書斎に入り浸って寛いでいる。
 …まあ、同居と言ったところで、あの広い屋敷のことだ。同居という言葉が孕む、嬉し恥ずかし的要素は、非常に残念ながら皆無だ。残念ながら。
 それでも、同じ屋根の下で、他愛無い会話など交わせる環境というのは、夢のようだと言っていい。
 無味乾燥な朝のコーヒータイムも、マヤが美味しそうに朝食を食べる様子を眺めながら(新聞を読むふりをしてはいるが)飲めば、いっそう旨い。心底つまらないパーティも、家に帰ればマヤがいると思えば、笑顔のひとつも出血大サービスできるというものだ。
 きっと今夜も書斎に行けば、ソファに半分斜めになりながら本を眺める(ちゃんと読んでいるかは、すこぶる怪しい)マヤに出逢えるだろう。今夜の仕事の予定はどうなっていただろうか。

 真澄は水城に予定を訊ねようと視線を上げたところで、初めて気付く。水城が不審な目で自分をじっと見ていたことに。まずいな。もしかしたら、顔が笑っていたのかもしれない。

「…水城くん。今夜の予定は…」

 恐る恐る訊いてみる。

「…日東銀行の仙田頭取との会食が十九時から銀座・美吉野で。お相手が仙田さまでございますから、終わりは深夜になると思われます」

 仙田頭取。まちがいなく帰りは深夜だ。仙田との会食が料亭だけで終わるわけがない。その後は銀座の仙田のなじみのクラブにまで連れ回されることは必至だろう。
 明らかに落胆の色を隠せない真澄に、水城はますます不審の念を募らせながら退室した。











 真澄が家にようやく帰り着いたのは、日付が変わってからすでに一時間は経とうかという時間だった。腕時計をちらりと睨んで真澄は舌打ちをする。きっと、もうマヤは自室に帰ってしまっただろう。寝室でスーツのジャケットだけを脱ぎ無造作にベッドに置いて、とりあえず書斎に向かう。一縷の望みを託して。

 書斎には明かりが灯っていた。中途半端に閉じられた扉の隙間から廊下に灯りが漏れている。真澄は、逸る気持ちを抑えて、わざとゆっくりと扉を開く。扉を開けても角度的にソファにいるかどうかわからない。真澄は書斎に入り、ソファに向かう。

「なっ…」

 このソファは、たしかに座り心地が良い。腕の良い職人の一点物だ。空調は完璧に管理されていて、外は初冬を迎えてはいるが、ここは心地いい温度に保たれている。湯上りの力の抜けた状態で分厚い本を眺めていれば、そりゃ睡魔に襲われることもあるだろう。

 だからと言って、無防備過ぎないか。
 たしか、ここはマヤが嫌いだと言って憚らない速水真澄の書斎ではなかったか。

 ソファに倒れこむようにすやすやと眠るマヤを見つけた真澄は、そのままの姿勢で固まってしまう。しっとりとした湯上りを思わせる湿度のある黒髪。すべすべ(に見える)な白い肌。規則正しい寝息を繰り返す僅かに開いた唇。少し大きめの赤いパジャマ(おそらくフリーサイズはマヤにとっては大きいのだろう)。必然的に開き気味になる襟元。見えるか見えないか微妙な胸元。

 …これはまずいだろう。

 起きているマヤに対しては、さすがに理性を保つ自信はある。今のところ。今のところは。
 だが、これは。目の前で恋しい人がこんな状態では。
 白い肌に触ってみたい、とか。黒髪を弄んでみたい、とか。その唇を奪ってしまいたい、とか。いっそ胸元を開いてみたい、とか。そう思ってしまうのは、男として、ごく当然のことではないのか。

 真澄は、ごくりと生唾を呑む。

 ソファの傍らに立てひざをつき、マヤの寝息を間近で確認する。爆睡している。一度眠ったら少々の地震があっても目覚めないタイプだな。まったく危ない。いや、そんなことを思っている場合ではない。
 …なんて可愛いのだろう。世間で北島マヤはそれほど顔の造作的に美形として騒がれるタイプではないが、そんなことはどうでもいいことだ。自分にとって、マヤは唯一の人なのだから。
 思わず、マヤの頬に指先で触れてしまう。

「…ん…にゃ…」

 マヤの唇が寝言なのか、ただの吐息なのか分からない小さな声を出す。艶やかな唇。真澄はマヤの唇に釘付けになる。ほんの一瞬。ほんの一瞬だけならば、その唇に触れることは許されないだろうか。以前、高熱のマヤに薬を飲ませるという正義的言い訳で唇を奪った過去はある。繰り返すが、あれは口移しで薬を飲ませただけだ。だが、いまは、純粋にキスをしたい。

 キスしたい。
 キスしたい。
 キスしたい。

 こんなところで無防備に眠っているマヤも悪い。そうだ、ほんの一瞬だ。

 各種言い訳を用意して、真澄は再びごくりと生唾を呑む。
 それから、ゆっくりと眠るマヤに顔を寄せる。
 生温かい寝息が真澄の唇にふわりと届く。


「むらさきのばら の ひと…」


 突然マヤの口から飛び出た言葉に、真澄は寸止めの状態で動けなくなる。おかしな汗が噴出すのがわかる。

「かんしゃ して …ます」

──紫のバラの人。感謝してます。

 ばれたのか。自分が紫のバラの人だとばれたのかっ!?

 真澄は、飛び跳ねるようにマヤから離れ、やはりその姿勢のまま固まる。さきほどの寝姿と寸分かわらぬマヤがそこにいる。マヤは目を瞑ったまま、にこ〜っと笑うと再び規則正しい寝息を立て始める。

「なっ……!」

 寝言かよっ!!!!
 よりによって厳選されたそのセリフでっ!!

 激しい虚脱感とともに真澄は絨毯の上に頭を抱えてしゃがみ込む。なんだって、この瞬間にそんなセリフを言ってくれるのだ。チビちゃん、きみはさすがに天才女優だ、と嘯いてみたところで、この脱力感は如何ともし難い。

 深い溜息とともに顔を上げ、眠るマヤを眺める。その顔には、まだ僅かに笑顔が残っている。まったく無邪気にどんな夢を見ているのやら。セリフから勝手に想像すれば、紫のバラの人に出会えた夢でも見ているのだろうか。そう思うと、真澄はほんのりと幸せな気持ちになる。僅かな胸の痛みとともに。

 くしゅっ…。

 マヤが眠りながらくしゃみをする。いくら空調が効いているとはいえ、パジャマでうたた寝では風邪をひく。真澄は軽い溜息をついて立ち上がる。マヤを寝室まで送り届けよう。
 マヤを両腕で抱きかかえる。薄いパジャマ越しに伝わってくるマヤの全身の温もり。今夜はこれで満足することにしようか。

 歩き出したとたんに、だらりと下がっていたマヤの両腕が真澄の首に回される。

 起きてしまったのだろうか…?  いや、べつに悪いことをしているわけじゃなし(今は)、びくつく必要も無いのだが。

 けれども、やっぱりマヤは爆睡の中にいて、真澄は苦笑するほかない。まったく、振り回されてばかりだ。






 振り回されてばかりだ。けれど、それすら喜びを覚えてしまうのだ。重症だ。その自覚は充分ある。マヤがいればそれでいいのだ。マヤが健やかに、夢に向かって生きていてくれれば、それで。願わくば、自分に対する憎しみをいつか解いてくれれば、言うことは無い。

 また、紫のバラをきみに贈ろう。
 アルディス姫を掴むために必要ならば、ドレスも靴もイアリングも。

 きみが喜んでくれるなら、いくらでも贈ろう。







fin







04.30.2006




 あとがき .


長編「恋の少しまえ」の番外編です。
本編はマヤ視点で綴ったのですが、番外編は真澄視点で。
マヤを自分の屋敷に同居させて、マスはいったいどんな心地だったのでしょう、という辺りを軽く。マヤ視点でマスの心情を想像していただくというのが正しい読み方だとは思いますし、このSSで本編のイメージが崩れました、とか言われたら、どうもすみません、と言うしかないのですが(笑)。

ちなみに、このSSは本編「story 6」の出だし数行で描いたマスの生活の辺りに挿入されるべきエピソードになります。 
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