未明の東名高速を西へ向かう。 向かう先には、マヤがいる。 去りゆく年は、真澄とマヤにとって一生忘れがたい軌跡。 その年の初めに真澄は紫織と結婚し、マヤは里見と婚約寸前だった。 二人は別々の道を歩み始めていた。 絡み合う想いも視線もお互いをすり抜け 空回りして 痛む胸に還ってくる。 この想いは夢のように儚く 届くことのないまま終わるのだと全てを諦めていた。 誰かに悪意があったわけではない。 誰もが誰かを想い、愛情の糸を紡いでいただけなのに ただ 少しずつ糸を紡ぐタイミングがずれた。 あの桜の花びらの舞う日 時は思いがけなく二人が同じ道を歩むことを赦す。 逃げることも諦めることも時には必要な時もある。 けれど、一番大事なものに想いを届けるために、守るために、安らぎで包むために、するべきことは唯一つ。 恐れずに決断すること。 花びらの舞う夜、腕の中で抱き締めた愛しい存在。 この存在こそ自分の全てなのだと改めて知る。 それからの半年はただ手放しで幸せだと言うわけにはいかなかった。 それは両家の威信と真澄の信念との戦いだった。 紫織の一人の人間としての戦いでもあった。 紫織は頑なに妻の座に拘り続けた。 誠意を尽くして語りかけても、表情一つ変えず何も答えず頑として首を縦には振らない。妻でいることだけが真澄と自分を繋ぐ唯一の細い線だと言わんばかりに。 語りかけることへの疲労と、事態を打開できない苛立ちが募ってきた秋風が吹き始める頃、紫織が初めて言葉を紡ぐ。 「…たぶん… 私は真澄様に私自身を見て欲しかったのです。 初めてお会いした時から、私は鷹宮家の名誉と財をあなたに与えるだけの人形でしかなかった。勿論それが私の役割でしたし、そのことに対する不満はございませんでしたけれど…。 でも、それでも、…私が真澄様を速水家の後継者としてではなく、一人の男性として愛したように、真澄様にも私自身をご覧になっていただきたかったのですわ。 あの小さな彼女を一人の人間としてお認めになって、愛情を注がれたように、私自身をまずは認めていただきたかった。 ご覧になった結果…例え、あなたの愛情の対象にならなかったとしても…。 …でも、もういいですわ…。 この手を離して差し上げますわ。 真澄様はこの半年、充分に私を見てくださいました。 私自身に語りかけてくださいました…。 それは哀しいことに、お別れするための時間でしたけれど。 それでも… 私には必要な時間でしたのよ… 私が本当に…拙い愛し方でしたけれど… 本当に真澄様をお慕いしていたことを、どうか記憶のどこかに残してくださいませね…」 そう言って、出会った頃のように濁りない澄んだ微笑を見せた。 固く閉じられていた扉が開いた。 開いた扉からは紫織の心が溢れ出てくるようだった。 自分が全てから逃げていたことで、一人の女性の人生をこんなにも狂わせるまで傷つけたのだ。 言葉で謝罪して許されることではない。 彼女と、彼女が紛れもなく自分を愛してくれていたことを生涯忘れない。それが自分にできる懺悔だと思う。 左に大きくカーブして私道へ入る。 この先の別荘にマヤが自分を待っていてくれている。 たぶん眠っているだろう。 間もなく夜が明ける。 年末の殺人的なスケジュールをこなしマヤは一足早く休暇に入った。真澄は芸能事務所の社長として大晦日恒例の某局の打ち上げに顔を出し、深夜ようやく開放される。 無理をしてでも新しい朝はマヤと一緒にいたかった。 この半年、マヤもたくさんの涙を流した。 小さな肩を震わせて自らを責めるように嗚咽する夜もあった。 何度も何度も抱き締めた。 抱き締めることでしか想いを伝えられなかった。 そんな夜を幾度も越えて、今やっと二人で同じ歩幅で体温を感じながら歩いていけるようになったのだ。 新しい年の朝を、たった一人で迎えさせるわけにはいかない。 マヤの傍にいてあげたい。 マヤの傍にいたい。 そのまま運転席に座り伊豆を目指す。 東の空が白々と明け蒼に包まれる頃、別荘に到着する。エンジンを切り車を降りると重いドアを静かに閉める。 別荘の中はしんと静まりかえり、人の気配を感じない。 二階の寝室にいるのだろうかと、足音を立てずに階段を登る。 木製の手すりの先の廊下に一筋の光が漏れている。細く開いた寝室のドアを開けると、外の冷たい空気が真澄の頬を刺す。 寝室とバルコニーを隔てる大きな窓ガラスが開いて、カーテンが風を孕んで揺れていた。 バルコニーには黒髪の小さな後ろ姿。 「マヤ…」 名前を呼ぶだけで愛しさが募る。 そのまま後ろから抱き締める。 「速水さん…!…驚いた…。早かったね。昼頃になると思ってた」 マヤは柔らかい部屋着にコートとストールを纏って真冬の朝方、バルコニーに立っている。 「なんでここにいるんだ。風邪をひいてしまうだろう…?」 「うーん。あのね、せっかく伊豆で新年を迎えるんだから、初日の出を見ようと思ったの。こんな良いロケーションで眠ってたらもったいなくって、結局一睡もしないで日の出を待ってるの」 マヤらしい発想に笑いが込み上げる。 それならば、寝室の窓越しにも見えるだろう…という言葉は飲み込んだ。マヤはバルコニーで見たかったのだ。 「相変わらず無茶なことを…」 にこにこと笑うマヤに唇を重ねる。 冷たくて柔らかい。 「こんなに冷えてる…」 言いながら自分のコートの中にマヤを閉じ込める。 「…速水さんは、あったかい…」 潮騒がゆるやかに流れる蒼い朝。 痺れるほど冷たい空気の中で、 お互いの温もりがなによりも安らぐあたたかい場所。 「ほら…君の待っていた夜明けだ」 「うん…」 マヤの指さす東の水平線が 淡いオレンジ色に染まり始める。 |
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