■□ ほろ苦くて、そして、甘い □■


無理だわ
芸術大賞なんて
最優秀演技賞なんて

月影先生
なぜ、あたしにそんなことを


「紅天女」


遠い…
あまりに遠すぎる…




2月の肌を刺す空気。
土曜日の学校帰りの公園は、犬の散歩と子供の笑い声。
先の見えない自分が不安で仕方がない。
何から始めたらいいのか、それすら見えない。
月影先生に温かい手を差し伸べて欲しかったわけじゃない。

そうではないけれど…。





「チビちゃん…!」

マヤをそんな呼び方をするのは世界中でただ一人。

げっ…。

「大都芸能のっ…」

いかにも『イヤナ ヤツニ アイマシタ』と顔に書いてある。それがおかしくて真澄はからかいたくなる。

「大都芸能の…。その先がぜひ聞きたいな」

「うっ…え…っと」

「なんだ?」

「有能で…。切れ者で…。…かっこいい…若社長…」

「ふっ…。君に誉めて貰えるとは光栄だ。なにをしていたんだ?学校帰りか?」

舞台を降りると本当に大根役者だ。そこがまたいいのだが。真澄は偶然にも出会えたことを嬉しく思いつつ顔には出さない。

「…別にいいじゃありませんか。速水さんこそ、こんなところで何してるんです?社長がこんなところでさぼっていたら、会社潰れちゃいますよ」

「優秀な部下がたくさんいるのでね。それに、紅天女を大都で上演するまで潰すわけにもいかない」

「速水さんだっていいお年なんですから、恋人の一人や二人いるんじゃないんですか?お仕事だとか、紅天女にばっかり構ってると、ふられちゃいますよ」

胸が痛む。少しだけだ。
…もし、君が好きだと言ったらどんな顔をするだろう。この速水真澄が君を好きだと。

「……。残念ながらそんな人はいないさ」

「じゃあ、紅天女が恋人ですね」

勝ち誇ったようにマヤが言う。

「そうだな。じゃあ、君がいずれ紅天女になったら俺の恋人になってもらおう」

そんなマヤを愉快そうに見ながら、真澄こそ勝ち誇ったように言う。

「なっ、何、言ってるんですか?!」

「紅天女にならないつもりか?」

「なりますよっ。あたし絶対、紅天女になりますっ」

「では、君が俺の恋人になる日も近いというわけだ」

「ちょっ…」

あはははは…と小気味よく真澄は笑い、マヤは憮然とした表情になる。


「少し…、元気が無かったようだが…?」

優しげな真澄の瞳にマヤはちょっと驚く。困る。イヤなヤツだと思っているのに、そんな目で見られたら、なんだか困ってしまう。

「…そんなこと…ないです。ちょっと考え事していただけで…」

「…芸術大賞…というよりは、月影先生のことか…?」


はっとしてマヤが真澄を見る。


「社長っ!お待たせして申し訳ございませんでしたっ。お車回して参りましたので、どうぞこちらへ!」

秘書が慌てて走ってきた。
真澄は左手首を少し上げて腕時計を確認し、マヤを見る。マヤは何か聞きたげな表情をしているように見えた。

「今日の予定はキャンセルだ。あとは社内の会議だけだっただろう。俺は歩いて帰るから、車は君が社に戻るのに使うといい」

「それから、宣伝部長に例の件は明日の昼までに3通りの提案を持ってこいと伝えてくれ。広報には記事差し止めの件、強く言っておけ。そうだな、東西銀行頭取との会食の件は明日俺から連絡する。そんなところだろう。あとは適当にやっておいてくれ」

思いつくまま指示をいくつか出すと「少しつき合わないか?」と真澄は制服姿のマヤを連れ公園の奥へと進む。ええっ?社長…と困惑気味の秘書を残して。社長が女子高生と…???秘書には理解不能な光景だった。


「あの…、大丈夫なんですか?お仕事…」

マヤだって困惑している。明らかに忙しそうなのに、仕事をキャンセルしてまで自分をどこに連れていくのだろう。

「ああ、優秀な部下がたくさんいると言っただろう。俺にもたまには息抜きが必要だ」

「息抜き…ですか」

「君といると、煩わしいことは忘れてしまうな」


立ち止まって空を見上げる。吐く息が白い。冬の透き通った空気が空を一層青く見せていた。


「あの…。どうして月影先生のことだと思ったんですか…?」

遠慮がちに訪ねるマヤを真澄が見下ろす。天才だと言われた彼女も今は逆境の中にいる。その原因を作り出したのは他でもない自分だ。その小さな体でたくさんの思いを抱え、悩んでいるのだろう。力になりたい。それは、紛れもなく真澄自身の気持ちであるが、それを口に出すわけにはいかない。なんてやっかいな立場なのだろう…。

亜弓には優れた教授がたくさん付いている。その上芸術大賞を既に受賞済みだ。世間の無責任な予想は、亜弓が紅天女になることはマヤが紅天女になれる確率よりも何倍も何十倍も高いと見ている。マヤが実質頼れる人物は月影千草だけだ。だが、マヤから見れば、月影すらマヤを突き放したように見えるだろう。真澄の脳裏に月影の言葉が響く。


“あの子は天才よ…”


「自分は一人ぼっちだと思っていないか?」

「え?」

「紅天女を目指す道に、自分一人で立ち向かって行かなくてはいけないと思っていないか?」

「あの…」

「それは、亜弓君も一緒だぞ。亜弓君の周りにはいろいろと助言できる人間もたくさんいるだろう。だが、結局最終的に判断して演じるのは一人だ」

マヤは側のベンチに腰掛け足をぶらぶらさせながら言う。

「わかっているんですよ。それは、わかっているんです。…ただ、ちょっと…」

「うん?」

「さみしいな…って…」

「うん…」

「亜弓さんには、素敵なお父さまもお母さまも、すごい先生達もいっぱいいて、あたしは月影先生にレッスンすらつけて貰えないって、すごくさみしいなって…。あの…、こんなこと言ったってしょうがないのわかって言ってるんです…。どうか聞き流しちゃってください」

自分でもなぜ真澄に話してしまっているのかわからない。でも、こんなこと、麗達には言えない。愚痴をこぼしたからと言って何も解決しないことだって、ちゃんとわかっているのだから…。ただ、今日の真澄になら何となく愚痴をこぼしても神様が許してくれそうな、そんな気がしたから。

「寂しいと思ったら、寂しいと言葉にして吐き出してしまえばいい。自分をごまかすことはない。湧いてくる感情に素直に従えばいい。口に出したその言葉は勝手に風が吹き飛ばしてくれる。後に残るのは抜け殻のような自分だが、そうすると自然に精気が帰ってくる。落ちこんだら、あとは浮上するしかないからな」

マヤは驚きを隠せない。真澄も、そんな気持ちになることがあるのだろうか。冷血だと言われるほどの人が。

「何を驚いている。俺だって、落ちこむときぐらいあるさ。ロボットではないからな」

「ぷっ」

マヤが噴き出す。その笑顔に真澄も笑顔になる。

もう少し歩こう。

真澄が声をかける。




公園の奥にある小さなオープンカフェ。
木々が見える席にマヤを座らせると、真澄はメニューも見ずにオーダーを出した。

「この公園にこんなところがあるとは思いませんでした」

「ここはいい。時間を忘れて一人になりたいときはうってつけだ」

「速水さんもそんな時間を持つことがあるんですね…。一日中お仕事ばかりしているのかと思ってました」

「ははは…。まあ、たいていの日は一日中仕事しているさ。朝起きて夜寝るまで。だが、ときどき俺だって現実逃避したくなるときだってあるのさ。会社の奴らにこの場所を言うなよ。ここまで追いかけられたら、たまらんからな」

そう言って、秘密を楽しむ子供のように笑った。
真澄がマヤのためにオーダーしたものがくる。マヤが大きめのマグカップを持って一口、口に含んだ。
それは、ほろ苦くて甘い飲み物。寂しくて冷たくなっていた心を優しく暖めてくれる飲み物。マヤはその温かさに、涙がひとつだけ零れる。

「速水さん…これ…」

「ホットチョコレートだよ。そんな気分の時には、ちょっといいだろう?」

「なんで…?なんで、今日はそんなに優しいんですか?」

鼻を少し赤くしながらマヤが問う。真澄の眼差しはどこまでも深くて暖かい。

「…今日はバレンタインデーだからな。未来の紅天女に温かいチョコレートをプレゼントしても罰は当たらんだろう?」

2月14日。バレンタインデー。

自分はすっかり忘れていたイベントだったのに、あの速水真澄がそんなことを言い出すギャップにマヤはおかしくて、楽しくて、そして、くすぐったくて、泣き笑いになる。

「速水さんが、そんなこと言うなんて。でも…でも、あったかいです…。嬉しい…です…」

「月影先生は君を信じている。芸術大賞を受賞して、必ずや紅天女を亜弓君と競える場所にくることを」

「…そうでしょうか…」

「ああ、それに…。紫の薔薇の人も信じているんじゃないのか?君が紅天女になる日を…」

「…そうですね…そうですよね…。あたしには紫の薔薇の人がいる…。紫の薔薇の人に喜んでもらうためにも…、必ず亜弓さんと対等な位置に立てるように頑張ります」

「そうだ、その意気だ」

“紫の薔薇の人”。この言葉を出すだけでマヤの表情に輝きが増す。それほどまでに慕われている人物が、実は目の前にいる自分だと知ったら、どんなリアクションになるのだろうと、真澄はマヤの横顔を見る。

「あたし…もうすぐ高校卒業なんですけど、その時に紫の薔薇の人にプレゼントしたいものがあるんです。喜んでもらえるかわからないけれど、でも、私の感謝の気持ちだから…」

「プレゼント…?」

ふふっ、速水さんには教えませんけどね〜。と、マヤはホットチョコレートを美味しそうに飲む。

なんだか腑に落ちない気持ちだ。紫の薔薇の人に嫉妬したってしょうがないとわかってはいるが(なんといっても自分なのだから)、この複雑な思いは言葉にして吐き出すわけにはいかない…。
まあ、いいか、チビちゃんのご機嫌が治っただけでもよかったじゃないか、と自分を納得させてみる。


チビちゃんと何気ない時間を過ごしたことこそ、

神様からの俺へのバレンタインデーのプレゼントだな。





2月の青い空。



新芽が小さく力強く顔を出す頃。

ホットチョコレートが


マヤと真澄の1ページとなる。







fin


02.13.2004




あとがき

若社長と高校生マヤちゃんのお話でした。
いつか高校生なマヤちゃんを書いてみたいと思っていたのですが、このお話なんて高校生じゃなくてもよかったですねぇ…(^^;
まあ、原作と絡めている時期が高校生ということで。
せっかくサイト立ち上げたし、イベントに絡めた話でも書いてみたいと思ったのですが、こんなたわいもないお話になってしまいました…。
ふつー、バレンタインといえば、もっともっと甘いお話になるはずなのに…。咲蘭ともあろうものが…(白目)
なんつって。甘甘話は得意分野じゃなかったりする。





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