ほかの誰でもなく

第9話















“君を3ヶ月間、日本から脱出させる”


「…速水さん…言っている意味がよくわからない…」


紅天女の後継者も決まった。本来なら間もなく真澄は結婚する筈だったが、月影の逝去に伴い慶事への出席を控えたいとの英介の意向で婚礼は約1ヶ月半延期になったと聞いている。つまり3ヶ月という時間は、真澄の結婚も含まれていることになる…。

ああ、そうなのか。結婚する自分の姿を見られたくないし、見せたくないとか、そういう事なのだろうとマヤは納得する。

「…そっか…、その方がいいですよね…。ロンドンでもどこでも行ってきますよ…あたし。いくらなんでも、速水さんが結婚するところ間近で見たくないし…。ちゃんと遠くで頭冷やしてきます…」

マヤが硬い笑顔のまま言うと、真澄が「だから結論を出すなって…」と笑いを軽く含んで言い、マヤの黒髪を手に取り男性特有の少し骨張ってそれでもしなやかな長い指でさらさらと梳いた。

「…せっかくの決意に水を差すようで申し訳ないが…、俺は結婚しないつもりなんだよ…マヤ」

「…なに…言ってるんですか…?」

「紫織さんとは結婚しない」


さらっと何でも無い事のように言う真澄に、マヤはもしや自分は取り返しの付かない影響を真澄に与えてしまったのではないかと、焦りにも似た恐怖に襲われる。そんなことが許される筈はない。ただの結婚では無いのだ。なんの関係も無い自分さえも知っている。真澄と紫織の結婚はお互いの企業グループの行く末を大きく左右するほどの重要事項な筈なのだ。この結婚を簡単に捨ててしまっていいわけはない。


「なんで…?ダメだよ…結婚しなくちゃ…。そんなこと、許されないよ…」

震える声で否定するマヤを、真澄が優しく見詰めながら問いかける。

「君は俺に他の女性と結婚してほしいのか?」

「なっ…!なんでそんなこと言うのっ!?速水さん酷いっ!そんなこと…あるわけないのに…。どうしてっ…!?」

「俺も君以外の他の女性と結婚などしたくない…。君の気持ちを聞いて、君の紅天女を観てとうとう観念したんだ…。もう嘘をついて誤魔化して、大切なものを失いながら生きていたくない。俺は君を愛していて、君と共に生きていたい。そんな風にシンプルに生きていくことに決めた」

「決めたって……。待って…、速水さん。そんな大事なことよく考えてから決めないと、絶対後悔するよ…」

「後悔なんて今まで数え切れないぐらいしてる。考えすぎると良くないんだ。今まで、考えすぎて一歩も進めなくなっていた。だから、これからは自分の感覚を頼りにすることにした。自分の感覚を信じて出た結果ならどんな結果だって受け入れられるさ」

「そうじゃなくて!あたしのせいで、速水さんのお仕事だとか立場だとか、そういうあたしが速水さんにあげられないものが、上手くいかなくなってしまうのがいやなの。速水さんには速水さんらしく生きていって欲しいのに!」

マヤの声は既に懇願の声に変わっている。小刻みに首を振り必死に引き留めようとする。自分のせいで真澄の人生を狂わせてしまうのは、なによりも許し難かった。

「俺らしく…?それなら、ほかの誰でもなく…、君と一緒にいることこそ、本当に俺らしく生きていることなんだ」

大きな手がマヤの髪を撫でる。その目には微塵の迷いも無い。

「速水さんっ!」

「そんな簡単なことは前から分かっていたことだったのに決断出来なかった。速水の家における自分の立場だとか将来性だとか、そんな野心にも拘りがあったと思う。それは否定しない。俺はそれを一概にくだらないとは言えない。だが、俺が心の奥底で望んでいたものは、金でも名誉でもなく、もう既に紅天女の上演権でもなく、義父への復讐でもなく、ただ君のそばにいて、君と一緒に生きて行きたいということだった」

真澄の口調は穏やかで、一言一言を間違いなくマヤに届けようと丁寧に語り続ける。

「それなのに、俺は君に対して臆病だった…。誰よりも君を愛しているのに、それを認めることを恐れた。愛していることを自覚してからも、君は決して俺を許さないと思い込み、君に真っ直ぐに向き合うことを避け続けた。だぶん、君があまりに眩しすぎて、手に入らないものを望むことを意図的に避けてきたのだと思う。…そんな臆病な俺を好きだと言ってくれてありがとう…。君の気持ちが何よりも俺の勇気になった。君さえいれば、どんな難局でも乗り切ってみせる」

むしろ晴れ晴れしい顔で語る真澄にマヤは言葉が出ない。

そうじゃない…本当は、そうじゃない…!
違うの…!速水さん!!

両手で顔を覆って肩を震わせる。全身から湧き上がる感情に自分をコントロールできない。ついに、耐えきれずに喉の奥から嗚咽が漏れ始める。

うぅ…うっうっ…

「マヤ…?」

真澄がマヤを優しく抱き締める。

「嬉しかった…結婚しないって聞いて、夢でも見ているのかと思うほど嬉しかったの…。だって、本当は速水さんが欲しかったから…。どんなに頭で望んじゃいけないことだって分かっていても、気持ちを殺すことはできなかった…。あの雨の夜、速水さんから愛してるって言われて、速水さんの隣に本当だったらあたしがいるはずなのに、だったらなんで速水さん婚約なんてしちゃうんだって、なんであんな綺麗な人と約束しちゃうんだって、速水さんを好きなのと同じぐらい、心の中でずっと…ずっと、速水さんを責めて、紫織さんのこと憎んでた…」

「マヤ…」

「上演権をあげるって言ったのだって、今までのお礼だとか上演期間だけはあたしのことを思い出して欲しかっただとか、その気持ちに偽りは無いけれど、心の底では、速水さんの中に紫織さんには侵害できないあたしだけの場所を取っておいて欲しいと思ったから…。紫織さんがどんなに完璧な奥様になったとしても、その場所だけは絶対に譲らないつもりだった…」

話す声が震えているのが分かる。心の奥底に沈む黒い塊を剥き出しにして、自分はいったいどうするつもりなんだろう。嫌われたくて言っているのか?
そうじゃない…。恐いんだ。
本当の自分を隠したまま幸せの器に入ってしまうのが恐い。そんなことをしてもいつか器は壊れてしまう。こんな話をしながら泣くのはルール違反だと思いながらも、目元からは溢れ出る感情が涙となって零れ続ける。

「そんな風に考えてしまう自分が嫌いだったけど…止められなかった。あたしは速水さんが思っているほど純粋でも無いし子供でも無いんです…。がっかりするかもしれないよ。いいのかな…。そんなあたしが、速水さんの人生を変えてしまっていいのかな…。速水さん…」

涙を拭いながら懸命に話すマヤを真澄は意外そうな顔で静かに聞いていたが、やがて目を瞑り口元をほころばせた。

「君は俺にとって純粋で汚れを知らない存在だった。でも、だから俺を好きだと言ってくれても、紫の薔薇の人だったからこその憧れ混じりの感情なのかと、どこか不安でもあった。だけど、違っていたんだな。なおさら君が愛しくて堪らないよ。君が生身の女性として、俺のことを想っていてくれたということが堪らなく嬉しいんだ…マヤ」

「速水さん……」

「…君に出会ったこと…それ自体が俺の人生を大きく変えた。出会ったその時に決まっていたんだ、きっと。…君に出会えて良かった。君に出会えなかったら、なんて寂しい人生だったんだろうと思うよ」

マヤの頬に両手を添えて、穏やかに静かに想いを語る真澄の姿に気が遠くなりそうになる。これは現実の出来事なのだろうか。満天の星空が魅せる幻なのではないだろうか…。眩暈がする…。

「…例えば、君が一転して俺をまた嫌いになったとしても、例えば、速水真澄という肩書きが失われたとしても、それでも、俺は今この決断をする。全ては俺が俺自身のために決めたことだ。君がそんな十字架を背負うことは無い…。しかも俺には後悔しない自信があるんだ。だから、そんな顔をして泣かないでくれ…」

マヤの頬を伝う涙に真澄の唇が触れる。目蓋に触れ、額に触れ、唇に触れ、真澄の柔らかな感触が震えるマヤの心に真澄の想いを優しく伝えてくれる。

大切に想われている。
こんなにも自分を大切に想ってくれている。
気持ちの裏側まで全部、受け入れてくれている。
胸の中に沈んでいた黒い塊がゆっくりと溶けて消えてゆく。残ったものは抱き締めたいほど愛しい温かな気持ち。

「…あたしはどうしたらいいですか…?あたしは、どうしたら速水さんの想いに応えられますか…?」

顔を上げ真澄の目を真っ直ぐに見詰める。真摯なその目を受けて真澄はにっこりと微笑むと、マヤの額にかかる風で乱れた前髪を掻き上げる。

「そのままでいい。出会った頃から少しずつ成長する君を見てきた。これからもずっと君の傍で君を見守っていきたいんだ…」


「あたし…ずっと速水さんのそばにいていいんですか…?」


「ああ…、もちろん。俺が、君のそばにいるから…」


俺が、君のそばに…


真澄の言葉が全身にゆっくりと染み渡っていく。
二人が自分の気持ちに素直に向き合ったとき、そこにあるものは“愛している”、“そばにいたい”という、ただそれだけの、拘りも恐れも何も無いシンプルな心。


“信じなさい”

ふと月影の言葉が脳裏に響く。
ああ、そうか…。きっと月影は知っていたのだ。自分が迷いの中にいたことを。真澄が決断していたことを。


「君が日本にいない間にいろいろな事が起こると思う。圧力も世間の好奇心も。これから起こることは全て俺がけじめを付けなくてはならない問題で、君をその泥沼に巻き込むわけにはいかないと思っている。…だから、勝手なことだとは思うけれど、3ヶ月間、日本を離れてくれたら…と。その間に必ず目処を付けてみせるから」

強大な力を誇る鷹宮家、英介が睨みを利かす速水家、そして好奇の目を持つ世間をも相手にして真澄は戦おうとしている。一緒に戦うことを選ばず、わざと自分を安全な場所へ遠ざけて。

「速水さんは…一人で全て抱えて、一人で戦おうとしているんですか…?」

「一人じゃないよ…マヤ。遠い場所にいても君のことを想えばどんな難局でも乗り切れるって言ったろ。…何も心配することはない。勝ち目の無い戦い方はしないよ。君は煩わしいことなど考えなくていい。ただ紅天女のことだけを考えて過ごしていて欲しい。君が帰ってくる時には俺が堂々と迎えに行くつもりだから」


真澄の言葉には魂があって力強くて何よりも信じられて、胸の中に熱い想いが込み上げて、うん…うん…と言葉にならず、ただ一生懸命に頷く。紫の薔薇を投げつけられたあの日から、いっぺんにたくさんのことが起こりすぎて、頭の中はぐるぐるといろいろな想いが巡っている。


「速水さん…、何があっても愛してます…。速水さんの望む未来を目指してください…。あたしは、それがどんなものであっても、速水さんを愛します…」


「俺こそ君を、何があっても愛し続けるよ…」


煌めく星空の下。
見つめ合って、笑い合って、抱き締め合って、
溢れる想いを込めて、

気持ちが溶け合うキスをした。












:::



         叶わない願いは無いと 降る星に
             伝えよ 君と吾の想いを















08.04.2004






fiction menu     next