死海の東側に築かれた仄暗いマケラス宮殿の大広間。
ヘロデ王の誕生祝いに一人の少女が舞を披露することになる。
純潔の象徴の白百合を手に、数々の宝石と何枚もの薄衣を身に纏い15歳に満たない少女サロメが大広間の中央に立つ。
月に照らされ不吉なほど白いサロメ。
その薄衣を一枚、また一枚と脱ぎ捨て、半裸になりながら義父ヘロデ王を誘惑するかのように、鮮烈に妖艶に踊る。
その官能的なサロメの踊りに祝宴に訪れた客も衛兵も給仕も、そしてヘロデ王も釘付けとなる。高揚したヘロデ王はその美しい舞の褒美にサロメに何でも授けると約束する。
サロメは上気した肌に笑みを浮かべ迷わずその場で褒美を所望する。

それは。
捕らえられていた洗礼者ヨカナーンの首。


洗礼者ヨカナーンは、ヘロデ王とその妻ヘロデヤの結婚をユダヤ律法にそぐわない間違えた結婚だと非難し捕らえられる。サロメは青年ヨカナーンに恋をする。ヨカナーンの髪に、その唇に触れたいと誘惑するが、神の元で生きるヨカナーンにとって、例えサロメがどんなに美しくても道ばたに転がる石ころと変わらぬ存在。美しいヨカナーンは、サロメに非難の言葉を浴びせるばかり。
全てを持ってしても振り向かないヨカナーンへの激しい愛は、歪んだ愛へ変貌する。


“舞の褒美には、洗礼者ヨカナーンの首が欲しゅうございます…!”


直ちに刑は執行され、血塗られたヨカナーンの首がサロメのもとに届く。 愛しい眼差しでヨカナーンの生首を見詰めるサロメ。その口は、すでに非難の言葉も愛の言葉も呟くことはない。その瞳は他の女を見ることもない。
体を持たないヨカナーンは、永遠に誰にも奪われることなくサロメだけのものになった 。
静かに、そのまだ温もりの残る唇に口づけをする。



ヨカナーン…。お前の唇はにがい味がする。
血なのかい、これは?

いいえ、そうではなくて、

たぶん


それは恋の味なのだよ…





















「それで、君がサロメを?」

マヤから手渡された台本を閉じながら、わざわざ聞かなくても当然なことを聞いてみる。

「そうなんです。速水さん」

目を輝かせてマヤは言う。
マヤが大都芸能に属してから、マヤの仕事はマヤ自身が選んだものを事務所が追って承認する形で進められてきた。事務所の承認とは、結局の所、真澄の承認ということなのだが。

事務所の社長と、所属女優。
全く私情を挟む余地のない関係ではある。

マヤにサロメの舞台の話を持ちかけたのは、最近めきめきと力を付け、鮮鋭な舞台を作り上げると演劇界での評判も高い若い女性演出家NaKaだった。彼女とマヤならば面白い舞台を作り上げるだろうことは想像に難くない。特に反対する理由も見つからないまま、真澄は手持ちぶさたな風情で煙草を指の上で器用に回してみたりする。


「何か気に入らないことでもあるんですか?…なんだか、さっきからやたら不満そうな顔してますけど…」


マヤが社長室の上質のソファから、心配そうに執務机にいる真澄を見上げる。真澄は、ころころとよく表情の変わる無垢な顔をつくづく眺めながら、これは一種の拷問だな…と思う。感情を露骨に顔に出すことも、言葉にすることも許されない。

例えばマヤが真澄の恋人だったのなら。
男を誘惑する役など…とか、舞台の上で裸になるつもりか…とか、他の男と口づけをするのか(たとえ生首でも)…などと、やんわりと拒否の空気を漂わせることができるだろう。
それが、くだらない独占欲と嫉妬だとしても。
だが、立場は所属事務所の社長と女優のみ。
真澄の個人的感情は排除して、社長として女優の成長を考えれば、これは良質な企画には違いない。少女の面影を残しながらも妖艶な女性を演じること、そして、サロメの感情をむしろ純粋な愛として表現すること。
マヤならば、誰にも出来ないサロメになる確信はある。

わかってはいるのだが。


「もう少し考えさせてくれ。今すぐには承認できないな」


真澄が静かに言いながら台本を執務机の脇に置くと、みるみるマヤの顔が曇る。脇に置いた行為は、明らかにこの件は終わりだと言っているかのようだ。


「どうして?どうして、ダメなんですか?」

「駄目とは言っていない。考えさせてくれと言ったんだ」

「…何を考えるんですか?即決できない理由はなんですか!?」


執務机を回り込み真澄の目の前に立ち必死に理由を尋ねるマヤに、真澄は返事のしようもない。どう言えばいい?君のそんな姿など見たくないとでも言うのか。例え虚構の世界だとしても耐えられない、とでも?


「あたし、サロメになってみたいんです!あたしの中にある何かが、サロメになれるって言っているんです!お願いです、演らせてください!!」


この子は昔から変わらない。自分を恐れずに、やりたいことに真っ直ぐで。その目だ…。心奪われずにはいられない真剣な眼差し。


「…君に…、この役が演じられるのか?」


マヤが露骨に不快な顔になる。不快なのか傷ついたのか。最近のマヤは時々こんな顔をする。からかう、軽口を叩く、煽る。以前から彼女に対してだけ当たり前にしてきたことに、喰って掛かるわけでもなく、無言になるでもなく、傷ついた顔をされてしまう。誰よりも傷つけたくない人を一番傷つけているのは真澄自身なのかもしれない。


「…つまり、あたしにはサロメは無理だって言いたいんですか?あたしみたいな子供には、男を誘惑する役なんて無理だって言いたいんですか?」



これは拷問だ。
言いたいことはそうじゃない。体中のもやもやとした想いは、何年もの間何千回何万回とそうしたように、喉の奥に強制的に飲み込むのだ。考えろ。次に自分が言うべき言葉はなんだ。口先だけに頼っていては、目の前の瞳に思いも掛けないことを言ってしまいそうになる。


「君に男を誘惑などできるのか…?サロメのように…?」


発した言葉が正しい言葉だったのかは、マヤの表情を見てもわからない。


何秒そうしていただろうか。

真澄がマヤの瞳の奥を見詰め、マヤもまた真澄の瞳から何かを取り出そうと見詰める。


マヤは大きく一度息を吸い、吸った空気を全て吐き出す。
その華奢でしなやかな右手を、すぅっと椅子にいる真澄の視線の高さに上げた。


その瞬間、

社長室の空気が一変する。




マケラス宮殿地下の牢獄。
そこにいるのは、すでにマヤであってマヤではない。
恋に堕ちたサロメと美しき洗礼者ヨカナーン。


サロメの右手の指先がヨカナーンの頬を撫でる。


「ヨカナーンよ…。そなたが私に口づけすれば、私がそなたを自由の身にしてあげようぞ…」













有り得ない出来事に真澄の呼吸が止まる。
頬に当たる指先がじりじりと肌を焦がしていくような気がした。


いったい…

いったい、誰に恋をしてこんな顔をするのだ…?
いつのまにそんな顔をするようになったのだ…?
これが演技だとでもいうのか…?


行き場のない怒りなのか困惑なのか嫉妬なのか、処理しきれないどろどろとした渦が真澄の脳内を支配する。


「誰が君にそんな顔を覚えさせたんだ…」


絞り出すような低音の声に、サロメの瞳がマヤになる。
だが、小刻みに震える指先は真澄の頬に触れたまま、もはや離すことなどできない。


「誰が…?」

哀しげに歪んだマヤが小さく笑う。


「……その人は神への忠誠ではなく、美しい婚約者に忠誠を誓っている…。あたしは生首にキスする代わりに、舞台の上から死ぬほどの愛を捧げる。舞台の上にいるときだけは、その人は婚約者ではなく、あたしだけに魂を奪われていることを知っているから…。その時だけは永遠にあたしだけのものだから…」


舞台の上のマヤから真澄に大波のように押し寄せるオーラ。感情。
その舞台を観ている他の人間も同じように感じているかは知らない。確かめる術もない。 だが、真澄は必ずその波に身を任せていた。
恍惚とした異空間。
震えるほどの感情の高ぶり。
自分に向けられてくる確証の無い愛情と幸福と不幸。

漠然とした疑惑が確信に変わる。

マヤの延ばした右手首を真澄の長い指がなぞる。その指は腕をゆっくりと登り、肩を超え首筋を撫で、背筋をなぞって腰まで降りてゆく。ぞくりとするその指の軌跡を、マヤは息を飲み感じる。耐える。体中の血がその軌跡だけを激しく流れた。


「君が誘惑する男は、たった一人…、俺だけでいい…」


椅子に座ったまま、腰を引き寄せるように抱き締める。
胸に顔を埋める。


ヨカナーンはきっとサロメに恋をした。しかしヨカナーンは神への忠誠を破れなかった。体を持たない首だけの姿となりサロメに口づけされたヨカナーンは、おそらく微笑んでいたに違いない。


真澄は婚約者への忠誠を破る。
このヨカナーンはサロメよりも遙かに長い間、恋に溺れているのだ。自らの膝に脱力するマヤを座らせる。見上げるマヤの瞳は大きく見開かれ、妖しく恋に潤んでいた。


「君に口づけをすると、自由の身にしてくれるんだろう…?」


ゆっくりと顔が寄せられ、頬に吐息が触れ、唇の体温が重なる。膝の上でマヤが軽く身震いをする。その口づけが神に許されたものでなくても、真澄は確実にひとつの拷問から解放された。マヤへの愛を強引に封印するという拷問から。
この解放が別の様々な苦しみを呼んだとしても、愛情を封印することに比べたら、なんとたわいのないことなのだろう。


「舞台の上にいるときだけじゃない…」

「俺は、今までもこれからも…、死ぬまで君だけのものだ…」


マヤが声を殺して泣いた。
真澄の首に縋り付き、髪に指を入れ、何度も何度もその言葉を確かめるように抱き締めながら。



愛しさに、胸が痛い。口づけをするほどに。

どんなに髪に触れても、どんなに深く口づけをしても、そのたびに愛しさは募り、胸の痛みはさらに増していくばかりだ。

  恋の媚薬とはよく言ったものだ…


      もう二度と




        この腕の中から


        マヤを離すことなど







                   できない


















fin



05.15.2004








あとがき



■NaKaさんのリクエスト

マヤちゃんにサロメのイメージで真澄さんのヨカナーンを誘惑してほしいです。 「サロメ」のヨカナーンは誘惑を拒むのですが、真澄さんのヨカナーンはどうかな?(笑)




■NaKaさんより

いや〜、マヤちゃんの表情がとてもいいですね。
何か、ゾクリとさせるものがあります。
あと、ベールやストールの質感はどうやってだしているのですか。
見事でした。
あ〜、原作でもマヤちゃんにこんな表情で真澄さんに迫って欲しいものです。 そうしたら、マヤちゃんのことだけはマイナスにしか思考できない真澄さんの精神構造(理性)は破壊されて、あとは情熱の赴くままに行動してくれるかな(笑)
 
「君が誘惑する男は、たった一人・・・、俺だけでいい・・・」
 
こんな台詞を原作でもきいてみたいものです。 せめて私が真澄さんの母親といってもおかしくない年齢になるまえに・・・(笑)



■咲蘭の言い訳

…ええ、あっさり誘惑されちまいましたね(笑)。真澄ヨカナーン。


ギュスターヴ・モローというフランスの画家さんがいらして、その画家が描いたサロメの絵“出現”に出会ったのは中学生の頃。一気に惚れて、モローの習作を模写したりして遊んでおりました。そんな私にサロメのお題とはっ!!NaKaさんブラボー!!嬉しくてリクエストのメル読んで、すっかり脳内そっちの世界に行ってしまいました(笑)。
新約聖書の逸話を元にしたオスカー・ワイルドが著した戯曲「サロメ」のサロメとヨカナーンの関係は、とっても歪んだ愛で、でも純粋な…。
…とは言え、戯曲「サロメ」を私はきっちり全部読んだことがありません(スイマセン〜〜〜!!ただのモロー好きですっ)。よくご存じの方がコレを読むと、青筋立ててお怒りになるかもしれません。今のうちに謝っておきます!!
せっかくのリクエストなので、もっと明るい方向のお話でも…と思いつつ、筆はどんどん妖しい方向へ…。
どうも、大変失礼いたしました。
こんなものでよろしければ、どうぞ貰ってやってください!!

NaKaさん、44,444ゲト、ありがとうございました!!




ところで、サロメの相手の名前、ヨカナーンだったりヨハネだったりして、どっちが本当なんだろうと思っていました。今回調べて、やっとわかりました。新約聖書ではヨハネと呼ばれ、オスカー・ワイルドの戯曲ではヨカナーンなんですねぇ。いや、勉強になりました。
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